ごあいさつ

過去の私と浅野周先生との出会い

私は、子どもの頃から身体が弱く、病院に行っても原因がわからない症状が数々ありました。当時の私の様子を思い出せる限り書き残しておきます。2015年

 

 

 

島根県益田市(ますだし)という、のどかな田舎で産まれました。田舎ではありますが、益田市にはANAの萩石見(はぎいわみ)空港があり、大阪や東京に行くには大変便利です。

 

 

乳児期

離乳食期には離乳食を全然食べなかったので、とても心配したそうです。仕方なく3歳頃までミルクを飲んでいたそうです。

 

 幼児期

保育園の時の運動会のビデオを見てみると、他の子はささっとゴールしているのに、私はぼや〜〜っとしていてうまくできておらず、保育士さんが手助けにくるような、かなりのんびりマイペースな子でした。

 

 

2歳

発症後48時間以内に適切な処置をしなければ死に至る病気、腸重積にかかる。2歳になったばかりの年末12月30日「今晩が峠です」と両親に告げられる。当時医師になりたてだった小児科医の中島先生は「学会に出ている場合ではない!今すぐに処置をします!」と学会そっちのけで中島先生と看護婦長の2人で処置をしてくださいました。高圧浣腸1回目成功せず、そして2回目も成功せず、次でうまくいかなければ緊急開腹手術の予定でしたが、無事に3回目の高圧浣腸で成功!オペ室から出てきた中島先生は汗だくだったそうで「成功しました…!」と報告してくれたそうです。大昔だったら生き残れない病気。こうして今生きてることに感謝です。

 

 

 

7歳(小学1年生)

 11月頃から足がしもやけになる。

足が赤くなり痛いのと痒いので我慢の生活。
しもやけが悪化して歩くのが困難になる。
島根の田舎だったので小学校までの道のりは50分。
少し歩いてはしゃがんで休憩、また歩いては休憩で帰っていたので、近所の人が「らあちゃん休み休み歩いて帰りよるよ」と母親に教えてくれた人がいたようで、ときどき送り迎えをしてもらうようになる。

小学校のときは制服で、下半身はスカートに短い白ソックスだったのでとても寒かった。
どんなに寒くても、雪が降っても、風邪をひいた人でなければズボンを履いてはいけない決まりだったため常に下半身が冷えた状態でした。


8歳(小学2年生)
冬になると足が赤く腫れあがり靴が履けなくなる。
スリッパで登校
「なんでスリッパなの?」と男子から笑われる。
言われても我慢した。
病院へ行って処方してもらったのは塗り薬。
しもやけで赤く腫れた足に、小児科でもらった薬を塗るが痛くて辛かったうえに、全く効果なし。
この頃からかなりの小食で、給食があまり食べられず、担任の先生に「残します」と言って、先生が残ったご飯の量を見に来て「はい、いいよ」と毎回言ってもらっていました。


9歳(小学3年生)
しもやけは赤く腫れて痛かったけれど、なわとびの授業があったので痛いながら頑張った。
登下校で歩いていたら足の裏がつるようになる。
ランドセルに教科書を入れて背負うのが辛くてできず、全部置き勉していた。
傘を持つのもしんどくなり、傘を肩に置いてなるべく腕の筋肉を使わないようにしてさしていた。

 


10歳(小学4年生)
学校の朝の点呼で「はい、しもやけで足が痛いです」を毎日言う日が続く。
友達はしもやけにならないから何で私だけこんなに辛いんだろ、と寒い季節が来るのが嫌になった。
頭痛が始まる。
夕方近くになると頭痛で辛かったけれど部活(吹奏楽)が楽しくて頑張った。
体育で50メートル走をした後吐き気がひどくなり保健室へ。
しばらく休んだ後に脈を測ってみてもまだ脈拍が早いままなので保健室の先生に心配される。

 



11歳(小学5年生)
朝7時10分に集合場所に行かなければならないのだが、朝が早い上、身体がしんどくて起きられず毎日車で送ってもらうようになる。
下校のときも学校の電話を借りて家に電話をして毎日迎えにきてもらった。
父親、母親、祖父、祖母の誰かが車で学校に迎えに来てくれた。家族に感謝
朝の食欲がなくなりほとんど食べなくなる。
祖母が毎朝朝ご飯を作ってくれていたのに少ししか食べれなかった。
体育の時間寒すぎて体育の先生に「寒いのが我慢できません」と言っていたが聞いてもらえず耐えていた。
筋肉がきちんと成長しておらずガリ細だったので、熱が発せられていなかったのだと思う。
そのため身体がずっと冷えて低体温になっていたと思う。
母親は「骨皮(ほねかわ)じゃねぇあんたは。虐待されとるようなね(笑)」って言っていた。



12歳(小学6年生)
夏頃、ときどき心臓の動悸があるようになり、心電図にも異常が出たため、体育の授業を休む。
とにかく寒くて寒くて、でも当時は身体を冷やすことは良くないという頭はなかったので、身体を常に冷やしたままでいた。
足が痛くて痛くて「足を切り取りたい」と親に言うくらいになる。
頭痛がひどくなり吐き気がするまでになる。
あらゆる病院をまわりいろいろ検査するも異常なし。親はとても心配していたと思う。

やっとおむつが取れる。夜間はおねしょをしてしまうため、小学校高学年までおむつをして寝ていました。東洋医学でいう腎虚症タイプでした。



中学生
冬に足が紫色になる。
足の血行がかなり悪くなっていた。
冬の柔道の授業が裸足なので辛かった。
友達が「足が紫色じゃん!大丈夫?!」と心配してくれていた。

授業中座っているとき息苦しくなる。
背中がどーんと重くなり椅子に座っているのも辛かったけど我慢して授業を受けた。

走れなくなる。
20メートルくらい走ると足が前に出なくなりスピードがガクっと落ちていた。
学校の先生に「最後まで全力で走らなきゃ!」と言われていたのが辛かった。

ハンドボール投げがうまくできない。
友達は13~20メートルくらい投げるのに私だけ5メートル。
自分の番がくるのが嫌でとても恥ずかしかった。
「え~なんか投げれないんだけど~ははは~」と笑顔で笑っていたけど内心はとても悲しかった。

私の身体どうしちゃったんだろうと思い始めた。

 

 

 

高校生

体育だけは苦手だったけれど、そのほかの勉強は得意だったので受験勉強をがんばり進学校へ入学。

とにかく授業のスピードも速く予習と復習、宿題もやらないとで予想以上に大変で、高校時代は特にきつかった。

勉強する気はあるものの、この頃から机に座っても集中できなくなってきていて、問題を見てもなかなか頭に入ってこない。なかなか覚えられない。特に国語の文章は、読んでも読んでも何が書いてあるのかさっぱりわからなくなり、読解障害になっていた。全体の偏差値は65〜70でしたが、国語だけ45くらいでした。東京か大阪に進学希望だったものの、国語だけできないため、行ける大学が限られてしまうことに。

大好きな吹奏楽部にも入り、30万するフルートも買ってもらったのですが、休日も部活があるため、体力的に追いつかず辞めました。

かなりのやばい子だったらしい私は、部活中にガムを噛みながらフルートを吹いていて驚かれたり、部室の掃除の時間中は部屋の端っこに座って掃除をさぼる(さぼってるという自覚はない)という普通と違う子でした。でも有難いことに先輩も同期の子も優しく、"ちょっとやばい天然な子"として可愛がってくれました。

 

 

身体に起こっていた不調を、思いつく限り、以下に書き残しておきます。

 

 ○身体の症状

身体に鉛が乗っている感じでとても重い

動くのが億劫

ずっと横になっていたい

食欲がない

少ししか食べられない

筋肉が痩せ細っていく

体重減少

足が常に氷のように冷えている

極端に寒がりでお腹からゾクゾク寒い

上半身(背中、首、腕、頭、こめかみ)が痛い

下半身(腰、お尻、お腹、太もも、ふくらはぎ、足首、足の裏)が痛い

筋肉に一気に力を入れるとつる

ずっと座っていられない

ずっと立っていられない

風にあたると痛む

美容院でシャンプーをする格好がきつい

マッサージや指圧をすると痛みが強くなる

階段を上るのがきつい

息切れしやすい

重く締めつける頭痛

目の奥をえぐられるようなガンガンする頭痛

息苦しい(呼吸がしずらい)

か細い声しか出ない

ねぇねぇと肩をたたかれただけでジーンと痛い

熱いものが異常に熱く湯飲みなどに触れられない

冷たいものに触れると手が痛い

常に便秘

冷えると下痢

尿が我慢できない

腕を上げているのが辛い

重いものが持てない

握力がない

和室トイレでしゃがみづらい

背もたれがないと座っていられない

カバンを持っていると首、肩が痛くなる

5分以上携帯を持って操作ができない

美容院で雑誌が見れない(持てない)

寝ても寝てもとにかく眠い

過眠

ストレッチをすると身体の痛みが増す

においに敏感

吐き気

味に敏感で塩分の薄い物しか食べられない

耳が遠く少しガヤガヤしていると声が聞き取れない

耳鳴りがする

耳の閉塞感

耳管開放症

眼瞼下垂

ドライアイ

コンタクトレンズがゴロゴロする

目が痛い

目に光(流れ星のようなもの)が見える

飛蚊症

テレビや照明がまぶしい

胃が膨らむ(呑気症)

背中にニキビのようなぶつぶつがたくさん

生理痛がひどい

顔がのぼせる

唾液が多い

立ちくらみをよく起こす

動悸がする

精神的に異常に汗をかく

 

以上、上記の症状は、約10年に及ぶ鍼治療にて、すべてなくなり、完全に良くなりました。

正確に病院で診断はしてもらっていませんが、線維筋痛症という病気だったようです。

夫は、こんな病気持ちの私と結婚してくれ、親身になって鍼治療をし続けてくれました。

症状が良くなっていかない始めの頃は、「光が見えてこないな。でも、絶対良くなると思う。」と言ってくれ、私も痛い治療を頑張って受け続けました。

 

 

 

🟠浅野周先生との出会い

 

私は、運悪く、19歳の時に車の追突事故に遭い、首を痛め、鍼灸院をいくつか巡った末、最終的に北京堂に出会いました。そこで鍼治療を受けていくうちに、徐々に身体の調子が良くなっていくことに気付いたのです。

 

私が北京堂に出会ったのは、追突事故に遭ってから1年後の20歳になっていた時でした。治してくれる鍼灸院はいっこうに見つからず、症状が悪化していて、常に首が辛い状態でした。

 

それでも、私の首を治してくれる鍼灸院はないかと、たくさんたくさん検索する日々を送っていました。そうしているうちに、パッと北京堂のホームページに辿り着きました。内容を読んだ途端、「ココなら私の首を治してくれるかもしれない!」と強く感じたことを今でも鮮明に覚えています。

 

当時、私は横浜の大学に通っていたのですが、運良く浅野周先生(現在の夫)もちょうど横浜で診療していた時でした。私は、他に、東京や大阪にある大学も受験しており、横浜の大学は滑り止めで一応受けておいた大学だったのですが、まさかの、東京の大学も、大阪の大学も落ちてしまい、滑り止めの横浜の大学しか受からないという無惨な結果に終わってしまったのですが、これは浅野周先生に横浜で出会うために他の大学は落ちたのかな?と思うと、今では良かったなと思えるし、浅野周先生に出会えたことで、その後の私の人生が変わったので、出会えたことに感謝しています。

 

今では、鍼治療のお陰で、見違えるほど元気になり、両親もビックリしています。小さい頃からずっと身体が弱かった私が、子どもを2人産んで元気に過ごせていることを喜んでくれています。

 

ちなみに、浅野周先生も私も島根県出身でした。関東で島根県人に会うことはそうそうないので、運命を感じました。

 

夫とは、30歳差ですが、家族になれたこと、幸せに思います。

 

同じ場所(1階の施術部屋)で、夫も鍼灸施術をやっています。臨床歴35年のベテランで、鍼灸界では名の知れている有名な鍼灸師です。

 

最後に、私がここまで元気になるのに、関わってくれた先生3人を紹介します。

1人は夫の浅野周先生、2人目は、北京堂新宿の吉岡先生(一番弟子)、3人目は、北京堂新宿四谷の高田先生(二番弟子)です。

私は、この3人に、たくさんたくさん鍼を打ってもらい、元気になることができました。とても感謝しています。

吉岡先生と高田先生は、大切な、私の自慢の弟子です。