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2025-07-07 15:50:00

石見銀山資料館館長 仲野義文様

旧堀氏庭園の名勝指定20周年にあたり、関係者の皆様には心よりお祝い申し上げます。

 

さて、私と堀家とのかかわりは観光での訪問を除けば平成21年(2009)に始まる。

石見銀山遺跡の文献調査として笹ヶ谷銅山に関する史料収集を目的として訪れたのが最初といえる。

 

文書が保管されている上の蔵に入り、沖本常吉氏作成の『堀家文書目録』を参考に箪笥に収納された文書を選び出し、ひたすらカメラで撮影したことを記憶している。大量の文書群に圧倒されただけでなく、内容についても興味深いものばかりで一見して貴重な鉱山史料群だと確信した。

 

その後、この調査をご縁に津和野町教育委員会から旧畑ヶ迫病院の展示基本計画の作成を委託されることとなった。

本院は堀礼造氏により明治25年(1892)に設立、その目的は「慈恵ヲ主トシ専ヲ普通薬価ノ支辨ニ堪ヘサル患者ヲ治療シ」と、生活弱者への無償の医療提供であった。初代院長には東京大学医学部卒で山口県立病院長などを歴任した吉田興三を招聘、新館棟の完成に伴い大正8年(1919)にはアメリカ製のレントゲンを導入するなど島根県内でも最新鋭の設備を擁する病院であった。

 

堀氏はこの時期、畑ヶ迫病院のほかに石見水力電気株式会社や石見製紙株式会社を設立し地域産業の発展にも尽力した。

同時に育児院、小学校、警察署等の建設費や災害被災者に対する義援金など多額の寄付もしており、この調査を通して「中国地方の銅山王」という鉱業家の側面だけでなく、名望家としての堀氏の一面に触れることができた。

 

平成25年(2013)からは島根大学小林准士教授のお誘いにより堀家文書史料調査事業に参加することとなった。

近世鉱山史を専門とする私にとっては堀家文書に収録される笹ヶ谷銅山関係史料はとても魅力的であった。なぜなら、日本の鉱山は盛衰が激しく、それゆえ経営者の交代も頻繁に行われることから関係史料が残ること自体が珍しく、堀家文書の事例は極めて稀といえる。

 

この調査事業は足掛け10年に亘り、目録に収録した文書数は近世・近代を含め10万点余にも及ぶ大事業となったが、文書の整理・目録化により研究利用が可能となった点は大きな成果といえるであろう。

 

堀氏の関連文化財は、住宅や庭園、旧畑ヶ迫病院などの建物と共に、堀家文書などが一体的に保存されている点が特徴であり、それらの存在が相互の価値をより高めることにつながっている。今後は建物や庭園の公開に加え、堀家文書の研究によって得られた知見を逐次展示に反映させることができれば、いま以上に魅力的な施設になるものと思われる。

 

最後に、笹ヶ谷鉱山や堀氏は、1970年代の鉱害問題により歴史の表舞台から消された感がある。

しかし、同氏が残した地域社会への功績はそのことによって否定されるものではない。旧堀氏庭園の魅力とともに、そのことをぜひ伝えていただきたい。

2025-07-07 15:41:00

奈良文化財研究所長 本中 眞様

「旧堀氏庭園」鉱山開発の営みと谷あいの眺望が形づくる芸術作品 ―名勝指定20周年に寄せて― 

「旧堀氏庭園」が名勝に指定されてから、今年で20年が経過しました。この間、その保存と活用に携わって来られた津和野町をはじめ、関係の方々に対し、心よりお祝いを申し上げますとともに、その並々ならぬご努力に深く敬意を表したいと思います。

 

私が初めて「旧堀氏庭園」を訪問したのは、2004年3月のことでした。当時、私は文化庁の名勝担当の主任文化財調査官だったのですが、津和野の城下郊外の白石川添いに連なる畑迫地区の谷あいの村落のなかで、ひときわ大きな屋根と堅牢な石垣に囲まれた堀家の屋敷構えに接し、このような独特の意匠と構成を持つ庭園が、山深いこの地に伝えられてきたことに深く感銘したことをはっきりと覚えています。

 

さらに、「旧堀氏庭園」は、楽山園や和楽園などの「庭園」という芸術作品を中心としつつも、養魚池や畑迫病院前庭の花壇など、近代が生んだ多様な「造園」の作品群だと言っても過言ではありませんでした。それらは、堀氏と畑迫地区の地形が生み出した造園文化の結晶ともいうべき存在であり、鉱山開発の営みと谷あいの眺望を主軸にひとつの繋がりのある風景として伝えられてきたことに、私は大きな驚きを持ったのです。

 

その一方、保存環境には心配なことがありました。主屋の背面の一部は小屋裏の部材が雨漏りによって極度に劣化し、このまま放置すれば早晩崩壊してしまう危険性が迫っていました。谷あいを貫く県道の改修工事も近く予定されており、庭園からの眺望にも十分配慮した工法となるのかどうかについても懸念があったのです。

 

そのような心配や懸念に対して、当時の所有者であった「堀庭園」の関係者と、津和野町長であった中島 巖さんは、名勝への指定に向けて機敏な判断と調整に努めてくださいました。あのとき、津和野町の適切な行政上の対応が無ければ、今日見る完全なかたちでの「旧堀氏庭園」の保存は望めなかったでしょう。同時に、地域の人たちを広く含む豊かな活用も期待すらできなかったに違いありません。

 

コロナ禍を経て、これからの「旧堀氏庭園」は、畑迫地区の将来とともに新たなステージを迎えることとなります。さまざまな課題も垣間見えるなか、多くの人びとの知恵とアイデア、そして支援によって、畑迫地区ならではの取り組みが前進することを願ってやみません。

2025-07-07 15:39:00

水舟造園 代表 桑原真幸様

「ツツジの花は満開に咲かせるべきではない。女性のかんざしのように添える程度がいい」堀さんが使用人に話していた言葉だそうです。

 

堀さんはツツジの葉や枝が少しでも伸びると使用人に剪定をさせて、庭園のツツジは常にクルンと丸い形に維持していたそうです。
堀庭園でツツジの手入れをする時にはいつもこの言葉が頭に浮かびます。「堀さんは100年以上も前にこの同じツツジを見て、そんな風に考えていたのか」と思うと、庭木としては定番のツツジにも歴史とドラマを感じます。

私個人にとっても、約40年前の小学生の頃にスケッチ大会で堀庭園を訪れて描いた滝の絵が家に残っています。

今も仕事をしながら「40年前の自分は、どこに座って描いていたんだろう」と思い出を振り返ることもあります。

 

建物と違い、庭園の庭木は成長を続けています。特に楽山庭園や和楽園は後ろの山を借景にしているため、庭園の成長はなおさら顕著です。作庭当初の庭園をそのまま維持することには正直、限界があります。庭木の成長はもちろん、個人庭園から観光庭園となったように時代の流れにも沿いつつも、堀さんが見ていた庭園の面影をいかに残していくかが、堀庭園の維持管理の魅力として考えています。

 

旧堀氏庭園の維持管理を任せていただいている上で、心掛けている事の1つに「原点回帰」が挙げられます。

これは堀庭園に限った事ではありませんが、津和野のような城下町には古くからの庭園が多く残っています。
これらの庭園は施主がどんな思いで作らせたものか、庭師がどう考えて作ったものか、当時の気持ちが見えてくるような維持管理を考えながら取り組んでいます。

 

「紅葉が綺麗だね」「秋にまた来たいね」「静かな中で滝の音に癒されました」など、多くのお客様に声を掛けられます。

ですが、“目の前に見える堀庭園”だけではなく“作庭100年を越える歴史を感じる堀庭園”として、「この庭を堀さんも見ていたんだね」「堀庭園はどんどん良くなるね」そんな風に言われるような仕事に繋げていきたいと考えています。

 

堀庭園は堀さんの思い出、私の思い出、ここを訪れた方や関わった方などいろんな方の思い出と歴史の詰まった庭園です。

名勝登録20周年の今回はそんな思い出や歴史を振り返るよいきっかけになりました。

そして、これからの未来では堀庭園にどんな思い出や歴史が積み重なり、庭園としてどんな表情を見せてくれるのか今後も楽しみです。

 

2025-07-07 15:37:00

集落支援 桑原優子様

私が津和野に来たのは2012年の初冬。

都会からの移住だったこともあり、車の免許は持っているもののほぼペーパードライバー、しかも見たこともないくらいの大雪が降り(津和野としては平年並み)、家に閉じこもる日が続きました。そうしていても退屈なので、近所に出かけられるところはないか?と主人に聞いたところ、「堀庭園なら歩いて行けるよ」と教えてもらい、さっそく行ってみることにしました。

途中に、朽ちた洋館を右に見ながら(今思えば畑迫病院)歩くこと30分ほど、堀庭園に到着。

何やら古い立派なお屋敷だけど、日本建築にまるで疎い私にはその凄さ、価値は全く分かりませんでした。

それから数年後、集落支援員となり初めは堀庭園に、休職1年を挟んで今は旧畑迫病院に勤務しています。

 

私は、旧畑迫病院の集落支援員として一番大事なことは「ここの価値を多くの人に知ってもらうこと」だと思っています。

でも、そもそも「ここの価値」って何なのでしょう?大正時代に建てられた擬洋風の建築様式、最先端の医療を投入した病院であったこと、そしてそれが昭和の終わりまで残っていたこと、建て直してはいるが建築当初の形に忠実に復原していること。

手元にある資料を読めば、こういったことは言葉の上では簡単に知ることが出来ます。

来館されたお客様にもこういった説明をして「凄いですねえ」と言っていただくことも多いのですが、上辺の言葉だけでなくしっかり理解してお伝えできているか?と自問自答する日々です。

 

子供のころに読んだ文章で、「絵を見て『よく分からないな』と思っても、見続けて、考え続けていたら何かが分かるかもしれない」というものがあるのですが、旧畑迫病院ならびに旧堀氏庭園は、私にとってはこの文章の中の「絵」のようなものだなと感じます。

たとえば「ピカソの絵だから凄い」「ゴッホが描いたから素晴らしい」というのは、情報として「価値がある」と判断しているだけで、その絵の価値を分かっているわけではない。

それと同じように、旧畑迫病院・旧堀氏庭園の価値は私にはまだ分かっていないのではないかと思います。

そのうち分かるのかな?ずっと分からないままなのかな?とたまに不安になったりもしますが、いつか胸を張って「ここは凄いんですよ!!」と言えるように、これからも諦めずにいろいろな角度から見続けて考え続けていきたいと思います。

2025-07-07 15:36:00

大阪電気通信大学教授 矢ヶ崎善太郎様

2002年のころ、島根県全県を対象にした民家調査のため県の担当者と津和野を訪れ、町の文化財担当者(米本さんだったか)から堀家を案内された。

まずは精緻な石垣に建つ壮大な白壁の建物に圧倒されたが、古風な石州瓦が葺かれた表門から入って、主屋に入った時の驚きは忘れられない。

土間の力強い小屋組への驚きもあったが、山の斜面に接する背面の惨状に目を疑った。屋根の大部分が崩落し廃墟のような印象させ漂っていたのである。

 

当時、所有されていた大谷さんが、当時京都にあった私の職場に訪ねて来られたのは、それからほどない日であった。

菩提寺の本山にお参りに来ただけ、とおっしゃいながらも「せっかく預かった堀家の建物があのような状態になってしまったことが無念である」ことを吐露されに来られたことを察するのは容易であった。

とはいえ、私に援助する力など何もなく、その悔しさをお聞きするのが精いっぱいであった。

なぜか降り出した雨のなかを傘をさして帰って行かれる寂し気な背中がいまも忘れられない。

 

しかし、その切なる願いがかなったのか、もちろん町や県の担当者のご努力があって、敷地が名勝として指定される道筋がつけられ、2004年には本格的な調査を開始。

庭園と建築の価値を評価する報告書が刊行され、名勝指定という栄誉をいただくことができた。

 

客殿「楽山荘」の棟札には港町・須佐の大工の名が記されていた。

港町には優秀な大工が排出される。その須佐には堀家の別邸があり、鉱山で働く人たちのためのプラベイトビーチがそなわっていた。

畑迫には病院も建設され、過酷な労働を癒すユートピア的な集落の形成が意図されていた。

 

主屋の向かいにつくられた和楽園には清らかな湧水をため、その水を利用して湯を沸かす茶屋の存在も明らかになった。

堀家に残された資料群には文化人、数寄者としての堀氏の動向がうかがえ、茶の湯のほか当時流行していた煎茶文化の担い手であったことも明らかになった。

堀氏の好尚は津和野の城下にも多大な影響力を持っていた。

 

堀家の存在は、日本の建築史・庭園史、文化史においてきわめて重要な意味を持っている。

津和野にとどまらず、日本の財産として認識すべき存在なのである。

私は日本庭園の特質を語るのに楽山荘の庭園や和楽園の水の造形がなくてはならない存在であるように思えてならない。

そして主屋や楽山荘のさらなる文化財指定への夢を捨てることができない。

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