◆ブランドの力

 

「歴史と文化を学ぶ会」副理事長 橋爪 雅彦

 

ブランドの力 地域の伝統と産業に思う

ーブランドの力の背景には、かならず歴史があるー

 

県外の誰か知り合いを訪ねるときは、

この群馬の地から何かお土産をもって伺います。

 

今回は、何にしようかと思いあぐね、

あれにしよう、これにしようと思案した挙句、

群馬県って、ほんとうにお土産にするものがないな、と実感します。

 

これが、私が香川県の出身なら、

迷わず「さぬきうどん」です。

  

また秋田の出身なら、「稲庭うどん」です。

これならやはり日本全国、知らない人はいません。

 

名古屋なら、やはり「名古屋コーチン」でしょうか。

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ブランドとは、誰もが知っていて、誰もが欲しがる製品、

しかもある程度高級感が漂う製品ということになるでしょうか。

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◆ かつて群馬は、養蚕と生糸と織物で栄えました。

伊勢崎では、伊勢崎銘仙:

 これは、むかし乃木大将が学習院の校長時代、

学習院女子部に「伊勢崎かすり」を制服として採用すると、

一挙にその名は日本全国へ広まりました。

 

 

桐生では桐生織:

いうまでもなく11代将軍家斉(いえなり)がお召しになると、

いちやく「桐生お召し」となって全国へその名を馳せました。

 

伊勢崎銘仙、桐生織、どちらも当時のブランドです。

時代の勢いとともに、群馬の名産品の力も消えてしまったようです。

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へぎそば

 

さて、新潟には、「へぎそば」というものがあります。

創始者である十日町の小嶋屋さんは有名です。

そばを打つときには、つなぎに山芋とか小麦粉とか、

何かを使います。

へぎそばは、海草である「ふのり」をつなぎに使います。

これは、かつて、新潟では、織物をこしらえるとき、

横糸をピンと張らせるため、海草の「ふのり」を使っていました。

その「ふのり」にヒントをえて、小嶋屋さんは、

へぎそばに使って成功を収めたわけです。

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広島針

どこへ行ってもそれなりの名物というものはあるわけですが、

広島県に行きますと、

昔からの「広島針」が有名です。

手縫い針は国内シェアーの90%を占めると云われています。

つまり日本で使われている手縫い針は、

ほとんどが広島産ということになります。

 

その沿革は遠く江戸時代までさかのぼります。

広島藩が下級武士の内職用に広めたのがきっかけです。

また広島は言うまでもなく、

島根、鳥取とならんで「たたら製鉄」が盛んでした。

そこから出来上がった鉄を針用に加工して、

盛んに日本全国へ売りさばきました。

 

世界のブランド モルテンとミカサ

バレーボールやバスケットボールの国際公認ボールとして、

今や全世界で有名になっているのが、広島県にあるモルテンとミカサです。

どちらも広島の手縫い針を下敷きにして、

バレーボールやバスケットボール,サッカーボールの製造をはじめ、

どこの国でも、国際試合には、このボールを使うようになっております。

 

もともとミカサは、20世紀初頭、ゴムの製造工場として発足し、

またモルテンは、ミカサにいた技術者が独立して立ち上げた会社でした。

両社ともゴムと針を使う技術が一体となり、

今のブランドが出来上がりました。

 

◆千歯扱ぎ(せんばこぎ)

江戸時代から昭和の初めまで使われた脱穀用の装置です。

鳥取県の倉吉で盛んに製造されました。

中国地方の倉吉は、「たたら製鉄」の産地を控え、

鍛造もまた盛んであったことから、

水平に並べた鉄製の刃に、稲や麦の穂を引っ掛けて、

モミを抜き出しました。

昭和の時代、電動の脱穀機が出来上がるまで、

どこの農村でも使われたものです。

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こう見てくると、なにやら、ブランドは、

一朝一夕に出来上がるものではないと思われます。

もちろん製品の品質というものに磨きをかけるのは言うまでもなく、

また協同組合等を作って、一定の品質を永続的に保つ努力、

そして何らかの形で、公権力が側面からバックアップすることも多々あります。

 

島根県の「たたら製鉄」の歴史を見ていますと、

たたら製鉄の経営者たちは、地方の小領主のような存在で、

松江藩からその人数を限定され、特別な許認可を受けていました。

たとえば、

・鉄山(炭を製造する樹木の伐採用の山)

・腰山(雑木林。やはり炭用)

・鉄穴山(砂鉄を採取するための山)

これらを「たたら製鉄」所用に保護し、

そのためには、彼ら経営者が所有する山林だけでなく、

藩が所有する藩有林までもその使用を許可していました。

 

またある時は、鉄穴流し(かんなながし)のため、農村の河川に洪水被害が出ると、

藩は、鉄経営者たちからの納入金を使い、河川の浚渫をしています。

 

また江戸時代のなかごろ(1780)、

徳川幕府は、鉄の自由販売を禁止して、

大阪に鉄座という公的市場を開設しました。

すべての鉄製品は、大阪鉄問屋に集められ、

大阪町奉行・鉄座へ申告されました。

鉄類は、すべて鉄座が買い上げ、価格を決定しました。

そして鉄の仲買へ売却されました。

 

この時、鉄価格は暴落しました。

これは7年間続きました。

鉄経営者たちは、松江藩に援助を願い出、

松江藩は、藩士を大阪へ派遣して、鉄経営者たちのために、

大阪の資本家より資金の借り入れをしています。

 

また江戸時代、鉄経営者たちの経営が、時代の変動で、

にっちもさっちも行かなくなった時、

藩は、鉄経営者たちの「たたら場」を藩の預かりとし、

鉄経営を、一時的に、藩有として、

鉄経営者たちを藩の手代にして、

たたら製鉄はそのまま運営させています。

そして時代の趨勢で、またたたら製鉄が軌道に乗ってくると、

藩は、その経営を、鉄経営者たちに返しています。

 

島根や広島の「たたら製鉄」がブランドになれたのも、

鉄の優れた品質もさることながら、

公権力、松江藩や広島藩のようなバックアップが整っていて、

はじめて永続的なブランドが出来上がったとみて差し支えないようです。

ー終わりー