一言法話

2021-01-02 00:00:00

6.いまここにある命

 

明けましておめでとうございます。

今までにない状況の中、今年のお正月は外出を控え、自宅でゆっくりと過ごされている方が多いのではないかと思います。


今年は丑年ですが、吉田兼好が作者とされる『徒然草』に「牛」が出てくるこのような話があります。

ある人が言った。「牛を売りたいという人がいた。その牛を買いたいという人が、明日、金と引き換えに牛を引き取ると言った。ところが、急にその牛が夜の間に死んでしまったそうだ」その話を聞いていた人達が「それじゃあ、買わずに済んだ買い手は得をして、大金を手にするはずの売り手は損をしたな」と笑いながら言ったそうだ。

そんなみんなの話を近くで聞いていた別の人が、「いやいや、牛の売り主は確かに損をしたかもしれないが、一方では大きな得をしている。何故かというと、生き物はいつ死ぬか定かではないが必ず何時かは死ぬ。牛は突然死んだが、人間だって同じように突然死ぬかもしれない。ところが、牛は死んだが、持ち主の人間は生きている。人間の命は万金よりも重い。売り手は自分の命に比べれば、牛を売って得ることのできる僅かといえるような利益を取りそこねたかもしれないが、万金に値する命を残しているのだから、決して損をしたとは言えない」と言った。

すると、まわりの人達は「そんな道理は、牛の持ち主に限った話ではないじゃないか」と、馬鹿にしてあざ笑った。

すると、その人はなお続けて「ならば言おう・・・人は、死を憎むなら、生を愛すべきだ。この命ある喜び、日々楽しむべきなのだ。ところが多くの人は、この生の楽しさを忘れて、わざわざ命がけでくだらない金儲けなどにうつつを抜かしている。それでいて、心を満たすことさえも出来ていない。そもそも、元気なうちに生きている喜びを味わおうとしないで、死に際になってから死を恐れるなどというのは、道理に合わないではないか。人々が、命あることを喜び、楽しもうとしないのは、死を恐れていないからである。いや、死を恐れていないのではなく、死がすぐ近くにあることに気づいていないのである。もし人が、生死などに一切とらわれず、超越していると言うのであれば、その人は真理を身につけた人だということになる」こう言うと、周囲の人たちは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりになお大げさにあざ笑った。

 

吉田兼好は30歳前後に出家したと言われていますが、この「徒然草」は244段からなる随筆集で作品全体の根底には仏教の「無常観」が流れているといいます。

普段忘れがちな、わが命がいまここにある、ということも常では無いことなのだと自覚し、命の有難さをかみしめたいと思います。昨年は大変な一年でしたが、無事に新しい一年を迎えられたことを喜び、今年も無事に一年を送れるよう願うばかりです。