日記
「ふつう」ってなんだろう―病気と健康のあいだー
この連休中に、
先日書店で購入した、美馬達哉さんの
『「ふつう」ってなんだろう 病気と健康のあいだ』
を読みました。
本書では、ゲーム障害やためこみ症といった「新しい病気」から、
HSP、健康食への過度なこだわり、カサンドラ症候群、トランスジェンダー、
身体完全性違和(BID)など、さまざまなテーマが取り上げられています。
一見すると、それぞれは別々の問題に見えるけれど、
その背景には、
「何を病気と呼ぶのか」
「何を健康と呼ぶのか」
「どこからを“ふつうではない”とするのか」
という共通する問いがあるように感じました。
たとえば、ゲームやギャンブルへの過度な熱中。
依存という言葉で語られると、「本人の意志の弱さ」のように
受け取ってしまいそうになります。
しかし、依存の背景には、心理的依存や強化学習が関係しています。
「うまくいった」「報酬が得られた」という経験によって行動が強化されていく。
そう考えると、依存は単純な「意思の問題」ではないなく
学習という私たちの日常的な営みとも連続しているように思います。
そう考えると、「病気」と「ふつう」の間には、
思っていた以上にグラデーションがあるのかもしれません。
◆「ためこみ症」について
いわゆる「ゴミ屋敷」と呼ばれる状態も、
単に「片づけられない人」という個人の問題として見るのではなく、
巣作り、感覚の過敏さ、強迫性パーソナリティ、ADHDとの関連、
買い物依存、セルフネグレクトなど、さまざまな可能性から考えることができます。
そして、
「医療化による病理化/個人化」
という視点。
ある状態を病気として捉えることによって、
本人が支援につながりやすくなる場合があります。
一方で、本来は社会や環境との関係の中で生じている問題まで、
「個人の病気」として理解してしまう可能性もあります。
ここには、支援する側にとっても大切な問いがあるように思いました。
◆HSP、オルトレキシア、カサンドラ症候群について
特にカサンドラ症候群については、ASDとの関連だけではなく、
「感情労働の生きづらさ」という視点が印象に残りました。
誰かとの関係の中で苦しんでいるとき、
その苦しさを「相手の特性」だけで説明してしまうと、
見えなくなるものがあります。
個人の特性。
二人の関係。
家族や職場などの環境。
そして、その人が担っている役割。
複数の層から見ていく必要があるのだと思います。
これは、日頃メンタルヘルスの仕事をしている中でも感じることです。
◆トランスジェンダーの歴史と精神医学との関係、そして身体完全性違和(BID)について
自分の手や足を「自分の身体ではない」「余分なもの」と感じ、
それを切り離すことを望む。
「望ましい身体とは何なのか」という問いは、非常に難しい問題です。
身体完全性違和、身体と自己の関係についても考えさせられました。
以前観た映画『廃用身』とも、身体障害や身体イメージという点で、
どこか響き合うテーマがあるように感じます。
(ただし、映画作品と医学的概念は同じものではありませんが)
それでも、「自分にとって望ましい身体とは何なのか」という問いを考える
入口にはなるのかもしれない、と感じました。
◆躁状態の診断基準や、パニック障害について、さらにCAR-T細胞療法(キムリア)のような新しい治療。
本書を読み進めるほど、「病気」という言葉の意味やその捉えられ方は、
決して固定されたものではなく、
医学だけで完結するものでもないのだと感じました。
時代によって変わる。
社会によって変わる。
医学の進歩によって変わる。
そして、私たち自身の「ふつう」という感覚によっても変わっていく。
だからこそ、
「これは病気なのか?」
と考えるだけではなく、
「私たちは、なぜそれを病気と呼ぶようになったのだろう?」
と問い直すことも大切なのだと思います。
「違った見方」をすること。
当たり前だと思っていることから、一度少し距離をとってみること。
それは、誰かを理解するときにも、自分自身を理解するときにも、
大切な姿勢なのかもしれません。
「ふつう」とは、案外あいまいなもの。
そして、そのあいまいさの中に、
人それぞれの生き方や身体、感じ方の多様性があるのだと思います。
心理職として、人の「困りごと」に出会うとき。
その人自身だけを見るのではなく、
その人を取り巻く環境や関係、
社会が設定している「ふつう」まで含めて考える。
そんな視点を、これからも大切にしたいと思いました。
今日も、ありがとう。
