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大阪電気通信大学教授 矢ヶ崎善太郎様
2002年のころ、島根県全県を対象にした民家調査のため県の担当者と津和野を訪れ、町の文化財担当者(米本さんだったか)から堀家を案内された。
まずは精緻な石垣に建つ壮大な白壁の建物に圧倒されたが、古風な石州瓦が葺かれた表門から入って、主屋に入った時の驚きは忘れられない。
土間の力強い小屋組への驚きもあったが、山の斜面に接する背面の惨状に目を疑った。屋根の大部分が崩落し廃墟のような印象させ漂っていたのである。
当時、所有されていた大谷さんが、当時京都にあった私の職場に訪ねて来られたのは、それからほどない日であった。
菩提寺の本山にお参りに来ただけ、とおっしゃいながらも「せっかく預かった堀家の建物があのような状態になってしまったことが無念である」ことを吐露されに来られたことを察するのは容易であった。
とはいえ、私に援助する力など何もなく、その悔しさをお聞きするのが精いっぱいであった。
なぜか降り出した雨のなかを傘をさして帰って行かれる寂し気な背中がいまも忘れられない。
しかし、その切なる願いがかなったのか、もちろん町や県の担当者のご努力があって、敷地が名勝として指定される道筋がつけられ、2004年には本格的な調査を開始。
庭園と建築の価値を評価する報告書が刊行され、名勝指定という栄誉をいただくことができた。
客殿「楽山荘」の棟札には港町・須佐の大工の名が記されていた。
港町には優秀な大工が排出される。その須佐には堀家の別邸があり、鉱山で働く人たちのためのプラベイトビーチがそなわっていた。
畑迫には病院も建設され、過酷な労働を癒すユートピア的な集落の形成が意図されていた。
主屋の向かいにつくられた和楽園には清らかな湧水をため、その水を利用して湯を沸かす茶屋の存在も明らかになった。
堀家に残された資料群には文化人、数寄者としての堀氏の動向がうかがえ、茶の湯のほか当時流行していた煎茶文化の担い手であったことも明らかになった。
堀氏の好尚は津和野の城下にも多大な影響力を持っていた。
堀家の存在は、日本の建築史・庭園史、文化史においてきわめて重要な意味を持っている。
津和野にとどまらず、日本の財産として認識すべき存在なのである。
私は日本庭園の特質を語るのに楽山荘の庭園や和楽園の水の造形がなくてはならない存在であるように思えてならない。
そして主屋や楽山荘のさらなる文化財指定への夢を捨てることができない。