講師(宗夜)ブログ

2023-02-12 12:57:00

●世を治むる道、倹約を本とす。

よし庵の水屋の棚にずらりと並んでいる茶入、棗、茶碗。そして控室に座る様々な棚。

 

これらは時間を掛けて宗嘉先生が一つ一つ揃えた茶道具。私たちの大事な仲間です。

生徒さま達もそのように感じてくださっているようで、新しいお道具が入るたびにとても喜んでくださいます。

先日もお稽古の後に生徒さまが声を掛けてくださり、お道具をお見せしました。

よし庵の生徒さまは、皆さまとても丁寧にお道具を扱ってくださいます。

ですから私どもも安心してお任せすることが出来ます。

 

『わぁ、きれいな色』

『優しくて温かい感じがしますね』

『しっくりと手に馴染んできます』

『お裂地も美しい織です』

 

茶入を囲んで生徒さま達が口々に感想を述べて鑑賞を楽しんでおられました。

優しく掌に包まれている茶入は幸せそうでした。

人の体温と愛情を受けている茶道具やお茶碗は、本当に長持ちするそうです。

ありがたいことです。

 

しかしこれらのお道具は、最初から揃っていたわけではありませんでした。

私がお教室に入った時には驚くほど質素でした。

どうしてもっと早く買わないのかなと訝しく思うほどでした。

 

宗嘉先生は決して無理をせず、教室の規模とレベルに合わせて、本当に少しずつ揃えていきました。

購入できる余裕があったとしても、時を待つ。

自分を大きく見せようとしない。

大木が時間をかけて年輪を重ねるが如く、静かに少しずつ、しかし着実に。

ふと気がつくとずらりと並んでいました。

あれ…いつの間に。

これが人の道か…。

 

●世を治むる道、倹約を本とす。

(徒然草 第百八十四段)

 

徒然草にも同じような内容の段があります。

鎌倉時代の第5代目の執権、北条時頼の母の記述です。松下禅尼(まつしたのぜんに)という方です。

松下禅尼が障子の煤けたところを修繕していました。

それを見た人が『部下にやらせますから』と言って手を止めるよう言葉を掛けます。

『ところどころを修繕するよりも、綺麗さっぱり新しく貼り替える方がよろしいでしょう』と。

すると禅尼は『ゆくゆくはそのつもりです』と言ったのちに、『だけれども今はこれで』と自分の気持ちを通します。

『不具合を修理しながら用いる心づけを若い人に見せるためなのです』

と言います。

執権家なので、もちろん潤沢な資金を有している。一新しようとすればすぐにでも出来る。

けれども欲望に溺れる怖さをよく分かっている。

さすが賢人の母は只者ではない。

と吉田兼好は感心しています。

 

どうやら成功するには法則が存在するようです。

いつの世も、賢者は自分の欲望や見栄を制し、成功に導く光を見失わないのだろうと思います。

 

私たちが日々お稽古している侘び茶を築いた利休居士も豪商の身。

詫びの美。

この美は絶妙なバランスの上に成り立つものではないかと最近思うようになりました。

ただ質素なのではない。貧しいわけではない。

その時々の自分の分を弁える分析能力が必要。

商人の目のような気がします。

万が一失敗した場合に痛手を最小限に留める工夫です。

 

宗嘉先生の指導を受け始めた当初、私はその詫びの精神からとても遠いところにありました。

私は書籍を買い集める癖がありました。

沢山の本を買い込み、貪るように読んで、知識を得て、自分を何重にも武装していました。

ある時、宗嘉先生に一喝されました。

 

『だからそれが何なんだ』

知識があるのは認める。

だからと言ってそれが何なんだ。

そういう人は本を何冊も買い込んで棚に並べて、ずらりと揃った本を眺めて賢くなった気持ちになっているんだ。

そんなものは何の役にも立たない。

今日びパソコンを叩けばいくらでも情報が出る。

しかもその知識は身についているのか。

ついてないだろう。

身についた人はそんな風に鼻にかけないものだ。

 

ああ、本当だ。その通りだ。

叱ってくれてありがとうございました。

謝罪と感謝の気持ちを伝えて、先生の言葉を噛み締めました。

 

それではその後の買い集めはなくなったのかと言うと、そうではなく…。

人間の業とは簡単には拭い去れないもののようで、長らく買い集めの習慣は続きました。

 

数年掛かって、最近ようやく自制する心が育ってきたようです。

 

茶を点てることが一体何になるのか。

お菓子と茶を食すことが人生の何に繋がるのか。

一言で表現することは難しい。

だけれども、真っ直ぐに立って、真っ直ぐに座って、真っ直ぐに歩く行動を繰り返しているうちに、少しずつ少しずつ道筋が見えてくる。

 

私にとって茶の湯とは人の道です。