上郷さんぽ

はじめに
上郷地区ってどんなところ?

上郷地区ってどんなところ?

 ◇「上郷地区」‥米沢市の北東部に位置し、面積は25.82平方キロメートル。

        平野部が68%、残りの32%は戸塚山・館の山等の独立丘陵、長峰山、一念峰などの東部山地。

 

 「上郷」の名は、江戸時代の屋代郷(東置賜)3万石が上郷・中郷・下郷に区分されており、その上郷に由来します。江戸時代に入っていから明治になるまで約270年の間、幕府直支配・上杉領地・村によって幕府支配上杉領地と目まぐるしく変わり、年貢や様々な約束事など、日常生活に大きな影響を受けた時代がありました。幕府領直接支配の時は自由の制限・年貢が少なく、生活にゆとりがあったと言われています。

 明治23年の市制・町村制の施行の際、上郷に属していた川井村・木和田村・竹井村・長手村・上新田村と中郷に属していた浅川村が合併し『上郷村』となりました。

 昭和30年2月米沢市と合併し米沢市の一区域となり、大字は旧々村名を継承し『米沢市大字川井・大字竹井・大字木和田・大字長手・大字上新田・大字下新田・大字浅川』となりました。

 上郷地区は古くから開発されてきた地域であり、また、米沢市内で最も多くの古墳が確認されている地域です。

 

     【NCV協力】おらほの宝~米沢市上郷地区①~ (youtube.com)

 

①戸塚山古墳(とつかやまこふん)
関東以北最大規模の古墳群と「置賜女王の墓」

関東以北最大規模の古墳群と「置賜女王の墓」

関東以北最大の古墳群と言われる戸塚山

昭和57年の発掘調査で古代女性の骨が発見され、「置賜の卑弥呼」と注目を浴びた、米沢市大字浅川にある戸塚山古墳群。

詳細は、下記よりご覧ください。

 

 戸塚山古墳/米沢市役所 (city.yonezawa.yamagata.jp)

 戸塚山137号墳に眠る「置賜の女王」復元CG (youtube.com)

②天王山大覚院
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行者修行と採燈護摩供 神仏混合山伏寺院

  東北に巡行の慈覚大師(天台宗総本山比叡山延暦寺の第三代座主)が、出羽の山寺(立石寺)を創建されたが、その途中「十握山」の東方にある「一念峰」(いちねんぼう・現米沢市長手地内)の奇岩怪石の景勝地に参籠され、牛頭天王堂にも来られて国家安穏・万民の諸願成就を修法されたと伝えられております。

 この頃、村人の中から慈覚大師に出家を願う行者が現れ、比叡山に登り修行の末、「大覚坊」の名をもらって、十握山の西山麓に小さな庵を結び、牛頭天王を別当し、疫病退散・武運長久など民家の安全を願い、日夜祈願に努めていたといわれます。この大覚坊が後の大覚院の開基と言われています。

 (天王山 大覚院HPより一部抜粋)

 

 詳細は下記ホームページよりご覧ください。

  天王山 大覚院 (omn.ne.jp)

③曹洞宗 嶺松山 瑞雲院
800年以上の歴史を持つ、米沢市最古の曹洞宗寺院

800年以上の歴史を持つ、米沢市最古の曹洞宗寺院

 今から約1200年前の大同元年(806)年に、真言宗の「万年寺」として創設されました。

​ 鎌倉時代には、後鳥羽上皇により、国家の災いをしずめ安泰を願う、国家鎮護の道場と定められました。

 その後室町時代の応永元(1394)年、曹洞宗に改めました。そのとき紫雲がたなびき、山の峰の松が輝いていたことから、山号を「嶺松(れいしょう)」、院号を「瑞雲(ずいうん)」と名付けました。

 そして長禄2(1458)年、八代将軍足利義政によって、建て直されて以降、火災などもなく現在に至ります。

 

 

  (あじさい参道 ​曹洞宗 嶺松山 瑞雲院HPより抜粋)

 詳細は下記ホームページよりご覧ください。

  米沢市 あじさい | 曹洞宗 嶺松山 瑞雲院 (y-zuiun.com)

 

④泉養院・置賜三十三観音33番浅川観音
置賜三十三観音33番札所 別名:身代わり観音

置賜三十三観音33番札所 別名:身代わり観音

 所在地:米沢市大字浅川2220

創立は、大同年間(西暦806~810年)に徳一上人が聖観音菩薩をお作りになったころ、泉養院二世が天下泰平、国土安穏、五穀豊穣のための気願書を建立し、徳一上人一刀三札の御作と伝えられる聖観音菩薩(現在は秘仏とされています)を本尊としてお祀りしたのが始まりとされています。

 また浅川観音は、置賜33観音札所の最終札所であり結願所(けつがんしょ)。巡礼者は、ここが最後ということで身に着けていた白装束「おいずり」を脱いで納める習わしがあり、別名「衣脱山観音」とも言われています。本来は納めた方が他界された時、札所から「おいずり」を受け取り遺骸に着けて旅立たせる風習があったが、最近はご家族がお受け取りにこられることは少なくなっているそうです。

 観音堂は江戸時代1711年に再建され、当初は戸塚山山頂にありましたが、昭和29年、参拝しやすいように戸塚山にあったお堂を解体し、規模を縮小し現在の場所に移されました。

 

 ご詠歌 「よろずよの ねがひをここに おさめおく みづはこけより いづるあさがわ」

     「いままでは おやとたのしみ おいずりを ぬぎておさめる とつかやまにぞ」

     「なおたかき くもいとどかぬ さわふかき おさむることは のちのよのため」

 

  その他の情報は下記ホームページよりご覧ください。

 

戸塚山 泉養院(天台寺門宗)/ 置賜三十三観音 第33番 戸塚山観音|観光スポット(米沢市・置賜地方)|やまがたへの旅 - 山形県の公式観光・旅行情報サイト (yamagatakanko.com)

⑤長手の天満神社
朱塗り三連の太鼓橋

朱塗り三連の太鼓橋

 所在地:米沢市大字長手経塚3747-1

 祭 神:菅原道真公

 例大祭:7月25日

 

 学問・受験の神様として信仰されており、長手地区の鎮守(ちんじゅ)としてお祀りされています。

創立は、長井時広が京都の北野天満宮から分霊を受け創立したと伝えられる。以後、伊達氏や上杉氏など歴代領主から熱い信仰と保護を受け、明治に入り郷社(ごうしゃ)となりました。

 社殿には学問の神様にふさわしく、和算の問題と解答を記した算額が掲げられています。

 地区住民により、4月~5月の桜・菜の花の時期に天王川に鯉のぼりを流しており、新緑も重なり上郷地区のお勧めの風景です。三つの弧を描く朱塗りの太鼓橋は、「過去・現在・未来」を通過することを意味していると言われています。

 

  その他の情報は、下記ホームページよりご覧ください。

長手の天満神社/米沢市役所 (city.yonezawa.yamagata.jp)

⑥一念峰(いちねんぼう)
慈覚大師ゆかりの霊場

慈覚大師ゆかりの霊場

 「一念峰」とは、慈覚大師が東北地方を巡った際、仏のような奇岩が連なるこの地に坊をかまえ、篭ること1年にして山寺(山形市)に移ったことに由来すると言います。壱年峰・壱年坊(房)とも書かれます。
 慈覚大師が去った後は、お供の弟子が残り随緑庵(ずいろくあん)という寺を建てたと伝えられています。その後、この寺は天和3年(1683)に左沢(さざわ)(高畠町)に移転、名を霊峰山正覚院と改め、天台宗の寺院として今に続いています。

  (米沢市HP「城下町ふらり歴史探訪」より一部抜粋)

 奇石、巨石の絶景スポット、山頂の紙飛ばし岩からは360度パノラマが広がります。

 

 その他の情報は、下記ホームページ・YouTubeをご覧ください。

  壱念峰/米沢市役所 (city.yonezawa.yamagata.jp)

  【4K】『一念峰(米沢市)』 (youtube.com) (協力:NCV米沢)

   

⑦木和田古墳 木和田窯跡
県内最古の地下式の窯

県内最古の地下式の窯

所在地:米沢市大字木和田764番地(齋藤氏 果樹園内)

 

 「木和田古墳」は昭和26年、三方を山に囲われた和田集落の民家裏に果樹園を造成する際、塚を掘り起こした際に発見されました。

 古墳の玄室は奥行2.3m×幅1.3mほどで、奥壁が凝灰岩(ぎょうかいがん)の一枚岩を用い、側壁は凝灰岩の切り石が積み上げられていました。太刀(たち)、土師器片(はじきへん)、須恵器(すえき)が出土しました。八世紀前半の横穴式古墳と考えられています。

 窯跡は昭和47年ブドウ畑の造成で、古墳の近くの斜面で発見されました。現在は、米沢市で建物を作り保存管理しており、ドアを開けて見学することができます。窯は、岩盤をくりぬいて構築されており、全長5.4m・最大幅1.1m、勾配12度の地下式無段登窯(ちかしきむだんのぼりがま)。地下式の窯としては県内初の発見であり、県内最古と判明しています。古墳から出土した器は、この窯で作られた可能性があると考えられています。

⑧石清水八幡神社(いわしみずはちまんじんじゃ)
武運長久(ぶうんちょうきゅう)の神村の鎮守

武運長久(ぶうんちょうきゅう)の神村の鎮守

 所在地:米沢市大字竹井字野際780-1

 祭 神:応神天皇 市杵姫大神(いちきひめおおかみ) 大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)

 例大祭:9月15日 前夜祭14日

 

 古い時代から武運長久(ぶうんちょうきゅう)の神様と祀られ、以来、土地の守り神として信仰されてきました。

 創立については「石清水八幡神社御由緒」より、康平(こうへい)年間中(1058~1064)に源義家が創建。かつては現在より少し西の方に建ち、敷地は広大で一町八反歩程(現在の第七中学校敷地まで)、神楽殿(かぐらでん)、3階の塔「塔の越(とうのこし)」があり壮大な規模であったが、江戸時代に竹井が東西に分かれたため神社の維持が難しくなり荒廃、東の古郷部(こごうぶ)に八幡様を分霊。現在に至ります。

 神殿の前にそびえ立つ御神木は杉で幹周りは7m程(根周り11m)あり、両側にある石灯篭は文政2年(1819年)の技、当社の長い歴史を見守ってきました。

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 社殿後方に立ち並ぶ石宮・石碑は、上竹井にあった市杵姫神社(いちきひめじんじゃ)・山の神神社より移したもので、大正6年に石清水八幡神社に合祀(ごうし)されました。

 現在の社殿は平成18年に再建。市杵姫神社から運んだ敷石を利用し参道の石畳を社殿まで伸ばしました。

⑨川井の羽黒神社
「川井の葱祭り」で有名 お祓いした葱を食すれば「無病息災」

「川井の葱祭り」で有名 お祓いした葱を食すれば「無病息災」

 所在地:米沢市大字川井4661-5 花森山

 祭 神:農業の神様 稲倉魂命(うかのみたまのみこと)

     商業・医業の神様、縁結びの神様 大巳貴命(おおむなちのみこと)

     子孫繁栄の神様 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)

     鍛冶の神様 石凝姥命(いしごりとめのみこと)

 例大祭:7月14日 前夜祭 午後3時  子供たちの神輿渡御(みこしとぎょ)

              午後6時頃 ご神前に葱をお供えしお祓い。頒布(はんぷ)

     7月15日 例大祭

   

 四柱を祀り、川井地区の鎮守として信仰されており、「川井の葱祭り」の名で広く知れわたっています。川井地区住民が育てた葱を葱祭り前夜祭(7月14日)にお祓いし、その後頒布をしています。

 この葱を食すれば、「無病息災(むびょうそくさい)・身体堅固(しんたいけんご)」で過ごすことができると言われています。

 

 その他の情報は、下記ホームページよりご覧下さい。

川井の羽黒神社と葱祭り/米沢市役所 (city.yonezawa.yamagata.jp) (協力:米沢市)

⑪桃源院・観音堂(置賜33観音23番札所)
桃源院 ~伊達家三代に仕えた家臣「鬼庭左月良直(おににわさげつよしなお)」創建~

桃源院 ~伊達家三代に仕えた家臣「鬼庭左月良直(おににわさげつよしなお)」創建~

 所在地:米沢市大字川井3823-1

 

 桃源院は天文13年(1544年)、梓山松林寺三世・一華宗甫大和尚が開山、伊達氏譜代の家臣、茂庭良直(左月)により川井館ん位創建された曹洞宗寺院。

 茂庭左月は、伊達晴宗・照宗・独眼竜政宗の三代に仕えた家臣で評定衆の筆頭。

天正19年(1591年)伊達政宗が、米沢から岩出山に移封(いほう)されるに伴い、茂庭氏も松山(現:宮城県大崎市)を拝領、桃源院も松山に移されることになりましたが、川井に残った人々で川井村桃源院が再興されました。現在も本堂には左月斎良直、芳名「自光院殿剣外参心大居士」の位牌が祀られ、報恩供養が続けられています。

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置賜33観音第23番川井観音(身代わり観音)

置賜33観音第23番川井観音(身代わり観音)

 所在地:桃源院敷地内

 本 尊:聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)

 祭礼日:7月17日(住職による祈祷のみ)

 

 境内にある観音堂も古い由緒を持ち、「身代わり観音」の名で呼ばれています。

 現在のお堂は、天保15年(1844年)から弘化2年(1845年)にかけて再建されたもので、お堂の内外に篭彫(かごぼり)という見事な彫刻がほどこされています。

 

 ご詠歌 「ごくらくの はしよりみれば はなのもり きぬぎぬやまは のどかなるらん」

 

 そのほかの情報は下記ホームページよりご覧下さい。

和江山 桃源院(曹洞宗)/ 置賜三十三観音 第23番 川井観音|観光スポット(米沢市・置賜地方)|やまがたへの旅 - 山形県の公式観光・旅行情報サイト (yamagatakanko.com)  (協力:山形への旅-山形県公式観光・旅行情報サイト)

⑫安住山慶福寺(あずみやまけいふくじ)
上杉二十五将の一人毛利安田上総介能元(もうりやすだかずさのすけよしもと)の菩提寺

上杉二十五将の一人毛利安田上総介能元(もうりやすだかずさのすけよしもと)の菩提寺

 所在地:米沢市大字川井4870-1

 米沢藩家臣「毛利家」の菩提寺。境内には一族の墓があります。毛利家とその家中のための寺だったため檀家が少なかったそうです。

 上杉二十五将の一人、謙信・景勝に仕えた猛将『毛利安田上総介能元(もうりやすだかずさのすけよしもと)』の墓は、慶福寺の裏、川井館のあった山の中の中腹にあり、甲冑を身に着けたまま葬られていると伝えられており、地元では「八幡さん」と呼ばれ親しまれていたそうです。

 上総介能元は、文武両道・内政手腕に優れ、景勝が留守の時政務を任せられた人物であり、会津三奉行の一人、直江兼続らと「上杉家十七箇条家中法度」を制定しました。このころ、前田慶次郎利益と親交がありました。

※写真:万年塔と供養塔 

 『万年塔』とは、直江兼続が考案した米沢藩独特の墓石です。中は空洞で前面に☐(四角)の穴が開けられた立方体の石の上に屋根を乗せた形をしています。

 有事ともなれば屋根を外し積み上げて防護壁とし、洪水の時には土を詰め、土嚢の役割をするように考えて作られています。

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