日記

2026-09-22 23:41:00

「ふつう」ってなんだろう―病気と健康のあいだー

この連休中に、

先日書店で購入した、美馬達哉さんの

『「ふつう」ってなんだろう 病気と健康のあいだ』

を読みました。

 

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本書では、ゲーム障害やためこみ症といった「新しい病気」から、

HSP、健康食への過度なこだわり、カサンドラ症候群、トランスジェンダー、

身体完全性違和(BID)など、さまざまなテーマが取り上げられています。

 

一見すると、それぞれは別々の問題に見えるけれど、

その背景には、

「何を病気と呼ぶのか」
「何を健康と呼ぶのか」
「どこからを“ふつうではない”とするのか」

という共通する問いがあるように感じました。

 

たとえば、ゲームやギャンブルへの過度な熱中。

依存という言葉で語られると、「本人の意志の弱さ」のように

受け取ってしまいそうになります。

しかし、依存の背景には、心理的依存や強化学習が関係しています。

「うまくいった」「報酬が得られた」という経験によって行動が強化されていく。

そう考えると、依存は単純な「意思の問題」ではないなく

学習という私たちの日常的な営みとも連続しているように思います。

そう考えると、「病気」と「ふつう」の間には、

思っていた以上にグラデーションがあるのかもしれません。

 

◆「ためこみ症」について

いわゆる「ゴミ屋敷」と呼ばれる状態も、

単に「片づけられない人」という個人の問題として見るのではなく、

巣作り、感覚の過敏さ、強迫性パーソナリティ、ADHDとの関連、

買い物依存、セルフネグレクトなど、さまざまな可能性から考えることができます。

そして、

「医療化による病理化/個人化」

という視点。

ある状態を病気として捉えることによって、

本人が支援につながりやすくなる場合があります。

一方で、本来は社会や環境との関係の中で生じている問題まで、

「個人の病気」として理解してしまう可能性もあります。

ここには、支援する側にとっても大切な問いがあるように思いました。

 

◆HSP、オルトレキシア、カサンドラ症候群について

特にカサンドラ症候群については、ASDとの関連だけではなく、

「感情労働の生きづらさ」という視点が印象に残りました。

誰かとの関係の中で苦しんでいるとき、

その苦しさを「相手の特性」だけで説明してしまうと、

見えなくなるものがあります。

 

個人の特性。

二人の関係。

家族や職場などの環境。

そして、その人が担っている役割。

複数の層から見ていく必要があるのだと思います。

 

これは、日頃メンタルヘルスの仕事をしている中でも感じることです。

 

◆トランスジェンダーの歴史と精神医学との関係、そして身体完全性違和(BID)について

自分の手や足を「自分の身体ではない」「余分なもの」と感じ、

それを切り離すことを望む。

「望ましい身体とは何なのか」という問いは、非常に難しい問題です。

身体完全性違和、身体と自己の関係についても考えさせられました。

以前観た映画『廃用身』とも、身体障害や身体イメージという点で、

どこか響き合うテーマがあるように感じます。

(ただし、映画作品と医学的概念は同じものではありませんが)

それでも、「自分にとって望ましい身体とは何なのか」という問いを考える

入口にはなるのかもしれない、と感じました。

 

◆躁状態の診断基準や、パニック障害について、さらにCAR-T細胞療法(キムリア)のような新しい治療。

本書を読み進めるほど、「病気」という言葉の意味やその捉えられ方は、

決して固定されたものではなく、

医学だけで完結するものでもないのだと感じました。

時代によって変わる。

社会によって変わる。

医学の進歩によって変わる。

そして、私たち自身の「ふつう」という感覚によっても変わっていく。

 

だからこそ、

「これは病気なのか?」

と考えるだけではなく、

「私たちは、なぜそれを病気と呼ぶようになったのだろう?」

と問い直すことも大切なのだと思います。

「違った見方」をすること。

当たり前だと思っていることから、一度少し距離をとってみること。

 

それは、誰かを理解するときにも、自分自身を理解するときにも、

大切な姿勢なのかもしれません。

「ふつう」とは、案外あいまいなもの。

そして、そのあいまいさの中に、

人それぞれの生き方や身体、感じ方の多様性があるのだと思います。

 

心理職として、人の「困りごと」に出会うとき。

その人自身だけを見るのではなく、

その人を取り巻く環境や関係、

社会が設定している「ふつう」まで含めて考える。

そんな視点を、これからも大切にしたいと思いました。

 

今日も、ありがとう。

2026-08-29 23:41:00

映画『平行と垂直』を観て ー支えることと、自分の人生を生きること

 

 

今日は映画「平行と垂直」を観に映画館へ。

 

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自閉スペクトラム症の兄・日向大貴と、

カウンセラーとして働きながら兄を支えてきた妹・希

のきょうだいの物語。

 

幼いころから二人で支え合い、

兄は周囲の手を借りながらも自立した生活を送り、

妹はそんな兄を気にかけながら生きてきた。

 

そんな二人の関係が、

希が恋人からプロポーズを受けたことをきっかけに、

少しずつ動き始める。

 

「これまで通り」だと思っていた生活に、変化の時が訪れる。

それは、兄にとっても、妹にとっても、決して小さな出来事ではないはず。

 

映画を観ながら、

カウンセラーとして、そして一人の人間として、

いろいろなことを考えさせられた。

 

◆「支えること」と「背負うこと」は違う

希は、兄のことを大切に思っている。

だからこそ、これまで兄を支えることが、

自分の人生の一部になっていたのだと思う。

 

家族であれば、「私がやらなければ」と思う場面は少なくない。

 

特に、障害のある家族を支える立場にあるきょうだいは、

幼いころから自然と「支える側」になることがある。

 

でも、

 

支えることと、背負うことは同じではない。

 

私はこのことを、カウンセリングの仕事を通しても感じることがある。

誰かを大切に思うからこそ、その人の問題まで自分が引き受けてしまう。

 

「この人が困らないように」

「私がいなければ」

「私が何とかしなければ」

 

そうやって相手を思う気持ちが、

いつの間にか自分自身の人生を狭めてしまうことがある。

 

けれど、本当の意味で相手を尊重するということは、

何もかも代わりにしてあげることではない。

 

必要なところでは手を貸しながらも、

 「あなたの人生は、あなたのもの」 

と信じること。

 

それは、家族であっても同じなのではないだろうか。 

 

 

◆カウンセラーだからこそ、難しいこと

希自身がカウンセラーであるという設定も、とても興味深く感じた。

  

人の話を聴き、人の心に寄り添う仕事をしている人であっても、

自分の家族のこととなると、必ずしも冷静にはなれないものだ。

 

むしろ、家族だからこそ見えなくなるものがある。

 

 

カウンセリングでは、相手との間に一定の距離がある。

その人の人生を、その人自身のものとして尊重しながら、

一緒に考えていく。

 

 

でも家族の場合は、そこに「これまでの歴史」がある。

幼いころからの記憶。

一緒に乗り越えてきた出来事。

 「私がこの人を守らなくては」という思い。

 

そうしたものが重なっているからこそ、

簡単には「相手の問題」と「自分の問題」を分けられない。

 

 

だからこそ、家族への支援では、

「何をしてあげられるか」だけではなく、

「どこまでが自分の役割なのか」

を考えることも大切なのだと思う。

 

◆きょうだいにも、それぞれの人生がある

この映画を観ていて、特に心に残ったのが、

「兄の人生」と「妹の人生」は、同じではない

ということだった。

 

もちろん、二人は大切な家族。

支え合ってきたからこそ、深い結びつきがある。

でも、家族であっても、それぞれに未来がある。

 

兄には兄の人生があり、

妹には妹の人生がある。

それぞれが自分の人生を歩みながら、

必要なときには支え合う。

 

私は、そんな関係が理想なのではないかと思う。

 

「家族だから一緒に生きなければならない」でもなく、

「自立するためには家族と距離を置かなければならない」でもない。

 

近すぎず、遠すぎず。

 

必要なときには手を差し伸べられるけれど、

お互いの人生を尊重できる距離。

 

 そんな関係をつくっていくことなのかもしれない。

 

 

 

◆ 「平行と垂直」というタイトル

映画を観終わってから、タイトルについても考えてみた。

 

平行線は、どこまでいっても交わらない。

でも、同じ方向を向いて進むことができる。

 

一方、垂直は交わる。

人生の中で、何度も出会い、影響し合う。

家族というのは、もしかすると

「平行」と「垂直」の両方なのかもしれない。

ずっと一緒にいるのではなく、それぞれの道を歩いていく。

 

けれど、人生のある地点で交わり、支え合い、

またそれぞれの道へ戻っていく。

 

そんなことを、この兄妹の姿から感じた。

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◆「その人の人生」を信じる

カウンセラーとして人と関わるとき、

私は「その人を変える」ことはできないと思っている。

 

できるのは、その人が自分自身の気持ちに気づき、

自分の人生について考え、自分なりの選択をしていくためのお手伝い。

 

それは、家族に対しても同じなのかもしれない。

 

心配だからといって、先回りしてすべてを決めてしまうのではなく、

 

「この人なら、自分の人生を歩いていける」 

と信じる。

 

そして、自分自身もまた、

 

「私も私の人生を生きていい」

 と思えること。

 

支える側の人にも、自分自身の人生がある。

 

誰かを大切にすることと、

自分の人生を大切にすることは、

決して反対ではないのだと思う。

 

 

◆ 映画を観終えて

厚労省のページに

映画『平行と垂直』とタイアップ!

と書かれていて「あ、観てみたい!」と思い、すぐに予約して

やっと今日観ることができた。

 

 

「平行と垂直」は、障害や家族をテーマにした映画でありながら、

私にはもっと普遍的な物語にも感じられた。

 

 

家族との距離。

 

誰かを支えるということ。

 

自立とは何か。

 

そして、自分の人生をどう生きていくのか。

 

大切な人がいるからこそ、迷う。

 

大切に思っているからこそ、手放すことが難しい。

 

でも、相手の人生を信じることは、突き放すことではない。

 

そして、自分自身の人生を選ぶことも、

決して誰かを見捨てることではない。

 

そんなことを静かに考えさせられる映画だった。

 

「支える」という言葉の奥には、

 その人が、その人自身の人生を生きられるようにする

という意味もあるのかもしれない。 

 

 

そしてそれは、カウンセラーとして人と関わるときにも、

家族と向き合うときにも、大切にしていきたいことだと思った。

 

それぞれの人生を歩きながら、ときどき交わる。

そんな「平行」と「垂直」の関係を、

私自身も大切にしていきたいと思う。

 

今日も、ありがとう。

 

2026-05-06 21:19:00

読書メモ

『だれが君を殺したのか』読了。

 

今日、『だれが君を殺したのか』を読み終えた。

 

読了した瞬間、じんわりと何かが残る感じがした。

はっきりと言葉にはできないけれど、確かにそこにある違和感のようなもの。

 

---

 

物語に出てきたクリストフは、特別な子ではないと思う。

むしろ、これまで出会ってきた子どもたちの中に、

似た輪郭をいくつも見つけられる気がする。

 

少し敏感で、少し不器用で、

でもそれをどう伝えたらいいかわからないまま、

関係の中で少しずつずれていく感じ。

 

その「ずれ」が、周りからは「問題」として

見えてしまうこともある。

 

---

 

今回、読んでいていちばん引っかかったのは、

やっぱり「誰も明確には悪くない」という構造だった。

 

先生も、家族も、それぞれの場所でちゃんとやろうとしている。

むしろ、関わろうとしているからこそ、

すれ違いが起きているようにも見える。

 

それなのに、結果として、ひとりの子どもが孤立していく。

 

その静かさが、たぶん

「じんわり残る感じ」につながっている気がする。

 

---

 

そして、自分の仕事(心理職)の視点から。

 

心理職として関わるとき、

「理解しようとすること」や

「言語化を手助けすること」を大切にしている。

 

それに加えて、大切だと感じたことがある。

 

・言葉になる前の違和感や、本人もまだ掴めていない感情に対して、どう関わるかということ。

「うまく話せなくてもここにいていい」と伝えることの大切さ。

 

・クライエントとの「つながり方」について。

カウンセリングの時間の中では関われていても、

その外の世界(学校や家庭、日常の関係の中)で、

その子(クライエント)がどう存在しているのかまでは、

どうしても見えにくい。

 

クリストフのように、

関係が断片的なままつながらないとき、

その隙間に落ちてしまうものがある。

その隙間は、あとからは見えにくい。

 

心理職として、その「隙間」をどう捉えるか。

個別の関わりだけでなく、周囲との橋渡しも含めて、

もっと考えていく必要があるのかもしれない。

 

これは教育だけでなく、産業分野でも同じことが言えると思う。

 

クライエント(従業員)だけでなく、上司、同僚を含めた

組織全体をみながらつなげていく役割。

 

目に見えず、形になりにくい立ち位置ではあるものの、

大切な役割だということを意識しながら、

これからも携わっていきたいと思う。

 

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今日も、ありがとう。

2026-02-28 23:01:00

最前線の細胞治療(視聴の感想)

 今日は、北海道大学病院主宰の

「細胞で治す時代へ~最前線の細胞治療をやさしく解説~」

を視聴しました。

 

再生医療やCAR-T療法、iPS細胞など、聞いたことがある

言葉ながら、実際にどこまで進んでいるのか、どんな課題が

あるのかを体系的に知る機会はなかなかないので興味津々で

今回申し込んでみました。

 

今回の講演は、まさに再生医療の現在地を俯瞰できる内容でした。

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◆再生医療とは何か

イントロダクション

~我が国の細胞治療・再生医療

加畑馨先生(北海道大学病院)

 

再生医療とは、病気やけがで失われた体の機能を

「細胞」や「人工材料」を使って回復させる治療。

 

薬のように外から作用するのではなく、

体そのものを作り直す発想に近い医療です。

 

細胞は生きていて、

体内で増え、移動し、物質を分泌する。

 

だからこそ一度の投与で大きな効果が期待できる一方で、

完全にコントロールする難しさや製造コストの高さといった

課題も抱えているということ。

 

夢と現実の両方を感じる導入でした。

 

◆iPS細胞で1型糖尿病を治す挑戦

ヒトiPS細胞を用いた 1型糖尿病の細胞量号に向けた取り組み

豊田太郎先生(京都大学iPS細胞研究所)

 

1型糖尿病は、インスリンを分泌する膵島β細胞が壊れてしまう病気。

 

現在はインスリン補充が中心ですが、

「細胞そのものを作って移植する」ことで根本治療を目指す研究が進んでいます。

 

iPS細胞から膵島細胞を作製し、体内で機能させる。

 

理論は明快ながらも、がん化リスクの排除、未分化細胞の除去、数十億個単位の

大量製造、品質管理と安全性評価という大きな壁があります。

 

基礎研究の成功と、患者さんに届けることの間には大きなギャップがある。

その現実を真正面から語られていたのが印象的でした。

 

◆スポーツ整形と再生医療

スポーツ整形外科領域における再生医療の話題

須藤英毅先生(北海道大学病院)

 

再生医療は難病だけの話ではなく、

PRP療法(多血小板血漿)や間葉系幹細胞治療は

スポーツ整形の分野でも広がっています。

 

保存療法と手術の間を埋める新たな選択肢。

 

ただし先生が強調されていたのは、「再生医療は魔法ではない」ということ。

フォームや筋力バランスなど、原因を改善しなければ再発する。

 

生物学的修復(再生医療)と

物理的機能改善(リハビリ)の両輪が揃ってこそ意味がある。

 

この現実的な姿勢がとても心に残りました。

 

◆CAR-T細胞療法という医療革命

医療革新をもたらすCAR-T細胞療法

豊嶋崇徳先生(北海道大学大学院)

 

患者自身のT細胞を遺伝子改変し、がんを攻撃させるCAR-T療法。

日本で使用されている製品には、例えば

キムリアやイエスカルタ などがあるそう。

これまで治らなかった悪性リンパ腫の患者さんの中から、

一度の治療で治癒に至る方が出てきている。

画期的な内容でした。

 

一方で、

重篤化する可能性のある副作用(サイトカイン放出症候群など)

高コスト

医療者の負担

10年間のフォロー義務

など、制度面・経済面の課題も山積しています。

 

「革命」であると同時に、「持続可能性」が問われる医療でもある

と感じました。

 

◆再生医療の光と闇

再生医療ってどうなの?その光と闇

~日本独自の法律、再生法の観点から~

右近祐一郎先生(大阪大学大学院)

 

「再生医療等安全確保法」という日本独自の制度。

 

承認を受けた製品は厳格な審査を経ていますが、

自由診療で提供されている再生医療も存在します。

 

高額な治療、エビデンスが十分とは言えないケース。

再生医療は希望である一方、慎重な理解も必要です。

「正しい情報に基づいて選択することの大切さ」を改めて感じました。

 

◆開発と審査の最前線

再生医療等製品の開発の動向

前田憲一郎先生(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)

再生医療製品の審査や国際連携の現状についても紹介がありました。

欧米で開発が進む製品の多くが日本市場を除外しているという現状。

ドラッグロスの可能性。

研究だけでなく、

製造、制度、価格評価まで含めた「エコシステム」の構築が

必要であることを痛感しました。

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◆まとめ 

未来のことと思っていたけれど

細胞で治す時代は始まっているということ。

その一方で、

安全性、コスト、制度、倫理。

解決すべき課題はまだ多く残っている。

それでも確実に、

「これまで治らなかった病気が治る」

世界が広がりつつあるということ。

 

抗がん剤中心の時代から、

免疫治療・細胞治療の時代へ。

もっと多くの人びとが受けられるように

なっていくといいなと思います。

 

その未来をどう持続可能にしていくのか。

医療だけでなく、社会全体で考える必要がある

と感じました。

 

今日も、ありがとう。

2026-02-11 23:11:00

読書記録(合唱の思考)


今日は少しゆっくり過ごそうと思い、先日図書館で借りてきた
『合唱の思考 柴田南雄論の試み』(永原恵三,2012年)を読んでみました。


『合唱の思考』第4章を
ふだん行っている、高齢者の方々への集団音楽療法を振り返りながら
今日は第4章「合唱の場」(p140-161)を読み進めていきました。

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p140:ツカーカンドルの問い、「人はなぜ歌うのか」。
そして、「歌う」という行為によって人はどのような存在になるのか、という問い。

⇨音楽療法の現場では、「うまく歌う」ことよりも、「その人が歌う」ことのほうがはるかに重要です。
認知症が進行していても、言葉が出にくくなっていても、歌になると声が出るといった場面に
たくさん出会ってきました。その瞬間、その人は「ケアされる対象」ではなく、
「歌う主体」になっているということを改めて認識できました。


p140:まず一人ひとりが主体として存在し、
その主体が「歌う」という動詞を遂行する。そのこと自体がすでに意味を持っている。
p144:同じ旋律を歌うことが差異を消すのではなく、むしろ差異を増幅する。
⇨音楽療法の場でも、同じ唱歌を歌っていても、声の高さもリズム感も、呼吸の長さも人それぞれだけど、そのばらばらさが消えるのではなく、むしろ重なり合いながら豊かな響きになります。そこでは「揃える」ことよりも、「違いを保ったまま共にいる」ことが起こっているのだと思います。

p147:歌うことと聴くことによって他者の存在を了解する。
⇨高齢者施設では、日常生活の中で他者との関係が希薄になることも少なくないですが
集団音楽療法で、みんなで歌い始めると、不思議と隣の人の声に耳を傾けるようになります。
誰かが少し遅れて入ると、それを待つように呼吸が整います。
そのとき、そこには対立ではなく、「共にいる」という共在性(p145, p149)が生まれている
のだと感じました。

p151:の「息」の議論
声の根源が「息」にあり、その息が「あいだ」を生成するという考え方。
⇨集団音楽療法では、まず呼吸を整えることから始めています。深く吸い、ゆっくり吐く。
その吐く息とともに「発声」をすると、「声」になり、空間に広がります。
物理的にはただの音かもしれないけれど、実際にはその息によってリラックスし、また場全体を
やわらかく変化していいくのをいつも感じて感じています。

p152:息はつねに現在の身体から生まれる。
⇨だからこそ、何度も歌っている「ふるさと」や「赤とんぼ」なども、
その日、その瞬間の「新しい歌」になります。
その日によって体調も気分も違う、その日の身体から出る息が、歌を更新してるのですね。

p153:合唱の場は一人ひとりの生み出す場が交差するところ。
⇨音楽療法の時間もまさに同じです。家庭での背景、身体の状態、人生の記憶など
それぞれの「日常」が交差して、一時間の音楽の時間が立ち上がります。
そのなかで、ある人は涙を流し、ある人は笑い、ある人は静かに目を閉じて鑑賞される,,,
その多様な在り方が、そのまま一つの場を形づくっていると思います。

p154:「開く」という言葉は、実践と強く重なる。
歌うとは、自らの息で内から外へと開くこと。そして同時に他者の声を受け入れること。
⇨高齢者の方が最初は小さな声しか出せなくても、周囲の声に包まれることで、
少しずつ開いていくことがあります。力を入れるのではなく、むしろ力を抜いて
身を委ねることで、その人らしい声が出てきたりします。
まさに「力を抜いて柔軟に開くことによって実現される力」(p154)を感じます。

p155:「住まう」という概念も、音楽療法と深く結びつく。
ボルノウ 「住まうこと」は空間への信頼関係(p156)。
⇨音楽療法の場もまた、安心して声を出せる「住まい」でなければならないと思います。
間違っても笑われない、否定されない、受け止めてもらえるという信頼。安心できる場。
その信頼があってはじめて、声は身体から自由に出てくるのですね。

p157-158:声は身体に「住まい」、さらにその身体を取り巻く空間に「住まう」。
一人の声が空間をつくり、その空間に他者が根ざす。そしてその全体の空間に、
音楽が「住まう」(p159)。
⇒音楽療法の時間に感じる温かさや一体感は、単なる心理的効果ではなく、
このような存在論的な「住まう」構造によって支えられているのかもしれないと思いました。

p161:合唱は肉としての人間に向き合い、「住まい」として自らを休らわせることの
できる場となるかもしれない。
⇒高齢者の方々にとって、音楽療法の時間がそのような場になっているだろうか、と改めて
考えさせられました。身体の衰えや記憶の揺らぎがあっても、息をし、声を出し、
誰かと共にいることを感じられる時間。
それがその人にとって、ひとときでも「住まい」となっているなら、集団音楽療法には
大きな意味があると思います。

今日の読書を通して、集団音楽療法は単なるレクリエーションでも機能訓練でもなく、
「共に住まう場」を生成する営みなのだと改めて感じました。
そのつどの新しい身体から生まれる新しい息で、新しい歌をともに生み出すこと。

これからも、ひとつひとつのセッションを丁寧に進めていきたいと思います。

 

読書の後、夕方からzoomでの打合せがありました。

より具体的になり、今からワクワクしています。感謝です。


今日も、ありがとう。

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