付録:「1980年代の思い出の御話」(塾長:井川治久)

2018年6月15日執筆:  (著者:井川塾受験英語学院塾長:井川治久):

 
 
1980年代の「想い出」の御話:
 
◆政治・経済にコネのある人は出世できることも多いですが、政治・経済にまったくコネの無い私は、高校生の頃から「売り込み」をして「自分のやりたい事」をやってきました。もちろん、「やりたい事」の全てが「実現」できたわけではなく、「企画を断られたこと」も何度もあります。
 
◆記憶する限りでは、高校生時代に、ゲームセンターが近所にありアーケードゲームを趣味の一つとしていたことから、SEGA(セガ)とTAITO(タイトー)が当時それぞれ行っていた「ゲームアイディア募集」というような企画を知り、応募したのが始まりです。高校生ながらに「レポート用紙に新しいテレビゲームのアイディア」を書いて提出。SEGA(セガ)からは入賞賞金(確か1萬円)、TAITO(タイトー)からは賞品として置き時計をもらいました。懐かしいことです。
 
◆小学生になった頃は、鉄道ファン(電車とSL)で、地元を走る西武鉄道の運転手になることが「夢」でしたが、高校生になった頃には、ゲームセンターを経営することが「夢」になっていました。(スペースインベーダーと、ピンボールマシーン、ビンゴマシーン、ルーレット台、ダービーゲーム、カーレースゲームなどを完備したゲームセンターを創りたい・・・などと、高校生なりに「夢見ていた」時がありました。)
 
◆ところが、高校2年生の3学期になると、同級生が、みな最難関大学の受験に挑むことになる・・・という「現実」に直面し、「自分は、将来、どうするのか?」ということを、一考せざるを得ない「心理状態」に陥りました。
 ◆趣味であるアーケードゲームに関連した仕事を第一にめざす積もりでいましたが、「趣味は、仕事にしないほうがいい」という「人生における考え方」をおっしゃる先生がいて、「仕事は、あくまでも仕事であり、生計を立てるために従事して、仕事を終えたら、そのあとで、趣味を思う存分やったらいいではないか!」という(当時高校生だったボクには人生で初めて聞く)目新しい考え方でした。
 
◆しかも、「いつだって、人生においては、第一志望が叶うとは、限らない!」ということぐらいは、高校生の当時のボクでも、分かっていました。「常に、第一志望のほかに、第二志望と、滑り止め等を、考えておく必要がある」と。だからこそ、「第一志望が、叶うように、ゲーム的に、競っていこう!」と。これが、高校3年生の6月から、生まれて初めて「気合い」を入れて大学受験勉強をスタートした切っ掛けでした。
 
◆得意科目が、数学と算数しかなかった当時のボクは、当然の流れで「理系クラス」に入っていましたが、上述の先生の御話に「一理ある」と自分なりに考え、「人に色々と話して教えるのが好きだったボク」は、将来の仕事を「数学を教えること」に決め、慶應義塾大学を第一志望とし、アーケードゲームは「趣味」として楽しんでいくことにしました。
 
◆この決意が固まるまでは、アーケードゲームの練習に余念が無く、ゲームセンターでスコアを競っていましたが、高校3年の6月になると、この代わりに、「英熟語のスコア」を学友と競争するようになりました。それまでは、放課後に、「インベーダーゲームでハイスコアを取る方法」を同級生に教えていたのですが、その代わりに、「英熟語の小テスト」を友達同士で作り合ってスコアを争うようになったのです。この「英熟語ゲーム」のお陰で、ボクは、生まれて初めて「受験英語の英熟語が得意になってきた」のです。
 
◆いくら、数学が得意でも、そして、英熟語を覚えても、「受験英語の偏差値」は、なかなか上がりませんでした。それは、至極当たり前のことで、中学一年の初めから「英語嫌い」に陥ってしまったボクが、高校三年になって急に、英熟語を1000ぐらい覚えたところで、難関大学入試の英文が読めるようになるワケではありません。やはり、中学一年から「英文法に基づいて、長文を読む練習」をサボってきたボクに、大きな付けが回ってきたのです。
 
 
◆高校2年生の3学期のことだったと思います。
担任の先生に、
このままの英語の成績では大学受験は難しい、
中学3年レベルの英文法から、早く、やり直したほうがいい
と言われました。
◆この「タイムリーな忠告」のお陰で、
英語の先生に「高校の先輩」を紹介していただき
「家庭教師」をしてもらったのです。
◆この時は、1回2時間のレッスンでしたが、
高校3年になると、このペースでは間に合わない
と「自覚する」ようになり、
一日中ずっと受験英文法を自分でやり続けるようになるまでに
「やる気と忍耐力」が高まってきたのです。
◆それでも、
週に2~3回は、ゲームセンターに顔を出していましたから、
まだまだ「真剣み」が足りない高3の1学期でした。
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◆受験英文法の勉強を、高校3年になってから、
生まれて初めて「真剣に、本格的に始める」と、
「まるで、これは、マシーンの分解だな!」
と、直感しました。
◆そして、
「英文法が、本当に分かれば、
英文の分解も、組み立ても、自由自在にできる」
ということが、解ってきました。
◆ところが、
「この英文法の分解・組み立ての面白さを、
全部教えている授業は、
ボクが高校3年生の当時の1981年には、ほとんど見当たらなかった」
のです。
◆それは、当然とも言えることで、
2018年の今でも余り存在していません。
◆なぜなら、
「中学1年から高校3年まで6年間かけて順に学んで来る
英文法の広範囲にわたる全項目を、
たったの1年間の講座(授業)に凝縮することは、
物理的に、あり得ない」からです。
◆「英文法の内容を、凝縮してしまったら、要点だけしか残りません。
要点というのは、基礎のことですから、応用事項は含まれない」
ことになります。
◆ですから、
「中学・高校の英文法の全内容を、1から習得するには、
相当数の授業時間に加えて、
学習者本人の自学自習の努力が、必要不可欠」になるのです。
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◆高校3年生になって、
最も嫌いで一番苦手であった「受験英文法」の勉強を
仕方なく始めたボクは、
「英語を分解することをゲーム的に続けて
『★英語の部品』がハッキリと解ってくると、
だんだんに自己満足が生じて、快感になってきた」
のです。
◆そうして、
「英文法による分解方法、組み立て方法、分析のしかたが、
ハッキリとわかる快感」を、
もし「★予備校の大教室で自分が教えたら、どんなに大きな快感が得られるだろう!」
「★自分と同じく、受験英語で、つまずいた受験生に役立つ授業が、実現できる!」
と、
「夢に見る」ようになったのです。
◆この高校3年生のクリスマスの日に、
「★自分の本当にやりたい仕事」が見つかり、
遅まきながら、
「理系科目」を思い切って捨て去り、
浪人して「文系科目」を1から学び直す決断をしたのです。
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◆高校2年の初めには、
将来のことなど真剣に考えていませんでしたから、
毎日を気ままに過ごし、
もともと大食漢であったボクは、太り放題で体重も
★75キロ余りあり、
「体力のかたまり」でした。
◆ところが、
1浪目の受験勉強生活に入ると、
「現代文、古文、漢文のゼロ状態からのやり直し、
および、応用力が付くまでの勉強の完成」が
第一志望の早稲田大学の受験日までに間に合わない
可能性があることが「自覚」でき、
「毎日の暗記量・学習量を、人の2倍に設定し、実行した」ために、
神経がすり減ってしまい、
体中が凝り始めて、胃がしくしくし始めたのです。
◆幸いなことに、
体重は★54キロまで激減したものの、
睡眠は平均7時間、食欲は劣らず一日4食を平らげて、
恩師たちのサポートのお陰もあって、
「★精神力」も衰えることなく、
第一志望の早稲田大学・第一文学部に、何とか、合格できました。
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◆もちろん、
早稲田大学に合格できたことは、
「人生における最大の喜びの一つ」でした。
★「自分が本当にやりたい事のために、
自分がやりたくない事にも痩せる程の努力をして実行することができた
人生初の体験」だったからです。
◆すなわち、
「大手予備校の英語講師になりたいために、
早稲田大学・英文科に行きたくなり、
そのために、
敢えてやりたいとも思わなかった古文・漢文の暗記と演習に
痩せるほどまでの労力を費やすことができた」
ということです。
◆「古文・漢文をゼロから始めたボクのあらゆる疑問、質問に、
夜遅くまで講師室で、一つ一つ、答えてくださった恩師たち」のお陰もあって、
ボク自身の「努力」「忍耐力」「第一志望への意欲」は、
衰えることはありませんでした。
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◆しかしながら、
早稲田大学に入学できたからといって、
大手予備校講師になれる「保証」は、
何一つ、ありませんでした。
◆上述したように、私には、
「政治・経済のコネが、何一つ、無い」のです。
◆そこで、
早稲田大学1年生の頃から、
恩師たちに、相談してみたりしたのですが、
「予備校講師は、何の保証も無い仕事なので、君には、勧められない」
「高校の教諭か、大学の先生になるのが、いいんじゃないか」
と、どの先生に聞いても、ほぼ同じような事を言われたのです。
◆学生の当時、気が短かったボクは
(*2018年現在は年の功で、気長になりましたが)
「このまま待っているだけでは、予備校講師には、なれない」
と踏み、
「まずは、町の学習塾で、経験を積む」ことにしました。
◆ところが、
早稲田大学1年生のときに、
実際に、町の塾の英語講師をやってみると、
▲「自分の教えたい事が、ちっとも、教えられない」
ということに気づいたのです。
「塾のほうで決めた事だけしか、
授業時間内には、教えられない」のです。
しかも、
「評価を、勝手に、下されてしまう」ので、
「まったく教える意欲が湧かなくなってしまった」のです。
自分では
★「最良の授業準備をして、良心的な講義をしている」
のに、
その塾では「塾長以上に上手い講義をすると、評価が悪くなった」
のでした。
◆・・・・・・こんな馬鹿げた事を続けていては、何の進歩も無い!
と、
当時気短なボクも、冷静に考えて、
★「自分の講義の上手さを証明する」ためには、
大学2年から、自分で開塾するしかない!
と思い込み、決断して、
大学1年の時に
まさに塾講師のアルバイト代で貯めた「無けなしの金」をはたいて、
1984年、
早稲田大学の2年生になりたての春休みに、
早稲田の同級生3人で、
豊島区南長崎に当時存在していた小さな印刷屋さんに
広告のビラを1万枚ほど刷ってもらい、
自分たちの足で歩いてポスト投函をして、
ようやっと2名の生徒が集まり
開塾できたのでした。
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◆それでも、
大手予備校の教壇に立つ「夢」には程遠い
と感じていたボクは、
「どうしたら、大教室の教壇に、立てるか?」
を考えました。
★「自分を売り込む(アッピールする)材料」が必要不可欠だと、
気づきました。
◆そこで、
実は「浪人生時代から、早稲田に受かったら実現しよう!と温めていた企画」
が幾つかあり、
早稲田大学2年生の4月から「自分の塾の授業」と同時併行で、
★「英語暗記するだけ」という受験参考書の執筆を、
何の出版の保証も無かったのに、
自分ひとりで勝手に始めたのです。
◆2018年の今の時代だからこそ
「英語の暗記本」は多数出版されていますが、
ボクが大学2年生の当時、
1984年に「受験英語の暗記本」を書き始めた頃は、
▲「要領を得た受験英語の暗記本」はほとんど出版されておらず、
ボクが大学3年生の1985年に出版した『㊙英語暗記するだけ』(新声社刊)が、
「★大学受験英語暗記本の先駆的存在」の一つです。
(1985年の同時期に、桐原書店の『英語頻出問題総演習』も出版されたと記憶します。)
◆この早稲田大学3年の時の
「処女作の出版」の際にも、
「コネ」のないボクは、
「自分で売り込む」ことをする以外に
何の術もありませんでした。
◆うちの叔父さん(井川良久)が当時NHKにいて、
やはり早稲田大学OBであったので、
話を聞いてもらおうとしましたが、
「大学3年生の書く本」など相手にすらしてもらえず、
「ほんとうに、コネの無い家だな~」と「再自覚させられた」
ものです。
◆だからこそ、
「自力を発揮」して
「★自分の腕一本でやり遂げる」しかありませんでした。
◆そこで、
「売り込み案」をレポート用紙に手書きで作り上げて、
「山勘で」10社ほどの出版社を選定して、
そのコピーを郵送しました。
◆すると、
当時、大手以外の3社から「一度お会いしたい」
という返事を頂けたのです。
◆「何事にも経験の浅い学生時代」ですから、
3社から返事を頂けて一瞬大喜びをしていたのですが、
「ようやっと書き上げた処女作品」を
同時に3社から出版するわけにも行かず、
これも「山勘で」1社を選びました。
◆結果として、
「今では有名となった2社」に御断りをしたため、
その当時、かなり憤慨されてしまったのです。
(1984年のことなので、もう誰も覚えていないことでしょうが。)
◆こうして、
紆余曲折を経たものの、
1985年の7月に、
「早稲田・慶応らくらく突破シリーズの第1冊目」として
『㊙英語暗記するだけ』が出版され
書店に平積みになったのです。
◆出版社の社長・副社長の提案で、
恩師に監修者になっていただけるようにお願いして、
1冊目が順調に売れて、
計4冊のシリーズが1987年に完成するに至り、
成功を収めました。
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◆しかしながら、
出版をしても、
早稲田大学の4年生になっても、
「大手予備校の大教室で教えられるチャンス」は、
一向に巡ってきませんでした。
★「チャンス」を待っていても、
来ない時には、絶対に来ないのが、人生の常です。
◆せっかく、
都内の書店に「自分の本」が置かれて、
「売り込む材料」が出来上がったのに、
売り込まないで、ボケっとしているわけにはいかない! 
◆当時、
気長に待てない性格であったボクは、
よく調べもせずに、
高田馬場の早稲田通りにあった予備校に、突然、訪れて、
「授業をやらせてほしい!」
と申し出たのです。
◆「早稲田大学の学生証」と「自分の処女作」が、
唯一の武器(売り込み手段)
でした。
◆しかしながら、
この初訪問の時点では、やはり相手にしてもらえず、
あっさりと、門前払いを食らってしまったのです。
◆その後も、
懲りることなく、
再び、高田馬場の駅近くの2つの予備校に、
「予備校講師になりたい」という趣旨の御手紙
を出したのですが、
再び、相手にされませんでした。
◆そうこうしているうちに、
早稲田大学の4年生にもなると、
「就職ガイド」のような冊子が
自宅に大量に送られてきました。
すると、その中に、
「教育サービス」関係の就職案内があり、
そこに、高田馬場にある2つの予備校の職員募集の葉書が
付いていたのです。
◆自分自身は、もちろん、
予備校職員を目指しているわけではなく、
1986年当時の第一志望は「大手予備校英語講師」であり、
第二志望は「私立高等学校講師、兼、私塾講師」
でした。
◆しかし、
折角送られて来た無料葉書なので、
「予備校講師志望」と書き直して送ったところ、
2つの予備校のうち、
1つの予備校からは
「丁寧な御断りの御手紙」を理事長の直筆でいただきました
(そこには、「あなたは、面白い方だ」と書かれていたと記憶します)が、
もう1つの予備校からは、
「至急、面接に来たれ」という趣旨の速達をいただいたのです。
◆こうして、
政治・経済に「何のコネも無い私」が、
1987年1月4日に、
学校法人早稲田予備校の高田馬場13時ホールの
大教室の教壇に立ち、
初登壇日から、生徒200名あまりが集まり、
晴れて「★大手予備校最年少講師」となったのです。
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◆その後、
早稲田予備校には、1999年2月まで、
丸12年間活躍させていただき、
感謝しております。
◆1999年に早稲田予備校の教壇を去ったのは、
「裏切ったわけでは、ありません!」
◆1999年に早稲田予備校を去った本当の理由は、
当時の理事長との話し合いにより
「衛生中継の授業に出演することを、次の目標にするため」だったのです。
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◆現実には、
上述の「浪人生時代(1982年)からの丸19年間にわたる
過労、過食、しゃべり過ぎ、睡眠不足など」が積もり、
体調を崩して、2000年12月に
予備校の教壇から引退する破目になったのです。
◆つまり、
17年間にわたる「自分で好き好んでやっていたパワフルな高密度講義
による積もり積もった過労と、睡眠不足」により、
38歳で「予備校講師としての一生分の仕事」に終止符が打たれる
ことになったのです。
・・・・・・「運命」とは、こういうものですね。
・・・・・・「38歳までに、全てを、やり切って、しまった!」
ということなのです。
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◆この間には、
「888人収容の大ホール」で夏期講習をおこない
大勢の大学受験生の前でしゃべるという
「★人生で2度とできないような大きな経験」
を得ましたが、
・・・・・・一方では「私生活は犠牲」となり、
人生というものは「或る意味で平等なもの」だと
実感します。
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◆西暦2000年の予備校引退時までは、
「超早口で、しゃべり、人気を得ていました」が、
◆西暦2001年以降は、
上記1984年に開塾した私塾(井川塾・受験英語学院)で、
★「相変わらず、中学生、高校生、浪人生の受験英語の面倒を見て」います。
◆自分には、今のところ、子供がいないので、
教室で、人の子供(生徒たち)の面倒を見ることが、
近年の仕事になっており、
2018年の今も、週2回の教室を開いています。
(詳細は、この「井川塾の公式ホームページ」
および「マイベストプロ東京」のコラムをお読みください。)
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◆実は、
2001年以後、パッとしなかった体調も、
近年、特に、2018年は、抜群に良いのです。
◆2018年現在は、
御薬も一日たったの一錠で「中性脂肪を減らす御薬1錠」
だけなのです。2017年から、この新しい御薬に変わり、
★体を鍛え直したこともあり、
★血流も、体調も、抜群に良くなったのです。
◆体重も、73キロとなり、鍛え直して「筋肉」も付いたため、
「まったくの健康体」に戻りました。
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◆55歳となった記念に、
体調も抜群に良いので、
今後、
早稲田大学OBとして、
★「長年自分の心の中で温めてきた新企画」の「売り込み」
をしなくてはいかんかな!
と、思い始め、
準備し始めた昨今です。
◆もし、やれるとしたら、人生最後の企画となるので、
「高く売り込みたい」
と思います。
▲「安売り」するぐらいなら、寝てた方がまし!
だという意気込みが、
大切です。
(話者:著者:井川治久。TOKYO,JAPAN。都内、豊島区にて。)
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(執筆日時:2018年6月15日16時55分~2018年6月16日1時55分。)
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▼懐かしの名刺:(早大正門横の早美舎で1980年代に作成したもの):
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