講師(宗夜)ブログ
●戦国時代、なぜお茶碗が褒賞になり得たのか?
お稽古後、生徒さんとお片付けをしていた時に大河ドラマの話になりました。
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大河ドラマ(豊臣兄弟)でお茶碗が出てきました。
『あ!お茶碗だ!』
と思ってちょっと嬉しくなりました。
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ご自身も茶道に関わっておられることに誇りを感じたご様子。
『お茶碗がご褒美だったんですね。でも蜂須賀小六には価値が分からなかったみたいですよ。』
ちょっと不思議そうでした。
確かに戦の褒賞がお茶碗というのは不思議です。
武士ならば土地が欲しいはず。
なぜお茶碗なのか。
おそらく二つの理由が存在したと思われます。
●一つには土地の割譲が難しかったのではないかと思います。
分けられるほど広大な土地がなかったということもあるし、簡単に譲れない事情もあったでしょう。
農民や平民も武装すると戦闘能力が高く、経済力も持つ自治区も多く存在しました。
気に入らない所有者には刃向かうことも多かったとのこと。
●もう一つは、武士独自の文化を確立して根付かせたかったことが挙げられそうです。
茶道、書道、香道、華道…
これらの文化は室町時代に幕府と五山寺院を中心に形作られていきました。
室町時代の初期…
鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇と足利尊氏のタッグは、建武の新政後に崩れます。
再び貴族に力を集中させたかった後醍醐天皇。
言ってみれば醍醐天皇リバイバル
(Re・醍醐天皇)
醍醐天皇は905年に古今和歌集(日本初)編纂の勅命を下しました。
後醍醐天皇もまるで倣ったように
1326年に続後拾遺和歌集の編纂を命じています。
後醍醐天皇の息子は後村上天皇
言ってみれば村上天皇リバイバル
(Re・村上天皇)
村上天皇は醍醐天皇の息子。
951年後撰和歌集(日本2番目)編纂勅命を下しました。
貴族文化を再興させたい南朝の気概が感じられます。
一方室町幕府は、北朝にて天皇を立てますが権威の基盤は危うく、周囲の認知も今ひとつ。
後醍醐天皇は大変な能書家(書道の才能に長けた人)で、崩御後にもカリスマ性がありました。
たくさんの親王を全国に送り権力奪還の機会を伺わせます。
そのような折、海外や大陸から流入した文化・科学・学術が、幕府のニーズ・ウォンツに合致します。
航路の開拓によって頻繁に現れた欧州の行商人たち。
中国の王朝変遷により拠りどころを奪われた知識人たち。
五山寺院が交流の場として力を発揮しました。
日本語も大きく変化。
二字熟語・四字熟語が多く用いられるようになり、経済や法律の発展に活かされました。
この頃に、和歌から禅語の墨蹟へと人々の関心が移ります。
鎌倉時代以後の新興仏教の広まりもあって理解しやすい念仏が庶民に浸透していました。
『もののあはれ』に代表される大和言葉では時代の流れに対応できなくなりました。
和歌集の勅命も1439年の新続古今和歌集が最後です。
『道徳』の概念を持つ文化の中心に『茶道』
戦国時代に侘び茶となり、五感をフルに刺激します。
味覚:懐石料理、菓子、茶
嗅覚:香木、練香、炭
視覚:墨蹟、茶道具、建築
聴覚:静けさ(禅に由来)
触覚:茶道具拝見
身分を問わずに開かれたサロン
・茶室は人々を魅了します。
時代の担い手は我ら武士である!
武の力だけではない。
財の力だけでもない。
武士独自の文化『茶道』を価値あるものに仕上げてゆくのだ。
我々の手で!
動乱の時代だったからこそ尊ばれた『静寂』
21世紀の今も相変わらず動乱の時代です。
お茶碗を手にするとき、静寂と共に武士の逞しさも感じるのは、このような時代背景を持つからかも知れません。