一言法話
5.捉え方一つで
今年もあと少しとなってまいりました。コロナ禍により、様々な場面で不自由さを実感する一年でありました。どの寺院でも法要を行うことがままならなかったり、人と人との集まりも状況に応じて自粛や延期せざるを得なかったり。檀家さんのお宅にお参りに伺ってもコロナの話題が出ない日はなく、まさしくコロナに振り回された「禍」の年だったと愚痴りたくなるような一年でした。
しかし真言宗の宗祖、お大師さまは『秘蔵宝鑰』という書物の中で「知らず自心の天・獄たることを、あに悟らんや唯心の禍災を除くことを」 と述べておられます。
物事をどう捉えるかによって、この世を極楽と見ることも地獄と見ることも出来る。そのことを知って、澄んだ仏の眼でもって物事を見ることが出来れば、心の禍災を除くことができるのだと。
松下電器(現パナソニック)の創設者である松下幸之助さんはまだ若かったころ、毎日、大阪築港の桟橋から船に乗って仕事場に通っていたそうです。夏のある日、帰りに船べりに腰かけていると、一人の船員が幸之助さんの前を通ろうとして足を滑らせました。その拍子に幸之助さんに抱きついたので、二人はそのまま、まっさかさまに海に落ちてしまいました。びっくりした幸之助さんは、もがきにもがいてようやく水面に顔を出しましたが、船はすでに遠くへ行ってしまいました。このまま沈んでしまうのか、と不安が頭をよぎった。が、ともかく夢中でバタバタやっているうちに、事故に気づいた船が戻ってきてようやく引き上げてくれたのでした。「今が夏でよかった。冬だったら助からなかったろう」と、幸之助さんは自分の運の強さを感じたそうです。
普通であれば「いやー、ひどい目に遭った。なんてついてないんだ」で終わってしまいそうな話ですが、さすがは経営の神様、松下幸之助さんですね。「夏でよかった」と逆に自分の運の良さを感じたというのですから。このように物事を捉えることが出来ればまさしく「禍転じて福となす」の生き方ができますね。
4.人間万事塞翁が馬
「人間万事塞翁が馬」という中国の故事成語をご存じでしょうか。この言葉、平成24年にIPS細胞の研究、開発でノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥教授の座右の銘でもあるそうです。
昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む老人(塞翁)の馬が胡の国へ逃げてしまいました。人々は気の毒がりましたが、老人は「そのうちに福が来ないとも限らん」と言いました。やがて、その馬は胡の国から駿馬を連れて帰ってきました。人々が祝うと、今度は「これが不幸の元にならんとも限らん」と言いました。ある日、この駿馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまいました。人々が見舞い慰めると、老人は「これが幸福の基にならんとも限らん」と言いました。その後、胡軍が攻め込んできて戦争となり、若者たちのほとんどが戦死しました。しかし足を折った老人の息子は兵役を免れたため命を落とすことはありませんでした。
この話にあるように世の中、一見、禍(わざわい)と見える事柄が幸いの基であったり、幸いだと思えることが簡単に不幸に転じてしまったりするものです。まさしく仏教でいうところの諸行無常(物事は常に移り変わる)です。コロナ禍真っ最中の今だからこそ、この故事の意味するところを噛みしめ、世間一般で言う禍や災難というものをやみくもに恐れることなく、また逆に幸いというものの上に胡坐をかくことのないよう気を引き締めて生活していかなくては、と思うのです。
3.第二の矢を避けて
仏教では「思うがままにならないことを、思うがままにしたいと思うことにより人は『苦』を作り続ける」と考えます。
日々の生活の中で、思うがままにならないことはたくさんあります。
いつまでも若くありたいと願っても、そうはいきません。病気にかかりたくなくても、そうもいきません。大切な人といつまでも一緒にいたいと思っても、それも難しいことです。
お釈迦さまは、そんな苦しみを「第一の矢」と呼んでいます。
そして私たちは続いて「第二の矢」も受けてしまうことが多いのです。
「第二の矢」とは、なんとかしてその苦しみを克服し、軽減させようと、もがくことによって、かえってその苦しみを、そしてそこからくる悲しみを長く留めてしまうことです。お釈迦さまは、仏教を学ぶ者は第二の矢を受けないようにしなくてはいけない。そうすることによって「苦」を逃れることができると説かれました。
ある仏教学者の体験談を読んだことがあります。この方の家の離れには何年もかけて集めた蔵書がありました。しかし隣家の火事によってすべての蔵書は焼けてしまいました。そのどうにもならない悲しみをいかに克服したかという話です。
「最初は悔しくてどうしようもなかった。とんだとばっちりを食って大切な蔵書が灰になってしまった。古く貴重な本は、今からお金を出せば買い揃えられるというものではなかった。あの本たちは『焼かれた』と同じだ。悲しい思いは晴れることなく、苦しみは増すばかりだった。このままではいけない、よし、考え方を変えよう、自分であの本たちを『焼いた』のだ、そう思ってみようと考えた。しかしそんな風に考えてみても虚しさが残るばかりである。そこであの本たちはただ『焼けた』のだ、そのように自分の感情を横に置いて、目の前の事実だけを受け取ろうと考えた。すると不思議と苦しみは薄らいでいった」
このように冷静に物事をとらえることは簡単なことではありませんが、この仏教学者は「第二の矢」を見事に避けました。
生きている限り大小様々な「第一の矢」を受けることは避けられません。しかし「第二の矢」は自分自身の物事のとらえ方一つで避けることが出来るのです。
2.穏やかな心で
一時は落ち着きかけたコロナも季節が冬に向かうにつれ、日に日に感染者も増えてまいりました。不安は増すなか、テレビをつけますとコロナに関してのことに限りませんが、様々な専門家、評論家が、時には互いに口論になりながら自説を唱えます。今の若い人たちはテレビを見ることは減り、ネットから情報を得ているといいますが、テレビであれネットであれ、それが正しいのか間違っているのか定かではないそんな情報というものに、私たちは心揺り動かされ毎日をおくっています。
『ウダーナ』(自説経)にこのような話があります。
サーヴァッティーというところの王さまが町中の盲人を呼んで一頭の象を触らせ、それぞれ象というものをどういうものと思うかを語らせた。象の耳に触れた盲人は「象とは箕(みの)のようなものだ」と言い、象の頭に触れた者は「象とは瓶(かめ)のようなものだ」と答えた。牙に触れた者は「象とは鋤(すき)のようなものだ」と話し、鼻に触れた者は「象とは丸太のようなものだ」と言い、腹に触れた者は「象とは壁のようなものだ」と答えた。そのうちに、それぞれが互いに自分の主張を曲げずに他の人の意見を非難しはじめた。この人たちはそれぞれ部分的にしか象に触れていないのにそれが象の全体を表していると信じて疑わず言い争っていたのである。
お釈迦さまはこういう喩えでもって私たちに人間の知識は部分的なものであり、あらゆることをありのままに知り尽くすことは難しいことである、そして自分勝手な主張を曲げることなく、ほかの人を非難することは愚かなことだと私たちに諭されるわけです。
自分の考えというものだけに固執するのではなく、かといって誰かの一つの考えというものに、必要以上に揺り動かされ右往左往し、心荒げたりすることのないよう穏やかな心で生きていきたいものです。
1.三密
第一回目のお題はずばり、「三密」。この言葉はコロナ禍の中、テレビ等で耳にすることがよくあり、すっかりお馴染みとなりました。今年の流行語大賞に選ばれる可能性も高いとか。
「三密(三つの密)」とは、ご承知の通り、密閉、密集、密接から名づけられた言葉です。 コロナウイルス感染症を避けるためにも今もなお、この三密を控えるようにすることが、求められているわけです。
しかし、この言葉、真言宗では違う意味ではありますが、やはり大事な言葉として使ってきました。 真言宗でいうところの三つの密とは「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」を表します。 仏様の体、そして行い、口から発する言葉、そして心の在り方をいうわけですが、同時にその三密は、本来私達にも備わっていると真言宗では説くわけです。
「三密」は仏の境地となった時の自らの状態ともいえますが、「体・行い」、「口から発する言葉」、「心のありよう」の三つが仏様のように整った状態で毎日を常に過ごすことは難しいことです。日々の様々なことに思い悩み、怒りや悲しみの感情に揺り動かされ、そのことにより言葉遣いは乱雑になり、体に変調をきたすこともあります。だからこそ自身の「身・口・意」を見つめ高めていくことが大事です。 そのことにより悟りを開かれた仏さまと本来の私という存在は何ら変わることがないことに気づくことができるわけです。
なかなか収まることのないコロナ禍の今だからこそ、心落ち着け、いたずらに不安に駆られることなく、自分の体、言葉遣い、心の状態に目を向け、仏さまと同じ「三密」の状態にある自分というものを目指しましょう。