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2025-07-07 15:41:00

奈良文化財研究所長 本中 眞様

「旧堀氏庭園」鉱山開発の営みと谷あいの眺望が形づくる芸術作品 ―名勝指定20周年に寄せて― 

「旧堀氏庭園」が名勝に指定されてから、今年で20年が経過しました。この間、その保存と活用に携わって来られた津和野町をはじめ、関係の方々に対し、心よりお祝いを申し上げますとともに、その並々ならぬご努力に深く敬意を表したいと思います。

 

私が初めて「旧堀氏庭園」を訪問したのは、2004年3月のことでした。当時、私は文化庁の名勝担当の主任文化財調査官だったのですが、津和野の城下郊外の白石川添いに連なる畑迫地区の谷あいの村落のなかで、ひときわ大きな屋根と堅牢な石垣に囲まれた堀家の屋敷構えに接し、このような独特の意匠と構成を持つ庭園が、山深いこの地に伝えられてきたことに深く感銘したことをはっきりと覚えています。

 

さらに、「旧堀氏庭園」は、楽山園や和楽園などの「庭園」という芸術作品を中心としつつも、養魚池や畑迫病院前庭の花壇など、近代が生んだ多様な「造園」の作品群だと言っても過言ではありませんでした。それらは、堀氏と畑迫地区の地形が生み出した造園文化の結晶ともいうべき存在であり、鉱山開発の営みと谷あいの眺望を主軸にひとつの繋がりのある風景として伝えられてきたことに、私は大きな驚きを持ったのです。

 

その一方、保存環境には心配なことがありました。主屋の背面の一部は小屋裏の部材が雨漏りによって極度に劣化し、このまま放置すれば早晩崩壊してしまう危険性が迫っていました。谷あいを貫く県道の改修工事も近く予定されており、庭園からの眺望にも十分配慮した工法となるのかどうかについても懸念があったのです。

 

そのような心配や懸念に対して、当時の所有者であった「堀庭園」の関係者と、津和野町長であった中島 巖さんは、名勝への指定に向けて機敏な判断と調整に努めてくださいました。あのとき、津和野町の適切な行政上の対応が無ければ、今日見る完全なかたちでの「旧堀氏庭園」の保存は望めなかったでしょう。同時に、地域の人たちを広く含む豊かな活用も期待すらできなかったに違いありません。

 

コロナ禍を経て、これからの「旧堀氏庭園」は、畑迫地区の将来とともに新たなステージを迎えることとなります。さまざまな課題も垣間見えるなか、多くの人びとの知恵とアイデア、そして支援によって、畑迫地区ならではの取り組みが前進することを願ってやみません。