日記
読書記録(合唱の思考)
今日は少しゆっくり過ごそうと思い、先日図書館で借りてきた
『合唱の思考 柴田南雄論の試み』(永原恵三,2012年)を読んでみました。
『合唱の思考』第4章を
ふだん行っている、
今日は第4章「合唱の場」(p140-161)

p140:ツカーカンドルの問い、「人はなぜ歌うのか」。
そして、「歌う」
⇨音楽療法の現場では、「うまく歌う」ことよりも、「
認知症が進行していても、言葉が出にくくなっていても、
たくさん出会ってきました。その瞬間、その人は「
「歌う主体」になっているということを改めて認識できました。
p140:まず一人ひとりが主体として存在し、
その主体が「歌う」という動詞を遂行する。
p144:同じ旋律を歌うことが差異を消すのではなく、
⇨音楽療法の場でも、同じ唱歌を歌っていても、
p147:歌うことと聴くことによって他者の存在を了解する。
⇨高齢者施設では、
集団音楽療法で、みんなで歌い始めると、
誰かが少し遅れて入ると、それを待つように呼吸が整います。
そのとき、そこには対立ではなく、「共にいる」という共在性(
のだと感じました。
p151:の「息」の議論
声の根源が「息」にあり、その息が「あいだ」
⇨集団音楽療法では、まず呼吸を整えることから始めています。
その吐く息とともに「発声」をすると、「声」になり、
物理的にはただの音かもしれないけれど、
やわらかく変化していいくのをいつも感じて感じています。
p152:息はつねに現在の身体から生まれる。
⇨だからこそ、何度も歌っている「ふるさと」や「赤とんぼ」なども、
その日、その瞬間の「新しい歌」になります。
その日によって体調も気分も違う、その日の身体から出る息が、
p153:合唱の場は一人ひとりの生み出す場が交差するところ。
⇨音楽療法の時間もまさに同じです。家庭での背景、身体の状態、
それぞれの「日常」が交差して、
そのなかで、ある人は涙を流し、ある人は笑い、
その多様な在り方が、
p154:「開く」という言葉は、実践と強く重なる。
歌うとは、自らの息で内から外へと開くこと。
⇨高齢者の方が最初は小さな声しか出せなくても、
少しずつ開いていくことがあります。力を入れるのではなく、
身を委ねることで、その人らしい声が出てきたりします。
まさに「力を抜いて柔軟に開くことによって実現される力」(
p155:「住まう」という概念も、音楽療法と深く結びつく。
ボルノウ 「住まうこと」は空間への信頼関係(
⇨音楽療法の場もまた、安心して声を出せる「住まい」
間違っても笑われない、否定されない、
その信頼があってはじめて、
p157-158:声は身体に「住まい」、
一人の声が空間をつくり、その空間に他者が根ざす。
音楽が「住まう」(p159)。
⇒音楽療法の時間に感じる温かさや一体感は、
このような存在論的な「住まう」
p161:合唱は肉としての人間に向き合い、「住まい」
できる場となるかもしれない。
⇒高齢者の方々にとって、
考えさせられました。身体の衰えや記憶の揺らぎがあっても、
誰かと共にいることを感じられる時間。
それがその人にとって、ひとときでも「住まい」
大きな意味があると思います。
今日の読書を通して、
「共に住まう場」を生成する営みなのだと改めて感じました。
そのつどの新しい身体から生まれる新しい息で、
これからも、ひとつひとつのセッションを丁寧に進めていきたいと思います。
読書の後、夕方からzoomでの打合せがありました。
より具体的になり、今からワクワクしています。感謝です。
今日も、ありがとう。
今日のピアノレッスンより
今日はピアノ講師の日。
雪がちらつく中、仕事の前に投票してきました。
無事投票した後は教室へ🎹
まずはレッスンの前の演奏タイムから🎹
今日は、各変奏のメロディや各声部を丁寧に味わいながら
弾いてみました。
即興演奏の方は
小さな春の訪れの
イメージで🎹
癒しのひとときです✨
〜🎹今日のレッスンより🎹〜
『金平糖の踊り』(チャイコフスキー)
冒頭からの幻想的な響きに
す〜っとひきこまれる曲。
チェレスタの音色が浮かんできます。
今日のレッスンでは
臨時記号や16分音符気をつけながら
一緒に譜読みを進めていきました。
チャイコフスキーの人生を振り返りながら
改めて聴いてみると
曲への理解がより深まります。
学生時代に音楽史で学んだ時とはまた違い
時を重ねて改めて作曲家の人生を辿ることで
「人生とは何か」といった、より哲学的な
問いかけにもつながり、結果的に演奏にも
深みが増すような気がします。
またレッスンでは生徒さんが
どんな風に解釈して表現されるのかを
聴かせていただき、毎回ワクワクしています。
これからも、レッスンを通して
多くの作曲家たち、そして生徒さんたちの
ステキな演奏と出会えるのが楽しみです。
今日も、ありがとう。
今週の振り返り
今週は、2日連続で社内研修講師でした。
1日は新人職員の方向け、もう1日は新たに管理職になった方向けです。
新人研修では、挨拶や言葉遣い、コミュニケーションといった基本について。
参加者の表情が少しずつほぐれていくのを感じました。
翌日の新管理者研修では、同じ「基本」を扱いながらも、
意図的に視座を一段上げて進めました。
マナーやコミュニケーションは個人の問題ではなく、
職場の空気をつくるマネジメントそのものであること。
その視点で見直すと、挨拶一つにも責任と意味が生まれます。
新管理職の方々は、2日間続けて両方の研修を受けられたことで、
新人の立場と管理者の立場、その両方を体感しながら、
「自分は今、どこに立っているのか」を再認識いただけたと思います。
頷きながらメモを取り、またSBIフィードバックの実践では、
最近の出来事を思い出しながら言葉にしていく過程で、
参加者の表情が明らかに変わっていったのを感じました。
講師として話しながら、私自身もたくさんのエネルギーを
もらった気がします。
「伝える」つもりで立っているのに、
実は「受け取っている」のは自分の方かも。
この感覚を忘れずに、少しずつブラッシュアップしていきたいと思います。
今日も、ありがとう。
揺さぶり体験からの気づき
今日、訪問先へ向かう途中で、
「リュックに入れたはずの携帯が入っていない」ことに気づいた。
すぐに、準備していたときの自分の動作を振り返り記憶をたどってみる。
「あ、もしかしたらあのとき棚に置いたままだったかもしれない」
「駅に忘れたのかもしれない」
など、いくつもの場面が頭の中でぐるぐる回り出す。
気持ちを落ち着けようと、iPadから探すそうとするも、うまくいかず。
焦りは消えず、思考がぐるぐると渦巻いたままだった。
そんなとき、ふと腕時計をみると、歩数が増えていることに気づいた。
ということは、携帯はこの近くにある?
「駅を降りたらまずスーツケースを開けて確認してみよう」
と思い立った。
駅についてすぐさまスーツケースを開けると、
三つ折りの傘とペンケースと飲み物だけ(あとは楽譜や歌集など)。
「やっぱり違ったか~」
と思いつつ、下の方を確認してみると、、、
「あった!!」
思わず小躍りしてしまった(笑)
電車に揺られながら、「どこにあるのだろう・・・」とあれこれ探していた時間、
私の気持ちは終始落ち着かず、景色を眺めるどころじゃなかった。
気持ちの中はぐるぐると渦を巻いているようだった。
そんな中で、腕時計の歩数が増えていたことに気づいて
「もしかしたら、近くに・・・?スーツケースの中かな?」と思いついた瞬間。
まさに「揺さぶり」の体験そのものだった気がする。
そして「まあ、なんとかなるだろう」「何となく、出てきそうな気がする」
と思えるようになった後、車窓からの景色を眺められるようになっていた。
これが、神田橋先生のおっしゃる「揺さぶりによる変化」なのだと思う。
先生も言われているように、
物事の受け止め方を変える
「リフレーミング」は
まさに、「見方を変える」という一つの揺さぶり。
生活の中での出来事を
臨床の場で捉えてみると、
今日のこの体験はさらに意味を帯びてくる。
神田橋先生はこのように述べている。
「がんとかエイズなんかそうだ。
それをどう納得するかというテーマもある。
だけど通常の場合は、停滞させている原因の多くは、
内在化された文化の有害性だ。
だから内在化された文化へ疑問を投げ掛けていくと、
それが”揺さぶり”。」(『対話精神療法の臨床能力を育てる』,p27)
クライエントの中にある「内在化された有害性」
疑われることのなかった文化的な前提に、
治療者は小さな問いを差し込む。
クライエントにとって
揺さぶられる体験は、恐怖を伴う。
なぜならそれは
これまで、自分を守ってきた意味付けが
一時的に不安定になるから。
がんやエイズなどの重い病を抱える人にとって
揺さぶりは「変化」ではなく、
「これ以上壊れないための最後の防波堤」を
脅かすものとして感じられるのかもしれない。
揺さぶられずに生きるしかなかったのかもしれない。
自分が壊れないように必死に守ってきた防波堤を守り続けた結果、
身体が語り始めた状態、と理解することもできるのだろうか。
神田先生はこうも述べている。
「揺さぶりとは、治療者が揺さぶるんだけど、好ましいのは
クライエントの中にある。自己揺さぶり能力を賦活して、
それに対する抱えであると見えてくる。そうすると、だんだん
ゴチャゴチャで分からんようになるでしょ。そういうふうに
まぜこぜになってできたものが、盲縞なの。
模様がだんだんだんだん複雑になって、もう全部グラデーションになって
分からんようになる。それが机上の論でない。現実の実態に添った
ステキな理解なのです」(『対話精神療法の臨床能力を育てる』,p30)
今日の携帯の出来事は
この言葉を生活の中で体験した一日だった。
混乱し、揺さぶられ、
しかし壊れず、
むしろ見え方が変わった
という体験。
そして
境目を消えて
白黒は溶けて
グラデーションの中で
現実は続いていた
という感覚。
対話精神療法の臨床能力とは
こういった「揺さぶり」を
安全に、生活の中で引き受ける力なのかもしれない。
今日はそのことを
身をもって学んだ一日だった。
今日も、ありがとう。




