コラム・豆知識
コンパニオン動物たちは、一部の亀さんやインコさんなどを除いては、
生物としての寿命がどうしても人間よりも短めになっているのは、
残念ながら人には変えようの無い神さまの設計です。
多くの場合、人間の側が愛する動物の旅立ちを見送ることになります。
いつか来るお別れだと頭で分かっていたとしても、
やはりどうしようもなく悲しく、胸がえぐられるような苦しみ、
後悔、混乱、自責の念、言葉にならない感情が慟哭となって
後から後からあふれます。
愛した故に受けなければならない代償は、なんと大きいのでしょう…
中にはその悲しみから立ち直るきっかけもつかめずに、
苦しみ続けてしまう方もいらっしゃいます。
たかが動物、また次のを飼えばいいじゃないか、という周りの方々の
苦し紛れの言葉にさらに追い詰められてしまったり、
悲しみにフタをして余計に体調を崩されてしまったり…
本当に辛いことです。
かけがえのない“あの子”は決して、“たかが”の動物ではありません。
大好きだった“あの子”は、次の子で埋めあわができる存在ではありません。
(“代わり”で連れて来られてしまった動物さんも辛い思いをします。
全て分かった上でそのお家に行くのでしょうけれど…)
自分自身に悲しむ時間を許しましょう。
愛が深かった故の、あたりえの感情なのですから。
この大きな心の穴を埋めてくれるのも、やっぱりその子との間の愛。
旅立った子からも、形は違っても、本当に大きな愛が送られてきているのです。
それを受け入れられるようになるまでには、どうしてもこちら側に、
少し長い時間が必要です…
まわりの雑音は敢えて聞き流して、
しばし時間を取ることを、自分に許しましょうね。
私が今でも忘れられないのは、前猫を見送った時に、
ある友人がしてくれた粋なはからい。
”はい、これ。いっぱい泣くためのハンカチ。”
と渡してくれた贈り物でした。
そう。
いっぱい泣いて、いっぱい泣いて、いっぱい泣きましょう。
いっぱい泣きましょう。
それはその通りなのですが、
ちょっとだけ心の片隅に置いておいてほしいことがあります。
それは…
このしばしのお別れは、決してあなたを
いつまでも苦しませるためのものではありません。
そう思われたら、一番悲しく、困ってしまうのは“あの子”です。
大好きだったあの子が、あなたのことを決して見捨てるわけがありません。
断言します。
動物は、過去も今も未来も、人間とは違った見方をしています。
これからあなたともっと新しいカタチの関係を築いて、
もっと深くつながりたいから、と“あの子”が選んだタイミングです。
決して決してあなたの落ち度ではありません。
“あの子”は、大好きなあなたがいつかきっとこのお別れを
乗り越えてくれると信じています。
そしてあなたの心の中に安心してとどまって、
そこから、大好きだったあなたの笑顔を見る日を楽しみにしています。
命に関してアニマル・コミュニケーションを通して気づかせてもらったことは、
本当に数え切れないほどで、個人的な経験から言っても、
コミュニケーションが一番お役に立てるのは、実はこの分野なのではないかと
感じてもいます。
肉体を持った存在としての役割は終えても、
その動物とのコミュニケーションはもちろん可能なのです。
動物たちがとても長けていることのひとつに、
死をとてもシンプルに捉えている、ということがあります。
“もう使いづらくなった体を離れるだけのこと”
“今回果たすべき役割を終えたから”
伝えてくれるイメージや言葉はそれぞれの個性が表れるものの、
実にあっさりしていて、死を過剰に怖れたりしない方々がほとんどです。
あるワンちゃんは、ぼくにとっての死ってね…と話し出し、
ロボットのような姿になったかと思うと、それがパカっと割れて、
中から光輝く姿でアトムのようなポーズで軽々と飛び出して見せてくれました。
何の目的のために、どこからやって来て、どこへ帰るのか、
すんなりと“知って”いる彼らならでは。
(もちろん肉体を持った生物として、死を目の前にし、逃れようとしたり
暴れたりする基本的生存本能を示すことは当然です。
でなければ、形としての生物はとっくに死に絶えてしまっているでしょう。
ここでのお話しは、そういう事ではなく、もっと内面の意識のことです)
もちろん人間も深い意識では分かっているのですが、
あまりにも「死=敗北、お終い、悲惨」という社会的通念が強く、
しかも散々「天国と地獄」的な考えを詰め込まれているわけですから、
それで怖れを抱くなといっても無理な話です。ワタシだって怖いです。
でも少なくとも、いつか愛する動物の死に向き合わざるを得ない日が来るなら、
私たちの死のイメージを彼らに重ねて自らの苦しみを深めるよりも、
軽々・晴れ晴れした彼らの旅立ちを、ありったけのありがとうと
称賛の気持ちを込めてお見送りすることができれば、と思わずにいられません。
軽々と「戻るべきところに戻る」ことができる彼らが、
普通に考えたらとてもいられないような状態であってもなお、
体に留まろうとすることもあります。
これは、彼らの“生きたい”という気持ちよりも、私たちへの思いやりから、
私たちの心が少しでも軽く、納得が少しでも深くなるまで、
辛抱して待ってくれていることのほうが多いようです。
しかし、”やるべき仕事“がまだあるときには、どんなに絶望的に見えても、
奇跡的な回復を見せるというお話も聞きますので、
本当に命の不思議には人知など及ばないものなのですね。
お役目を終えた肉体について何か希望があるかお尋ねすることも多いのですが、
これも、残された人間の気の済むように、という気遣いあふれた
メッセージになることがほとんどです。
動物の魂が往くところへいけずに、
さまよっているということはあるのでしょうか?
NOそしてYESの両方です。
動物さん自身はもう自然に、往くべきところを知っています。
旅立ちは一人ではありません。目に見えない存在達も導いてくれています。
ただし、この旅路は、往ってしまったらもうそれっきり、の、
片道切符ではありません。
不安になってしまったら、心の中で呼べばいいのです。
ちょくちょくお家に戻って様子を見てるんだよ、という子は、
実際とても多いです。
さてYESの場合。
ひとつの可能性としては、こちらの”行かないで“という感情が強いため、
引き止めの力になってしまっていることは考えられます。
彼らはこちらが思っているよりもはるかに人間のことを思ってくれています。
大好きな人のそんな気持ちをダイレクトに受け取ってしまったら、
心配で心配で、後ろ髪引かれてしまうでしょう。
もし、まだ光に国に行けてないのでは?と気がかりだったら…
こちら側に引き留めの気持ちが無いか、ご自分の心に問いかけてみましょう。
もしもそんな気持ちに気づけたら、愛する子のために、悲しい気持ちは
ひとまず脇に置く練習も必要です。
この時期、写真やお骨などは、いったん見えないところにしまっておくことも
有効です。
少し離れてみる時間ができたら、これは双方にとって健全で、
喜ぶべき変化です。
「私ったら、あの子のこと忘れるなんて!」と
罪悪感を抱く必要は全くありません。
その子とのつながりは、絶対に絶対に切れることはありません!
ありがとう、もう行ってもだいじょうぶだよ、と心の中で光とともに、
笑顔で天に送り出してあげられる日が来ますように。
四十九日の区切りは必要ですか?
こんなご質問も頂くことがあります。
動物さん本人にお尋ねすると、やっても良いよ、という子、
別に~、という子、いろいろです。
そういう区切りがこちらにとって自然で、心が軽くなるのであれば
やってください、Noとは言いません
あるいは、
そういう行事にとらわれてしまって、新たに悲しみで心を乱したくない
ぼくだけやってもらったら、そういえばあの子の時はやってあげなかった、
などと別の子との過去を掘り返して罪悪感の種になったらイヤだな~
などなど、本当に気持ちは様々。
でも、どんな場合も、ポイントは一つ。
こちら側の深い深い気遣いなのです。
自分の旅立ちが、大好きな保護者さんの悲しみ・苦しみ・罪悪感と
結びついてしまうことを、何より悲しく思う彼ら。
そして、どんな形であっても、このしばしの変化を乗り越えて、
また私たちが一つ強くなって、笑顔を取り戻すことを、
心の底から願ってくれているのが彼らの変わらぬ愛なのです。