栄月日記

2020 / 08 / 17
22:30

守・破・Re:

 玄関の扉を開けたら秋の匂いがした。でもそれは戸に鍵をかけるまでの間だけで、微かな匂いはどこかのぶどう畑から漂う煙で消えてしまっていた。山梨のなかでも特にぶどう畑の多い地域なのだ。それでも鼻の奥の柔らかい部分に秋の感触が残った。純粋な秋の匂いだ。夏の終わりと秋の始まりの天秤の傾きがわずかに逆転した日だったのかもしれない。

 金木犀だったり、それこそぶどう畑で燃やした煙だったりと、秋に準ずる匂いはあるが、それよりもっと希薄で、匂いというよりは温度に近いようだった。

 

 現実の季節の移り変わりなんてとても曖昧だけれど、世間はスイッチを切り替えるように秋にシフトする。煎餅を焼きながらラジオを聴いていると9月1日からこっち、アース・ウインド・アンド・ファイアの「セプテンバー」とラッドウィンプスの「セプテンバーさん」をこぞって掛けていることがわかる。どちらも5回は聴いたし、カヴァーされたものも流れた。モンブランの特集を組んだり、薄めの生地でできた秋用の腹巻の紹介がされたりした。iPad Airの新型が出ることも伝えられた。 新作発表会はいつもこの時期だ。

 自分の周りが秋に移行したからか、意識せずとも読書が捗る。本屋で村上春樹訳のレイモンド・チャンドラー『ロング・グッバイ』があったので読んでいる。名前は知っているけれど手を出したことのない名作を読むと大人になったな、と思う。なんとも不純な動機で読書をしているものだと自分で呆れる。『死に至る病』や『世界の中心で愛を叫んだけもの』なんかも、いつかは読んでみたい。

 

 ついこの間まであんなに熱かったというのに。そういえば、八月が終わる頃にはフジファブリックの「若者のすべて」が良く流れていた。山梨の人々にとって馴染み深い曲かもしれない。

 

 今年の「最後の花火」はいつだっただろう、と考える。今年は通常の花火大会は軒並み中止になったが、何度かゲリラ的に花火が打ち上げられることがあった。午後八時、時報のように打ち上げられた花火をベランダから見たのが「最後の花火」だった。ぶどう畑の多い地域にいると、ベランダから花火が見えるのだ。

 

 打ち上げ花火は「序破急」である、という文章を高校一年のときに授業でやった。打ち上がり、花が開いて、夜闇に消えていく無常を楽しむ日本人の感性についての文章だったと思う。違ったかもしれない。とまれ、私は国語や現代文の授業は得意としていたから、よく発言したものである。

  「なんで『序破急』なんて言葉知ってる?」

  「ヱヴァのタイトルで」

  「そうだな!」

 そこから先生が語り出したのを今でも覚えている。クラス担任でもあり、とても良い先生だった。少し荒い言葉遣いではあるが生徒をよく見ていて距離感が近かった。板書が汚く、消すときも大雑把だった。マラソンが趣味で体が引き締まっていて、食事に気を配るあまり果糖ぶどう糖液糖を心から憎んでいた。そして、『Q』の公開を待つ同志だった。

 

「序破急」とは、芸道における三部構成のことである。これをネットでサーフィンしながら調べていて関連項目から辿り解いたのが「守破離」である。まさに高1の頃のことだ。

 

 規矩作法り尽くしてるともるるとても本を忘るな

 

 わび茶を完成させたといわれている千利休がまとめた『利休道歌』の言葉である。「守破離」は、この言葉を引用したものであるらしい。(「らしい」や「諸説あり」となっている言説は基本、半信半疑でいるのがいいと常々思っているのだけれどその話は別の機会に)

「守破離」は茶道・芸道の師弟関係のあり方の一つで、文化発展のプロセスを表している。(意味は調べればwikiにあるので割愛)

 

『厚焼木の実煎餅』にも「守破離」があてはまるのかもしれない。

 と、そんなことを思う。

 

 もちろん、まだ「守」の段階である。「破」も「離」もまだ先の話だろうし、その段階がやってくるかもわからない。でもどの段でも「本を忘るな」を覚えておきたい。というか、「本を忘るな」というのが一番肝要である気がするのになぜ「守破離本」ではないのか。見た目も語呂も悪いのは否めないけれど。「もう一度」「繰り返し」というニュアンスを含んでいる "Re:" を用いることで「初心を繰り返し思い出せ」ということで『守・破・Re:』を提唱していきたい。きっと、広まらないが。

 

 よし、タイトルにつなげられた! ずいぶん遠回りをした気がする。(了

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