◆理事長ー歴史の散歩道 4ー
蔀屋北遺跡 (しとみやきたいせき)
(大阪府四条畷市)
馬は元来日本にはいませんでした。
朝鮮半島から渡来人により導入されました。
古墳時代のころで(5世紀前半)のことです。
四条畷市の蔀屋北遺跡の地域は、古代においては、河内湖内に入ると考えられていて、
遺跡は存在しないと古くから言われておりました。
平成13年度から始まった調査で、この遺跡が発見されました。
*(大阪府 近つ飛鳥博物館にて)
馬の遺骸(馬埋納土坑)
四条畷市は、生駒山系の北部の山麓に広がるところです。
かつては、河内湖に面していました。
5世紀初め、この地に渡来人により馬の飼育技術が伝えられ、
牧が始まりました。
馬一頭分そっくりの骨格が、この地で見つかりました。体高は124cm前後で、
歯の寸法から年齢は5~6歳ごろとみなされています。
(*なわて水みらいセンター敷地内にて)
右手赤印が馬の埋納土坑の場所です。
「長辺2.03m、短辺1.52m、深さ30cmの隅丸長方形の土坑内に埋葬された馬が
そのままの位置で良好な状態で出土しました。
馬は頭部を北側に向き、右側位を上にした横臥姿勢をしていました。」
(四条畷市史 第5巻 P194-195)
*(大阪府 近つ飛鳥博物館蔵)
往時の馬の骨格が復元され展示されています。
復元のモデルになったのは、日本の在来種である宮崎県都井岬の「御崎馬」です。
この在来種は、今でも悠々とこの宮崎県の先端で、100頭近くが生息しています。
蔀屋北遺跡は、河内馬飼いの集落として、5世紀後半から6世紀後半が最盛期でした。
「出土品には、韓式系土器や初期須恵器、かまどの焚口を保護するU字形板状土製品、
準構造船の船材などがみられ、
渡来人や彼らと関わりの深い人びとが暮らしていたことがわかります。
また馬の骨や馬の飼育に必要と考えられる鞍や鐙、轡などの実用的な馬具、
大量の製塩土器なども見つかっており、馬にかかわりの深い人々の存在も想定されています。
河内における渡来人の生活の在り方や「日本書記」などに見える「河内馬飼」との関連を
考える上でも興味深い遺跡です。」
(「考古学から見た日本の古代国家と古代文化」P52 近つ飛鳥博物館刊)
四条畷市の歴史資料館の方々からいろいろと説明を聞きました。
資料館の方々から、蔀屋北遺跡の出土品の数々が、
現在、大阪歴史博物館にて展示されているというので、
ご厚意で、無料の招待券をいただき、大阪歴博を訪ねてみました。
木製の鐙 馬のムチとブラシ
馬の埴輪 移動式かまど
「河内に定着した馬生産の技術は、やがて長野県や群馬県といった東国や、
宮崎県など南九州へも展開し、倭国の馬生産を支えるのです」。
(「考古学から見た日本の古代国家と古代文化」P50 近つ飛鳥博物館刊)
馬はどこからどうやってきたのでしょう。
朝鮮半島の百済あたりを出て、対馬、壱岐を通過して関門海峡を通り抜け、
瀬戸内海へと入り、一気に大阪湾までやってきて、当時未だ湖であった河内湖へ入り、
讃良(さらら)の地域(蔀屋北遺跡)へと上陸したのでしょう。
馬は木造船に乗って
(四条畷市史 第5巻 P183所収の古代船より転載)
丸木船をいくつか合わせ、横の舟板を高く嵩上げした木造船を「準構造船」と呼んでいます。
船の下の部分が丸木舟、上の部分が、横から来る波を防ぐ意味での板材を組み合わせたものです。
馬は半島内で生育し、それ相当な調教を受け、船に載せられ、はるばる日本まで渡ってきたのでしょう。
この木造船は、大阪へ到着すると、井戸の井戸枠の材料として再利用されています。
その井戸枠はモミの木を使っています。
モミの木を使った井戸枠が、この蔀屋北遺跡では6か所発見されています。