◆文化の受容と展開

「歴史と文化を学ぶ会」理事長 結城 順子

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 文化の受容と展開

 日本も戦後目覚ましい経済発展をしました。

かつては、世界銀行から借金をしたりして新幹線などを作りましたが、

今や、世界に資金を提供する側に回っています。

そしてその経済力を背景に、途上国へ援助をしています。

 

 

日本発の技術や文化も途上国向け、盛んに出て行っています。

 

はるかな昔、日本の古代においては、

朝鮮半島からの渡来人たちの文化と技術が、渡来人たちとともに招来され、

日本の文化を幅広く多彩なものにしてきました。

 

古代の歴史を見ていますと、

なんだかそれほど多くの困難を経ずして

渡来の文化と技術が招来しているように見えますが、

そして日本人もそれを受容吸収し、展開していったように見えます。

 

おそらく、はるかな古代のことだから、多くのニュアンスが抹殺され、

私たち現代人にそう見えてくるのでしょう。

翻って、近代の歴史を見ていますと、

文化や技術の受容吸収、そして展開はそうやさしいものではありません。

 

近代の鉄生産の受容ー失敗もありましたー

幕末、世界の趨勢の上からも、武力として大砲が必用になってきました。

最初は、砂鉄から作った和鉄で、砲身を製造したものの、

和鉄では発砲の瞬間、砲身は破裂しました。

そこで、

当時のオランダから輸入されたヒューゲニンという人が表した技術書を翻訳し、

それを見様見真似で反射炉を作りました。

が、結果は芳しいものではありませんでした。

佐賀藩や韮山の反射炉がわずかな成功例として喧伝されています。

が、当時、各藩は、鉄砲や大砲や軍艦をこぞって外国から輸入しています。

反射炉からできた鉄で、大砲や軍艦を作ったなどという例はほとんど聞きません。

 

ヒューゲニンの著書だけを頼りに、

当時、ひとりの外国人技術者の立ち合いや指導もなく、

反射炉を作ること自体、相当、無理をしていたと言わざるをえません。

 

明治になり、日本政府は、外国から17名の外人技術者を釜石に送り込み、

ヨーロッパ式高炉での鉄生産に踏み切りました。

これは最初出足が良く順調に行くかと思われました。

大勢の外人技術者に囲まれ、技術的には何の心配もなかったのですが、

鉄生産の始動から200日を立たないうちに、日本政府は挫折しました。

政府は釜石鉄山を廃坑にしました。

失敗の原因は、木炭の生産と輸送でした。

高炉に使う木炭が充分生産できず、

また輸送するに足る鉄道その他のインフラがありませんでした。

 

いわば、外国からの技術を受け入れる社会基盤(インフラ)が欠如していたということになります。

 

外国からの文化や技術を、受容して展開するのは、大変なことです。

(釜石鉄山は、それから相当な年月を経過した後、民間の田中商店へ払い下げられ、

田中商店が見事に蘇生させるわけですが、それにはまたそれ相当の歳月と尽力が必要でした。)

 

田中商店の成功により、国家は、福岡県の八幡村に大きな官営製鉄所を作ります。

1900年初頭に初めて本格的に鉄生産を軌道に乗せることになります。

明治初年度の失敗から、それなりの時間と経験が必要だったということです。