講師(宗夜)ブログ
●ライバルの存在
日々のお稽古に臨んでおりますと、所々でライバルのような関係を目にすることがあります。
ライバルの存在は人が成長する時には実に大切で、このような関係性が結ばれた途端に双方の輝きが増すのであります。
ライバルは『もう一人の自分』
共通項があるから意識するわけで、楽しかったり、時には悔しかったりと、様々な心の動きがそのひとを奮い立たせてくれます。
個人のレベルでも大事な存在ですが、都市どうしの関係や、国どうしの関係でも同じことが言えるようです。
そのことに気付いたのは、宗嘉先生との座学講座の解説中でした。
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1392年
足利将軍第3代義満による南北朝統一が果たされる
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座学講座を開く前までは、暗記していた年号の一つとして捉えていました。
特別な感情は持っていませんでした。
それが、宗嘉先生の口からこのエピソードが発せられた途端に、3代義満と4代義持、その他の武士たちの焦りの気持ちが身近に感じられたのでした。
体温の上昇まで感じるくらいでした。
おそらく、南北朝統一は足利家の悲願だったことでしょう。
足利家が己の都合で北朝を立てたわけですが、だからこそ、他ならぬ足利家の手で何としても統一させねばならなかったはずです。
これに失敗したら、足利家は滅亡しかありません。
北朝を立てた時点で他の武士から
『やり過ぎやろ!』
と思われていたようです。
現に1350年観応の擾乱(かんのうのじょうらん)では、足利尊氏の弟の直義(ただよし)が南朝側と一時的に講和を結び、その権威を利用して尊氏討伐への同調を得ました。
『だってやっぱり本物の天皇は南朝だもんねぇ』
という共通認識が露呈したと言います。
『南朝に加担したり、北朝に加担したり、その時々で有利な方に周辺武士は動いていた』
という宗嘉先生の解説は、このような歴史背景が基となっています。
足利家の手で分けちゃったけど、足利家の手で戻したよ!
という大義を果たした3代義満。
ホッとした気持ちと、『さぁ、これからが大変だ』という焦りの気持ちの両方が感じられました。
南朝の天皇は、血筋の正当性もあるのと同時に、本物の公家文化の継承者でもあります。
これが死ぬほど怖かったのではないか、と思われるのです。
ソフトパワー(文化力)の強さは、時にハードパワー(武力・経済力)を凌ぎます。
公家の文化と言えば、和歌・連歌・書・服飾・雅楽などなど。
それはもう、近くに寄るだけでも雅な香りが匂い立つほど…
1336年に吉野の地で南朝を立てた後醍醐天皇は、1339年に崩御されますが、その短い間にも後継者や周囲の者を徹底的に教育したものと思われます。
『北朝に負けてたまるか』
という積年の恨みもありましょう。
南朝文化に対抗するかのように3代義満は急いで経済力を身につけ、武家文化の確立に力を注ぎます。
和歌・連歌・書の知識では、1000年の歴史を持つ公家には叶いません。ひとの一生の一代・二代で勉強した程度では太刀打ち出来ません。
だから茶道具という現物を輸入し、由緒を作って継承し、博物館のような建物内で陳列して目に見える文化を作ったと言われています。
そこで大事なのが『コマーシャル』
これが第二回座学講座で宗嘉先生が解説された『お道具の由緒』に繋がります。
武士は基本的に戦うことが仕事ですため、公家ほど文字文化に精通していません。
そのために、お道具を手に取って、触って、目で見て、茶事にて由緒を口々に継承していく文化を作り上げたと宗嘉先生は言われました。
人を変え、季節を渡り、世代を越えて伝承されるお道具の由緒。
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〇〇家伝来の〇〇茶入
☆☆斎お好みの☆盆
□代 □□斎作のお茶杓
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武士自身の努力により、武家文化のブランディングが引き継がれていきました。
最初は公家に笑われたことでしょう。
『唐物(からもの)やてぇwww』
もう唐ないやんなぁー
いま、明やろぉ
ほんまは明物(みんもの)やん
ぐぐぐぐぐ…🤛
思わず力の入る武士の握り拳
笑われても笑われても続けた方の勝ち。
600余年の時を経て、茶道は見事に日本の中心文化として昇華しました。
コンプレックスの種が、発芽して茎を伸ばして冬を越え見事に実を結んだのでした。
でも実を結べたのは、公家という手強いライバルが存在してくれたから。
西暦2024年の現代人の目には、公家文化も武家文化も、誇るべき自国の文化として尊く映るのでした。