講師(宗夜)ブログ
所作(26)●茶道のDNA
茶道を習い始めた頃、友人から驚かれました。
『え?2時間もかけてお茶飲むの?一体何してるの?』
何って…。立ったり座ったり、案外忙しいのよ。
『だってお茶飲んでお菓子食べてるだけでしょ?』
えぇっと、もうよく分かんない!
習い始めだったので、茶道が一体何なのか自分もよくわかりませんでした。分からないから反論も出来ずにいました。
よく分からないけど、なんか心地いいの。
心の中でそう思っていました。
この感想、曖昧なようで本質を捉えていると今思います。
この心地よさは習い始めから一貫してずっと感じています。一度も途切れたことがないのです。
点前座に入り、茶道をしていると、宇宙空間に浮かんでいるような感じがします。
重力を感じるような、感じないような、
音が聞こえるような、聞こえないような、
見えるような、見えないような、
水の中にいるような感覚に近いかも知れません。
だけど孤独ではない。
母親の胎内に戻ったような懐かしさがあります。
一人で座っていても、
生徒さまと二人で座っていても、
zoomで画面越しに生徒さまと座っていても
どのような座り方でも同じように心地よいのです。
点前座に居る間じゅう自分を発見しているからかな…と私は思っています。
ふと、乳児の頃の息子の様子を思い出しました。
生まれて数ヶ月の子どもは色々な物に興味を持ち、常に手足を動かしていました。
足も手もベロベロと舐めて、感触を確かめていました。時々噛んで痛みも確認していました。
手指を開いたり閉じたり、足指も開いたり閉じたり、不思議でたまらない様子でした。
『何やねん、これ。何やねん…』
そのうちに身体をひねって体幹からお尻とか脚とか、グルグル回りながら自分の身体の
全体を眺めていました。
『あら?これ、つながっとう…』
『‼️』
『これ…、自分かぁ!』
ある時、自分という存在を認めたようでした。
そんな風に私には見えました。
言葉は喋れないけれども目力が強くなったと思います。赤ちゃんは大きな眼でまっすぐ
に大人を見つめます。こちらの心を見透かしているようです。一体何を見ているんだろうと思って、私も見つめ返しました。
2歳になり言葉を操れるようになった時、驚くような行動をしました。
『あれ‼️』
ご飯を食べていて突然大きな声を上げました。
そして自分のおでこを私のおでこにくっ付けて言いました。
『おかあさん、まぁちゃんの声聞こえる?』
『聞こえないよ。』
『え?』
『それはまぁちゃんの心の声。まぁちゃんの心の声はまぁちゃんだけのものなの。まぁちゃんに心の声があるようにお母さんにもおかあさんの心の声があるんだよ』
『そうなんだ…』
この時、声のトーンが急に落ちて寂しそうに見えました。本当に寂しかったようです。
私自身はここまでハッキリとした行動は出さなかったと思いますが、小学生頃に自分の心の声に気付いて驚いたことを覚えています。
そしてやはり寂しかったように思います。
寄る方のない寂しさといいますか、何とも頼りない、孤独感がありました。
その孤独感は大人になっても続いていきました。
大人になってからの孤独感は、子ども時代の孤独感とは少し異なります。
自分という個体が、他から切り離された存在であることは既に分かっている。
けれども、どこからどこまでが自分なのかがよく分からない。
相手の個体もどこから始まっているのかよく分からない。
だからつい踏み込み過ぎて何かとトラブルが起きる。
トラブルを起こしたいわけではないのに…
自分自身を掴めないから、相手の反応がやたらと気になる。
他人からどう思われているのか。いちいち気にしてしまう。
そしてそれに疲れてしまって、どうせ自分のことなんて誰も分かってはくれないんだ…と思う。
このような感じの孤独感です。
ところが、茶道を始めてから、私はこの孤独感から徐々に解放されていきました。
茶道は、まぁ面倒くさい。
さっさと食べて飲めば良いものを。
作法にがんじがらめにされていて、やたらと時間が掛かる。
足の動きも手の動きも全部決まっていて、台詞まである。そして台詞以外は静かにしていなければいけない。じっと座っていなさい、とか言われる。
『さっきお菓子とお茶を頂いたし、本当はもう帰りたいんだけどな…』
なんて思っていたら先生から
『はい、次は工藤さんね』
と声を掛けられてしまった。
(えー^^;)なんて内心思いながら、きちんとお辞儀をすると何となく心が整う。
お稽古が始まると、あまりにも先生が一生懸命に教えてくれるものだから、恐縮してしまう。
さっき面倒くさがってごめんなさい、と思う。
そして、心地よい。
ああこんなに一生懸命に向き合って貰ったの、いつぶりかなぁ…。
しかし、やっぱり面倒くさい。
『帛紗は小指と薬指だけで持って、他の3本指で蓋を持ちなさい』
(はぁ〜?そんなことやったことないし…)
でもやっぱり、あまりに一生懸命に教えてくれるものだから、吊られて一生懸命にならざるを得ない。
『そうそう、そんな感じ』
(なんか褒められた、ヤッター)
あまりに先生が一生懸命だから、何度も同じことを注意させては申し訳なくて、家で練習して行くと
『今日は違うお点前をしましょう』
(マジすか…)
だけれど、言われた通りにやって行くと、
段々と指の一本一本が動いていって、自分の身体と意識が徐々に一体化して行くのを感じる。
神経が指先まで伸びていって、しっかりと意思を届けてくれているのを感じる。
自分の身体のアウトラインを理解し始める。
それからテリトリーも。
扇子によって区分けされたテリトリー。
自分の位置は扇子によって隔てられ、相手の位置も扇子によって隔てられ、テリトリーを侵してはいけないと視覚によって教え込まれる。
畳の縁も大切で、畳は全て名前がついており、それぞれの役割を持っている。
左右の足を間違えて踏み入れると
『違う、左足!』
天変地異でも起こったように先生の声が飛ぶ。
(そんな大袈裟な…)
と思わないでもないけど、やっぱり先生が一生懸命だから、なんかごめんなさいと思う。
そんなことを数年繰り返していくうちに、人間関係のトラブルも感じなくなっていきました。
自分の身体と心のバランスが取れるようになり、コントロールが効くようになったからかもしれません。
そして、自分は宇宙の一部であることを感じ取れることも大きな理由の一つです。 分子構造の中の原子みたいな、そんなイメージです。自分と相手とは見えない絆で繋がっている感じがします。
信頼関係という絆です。
そして講師になった私も、やっぱり一生懸命。
先日、生徒さまが後輩の生徒さまに水屋でのお仕事を教えてくださっていました。
生徒さまたちもやっぱり一生懸命。
『お茶碗はしっかり拭いてから仕舞いましょうね。そうそう、そんな感じ』
お稽古を通じての心地よい交流が、血のつながりを超えたしなやかな関係を作っていきます。
もう寂しくない。
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和から学ぶ気品ある仕草 美しい所作教室