◆学生の当時、気が短かったボクは
(*2018年現在は年の功で、気長になりましたが)
「このまま待っているだけでは、予備校講師には、なれない」
と踏み、
「まずは、町の学習塾で、経験を積む」ことにしました。
◆ところが、
早稲田大学1年生のときに、
実際に、町の塾の英語講師をやってみると、
▲「自分の教えたい事が、ちっとも、教えられない」
ということに気づいたのです。
「塾のほうで決めた事だけしか、
授業時間内には、教えられない」のです。
しかも、
「評価を、勝手に、下されてしまう」ので、
「まったく教える意欲が湧かなくなってしまった」のです。
自分では
★「最良の授業準備をして、良心的な講義をしている」
のに、
その塾では「塾長以上に上手い講義をすると、評価が悪くなった」
のでした。
◆・・・・・・こんな馬鹿げた事を続けていては、何の進歩も無い!
と、
当時気短なボクも、冷静に考えて、
★「自分の講義の上手さを証明する」ためには、
大学2年から、自分で開塾するしかない!
と思い込み、決断して、
大学1年の時に
まさに塾講師のアルバイト代で貯めた「無けなしの金」をはたいて、
1984年、
早稲田大学の2年生になりたての春休みに、
早稲田の同級生3人で、
豊島区南長崎に当時存在していた小さな印刷屋さんに
広告のビラを1万枚ほど刷ってもらい、
自分たちの足で歩いてポスト投函をして、
ようやっと2名の生徒が集まり
開塾できたのでした。
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◆それでも、
大手予備校の教壇に立つ「夢」には程遠い
と感じていたボクは、
「どうしたら、大教室の教壇に、立てるか?」
を考えました。
★「自分を売り込む(アッピールする)材料」が必要不可欠だと、
気づきました。
◆そこで、
実は「浪人生時代から、早稲田に受かったら実現しよう!と温めていた企画」
が幾つかあり、
早稲田大学2年生の4月から「自分の塾の授業」と同時併行で、
★「英語暗記するだけ」という受験参考書の執筆を、
何の出版の保証も無かったのに、
自分ひとりで勝手に始めたのです。
◆2018年の今の時代だからこそ
「英語の暗記本」は多数出版されていますが、
ボクが大学2年生の当時、
1984年に「受験英語の暗記本」を書き始めた頃は、
▲「要領を得た受験英語の暗記本」はほとんど出版されておらず、
ボクが大学3年生の1985年に出版した『㊙英語暗記するだけ』(新声社刊)が、
「★大学受験英語暗記本の先駆的存在」の一つです。
(1985年の同時期に、桐原書店の『英語頻出問題総演習』も出版されたと記憶します。)
◆この早稲田大学3年の時の
「処女作の出版」の際にも、
「コネ」のないボクは、
「自分で売り込む」ことをする以外に
何の術もありませんでした。
◆うちの叔父さん(井川良久)が当時NHKにいて、
やはり早稲田大学OBであったので、
話を聞いてもらおうとしましたが、
「大学3年生の書く本」など相手にすらしてもらえず、
「ほんとうに、コネの無い家だな~」と「再自覚させられた」
ものです。
◆だからこそ、
「自力を発揮」して
「★自分の腕一本でやり遂げる」しかありませんでした。
◆そこで、
「売り込み案」をレポート用紙に手書きで作り上げて、
「山勘で」10社ほどの出版社を選定して、
そのコピーを郵送しました。
◆すると、
当時、大手以外の3社から「一度お会いしたい」
という返事を頂けたのです。
◆「何事にも経験の浅い学生時代」ですから、
3社から返事を頂けて一瞬大喜びをしていたのですが、
「ようやっと書き上げた処女作品」を
同時に3社から出版するわけにも行かず、
これも「山勘で」1社を選びました。
◆結果として、
「今では有名となった2社」に御断りをしたため、
その当時、かなり憤慨されてしまったのです。
(1984年のことなので、もう誰も覚えていないことでしょうが。)
◆こうして、
紆余曲折を経たものの、
1985年の7月に、
「早稲田・慶応らくらく突破シリーズの第1冊目」として
『㊙英語暗記するだけ』が出版され
書店に平積みになったのです。
◆出版社の社長・副社長の提案で、
恩師に監修者になっていただけるようにお願いして、
1冊目が順調に売れて、
計4冊のシリーズが1987年に完成するに至り、
成功を収めました。
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◆しかしながら、
出版をしても、
早稲田大学の4年生になっても、
「大手予備校の大教室で教えられるチャンス」は、
一向に巡ってきませんでした。
★「チャンス」を待っていても、
来ない時には、絶対に来ないのが、人生の常です。
◆せっかく、
都内の書店に「自分の本」が置かれて、
「売り込む材料」が出来上がったのに、
売り込まないで、ボケっとしているわけにはいかない!
◆当時、
気長に待てない性格であったボクは、
よく調べもせずに、
高田馬場の早稲田通りにあった予備校に、突然、訪れて、
「授業をやらせてほしい!」
と申し出たのです。
◆「早稲田大学の学生証」と「自分の処女作」が、
唯一の武器(売り込み手段)
でした。
◆しかしながら、
この初訪問の時点では、やはり相手にしてもらえず、
あっさりと、門前払いを食らってしまったのです。
◆その後も、
懲りることなく、
再び、高田馬場の駅近くの2つの予備校に、
「予備校講師になりたい」という趣旨の御手紙
を出したのですが、
再び、相手にされませんでした。
◆そうこうしているうちに、
早稲田大学の4年生にもなると、
「就職ガイド」のような冊子が
自宅に大量に送られてきました。
すると、その中に、
「教育サービス」関係の就職案内があり、
そこに、高田馬場にある2つの予備校の職員募集の葉書が
付いていたのです。
◆自分自身は、もちろん、
予備校職員を目指しているわけではなく、
1986年当時の第一志望は「大手予備校英語講師」であり、
第二志望は「私立高等学校講師、兼、私塾講師」
でした。
◆しかし、
折角送られて来た無料葉書なので、
「予備校講師志望」と書き直して送ったところ、
2つの予備校のうち、
1つの予備校からは
「丁寧な御断りの御手紙」を理事長の直筆でいただきました
(そこには、「あなたは、面白い方だ」と書かれていたと記憶します)が、
もう1つの予備校からは、
「至急、面接に来たれ」という趣旨の速達をいただいたのです。
◆こうして、
政治・経済に「何のコネも無い私」が、
1987年1月4日に、
学校法人早稲田予備校の高田馬場13時ホールの
大教室の教壇に立ち、
初登壇日から、生徒200名あまりが集まり、
晴れて「★大手予備校最年少講師」となったのです。
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◆その後、
早稲田予備校には、1999年2月まで、
丸12年間活躍させていただき、
感謝しております。
◆1999年に早稲田予備校の教壇を去ったのは、
「裏切ったわけでは、ありません!」
◆1999年に早稲田予備校を去った本当の理由は、
当時の理事長との話し合いにより
「衛生中継の授業に出演することを、次の目標にするため」だったのです。
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◆現実には、
上述の「浪人生時代(1982年)からの丸19年間にわたる
過労、過食、しゃべり過ぎ、睡眠不足など」が積もり、
体調を崩して、2000年12月に
予備校の教壇から引退する破目になったのです。
◆つまり、
17年間にわたる「自分で好き好んでやっていたパワフルな高密度講義
による積もり積もった過労と、睡眠不足」により、
38歳で「予備校講師としての一生分の仕事」に終止符が打たれる
ことになったのです。
・・・・・・「運命」とは、こういうものですね。
・・・・・・「38歳までに、全てを、やり切って、しまった!」
ということなのです。
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◆この間には、
「888人収容の大ホール」で夏期講習をおこない
大勢の大学受験生の前でしゃべるという
「★人生で2度とできないような大きな経験」
を得ましたが、
・・・・・・一方では「私生活は犠牲」となり、
人生というものは「或る意味で平等なもの」だと
実感します。
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◆西暦2000年の予備校引退時までは、
「超早口で、しゃべり、人気を得ていました」が、
◆西暦2001年以降は、
上記1984年に開塾した私塾(井川塾・受験英語学院)で、
★「相変わらず、中学生、高校生、浪人生の受験英語の面倒を見て」います。
◆自分には、今のところ、子供がいないので、
教室で、人の子供(生徒たち)の面倒を見ることが、
近年の仕事になっており、
2018年の今も、週2回の教室を開いています。
(詳細は、この「井川塾の公式ホームページ」
および「マイベストプロ東京」のコラムをお読みください。)
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◆実は、
2001年以後、パッとしなかった体調も、
近年、特に、2018年は、抜群に良いのです。
◆2018年現在は、
御薬も一日たったの一錠で「中性脂肪を減らす御薬1錠」
だけなのです。2017年から、この新しい御薬に変わり、
★体を鍛え直したこともあり、
★血流も、体調も、抜群に良くなったのです。
◆体重も、73キロとなり、鍛え直して「筋肉」も付いたため、
「まったくの健康体」に戻りました。
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◆55歳となった記念に、
体調も抜群に良いので、
今後、
早稲田大学OBとして、
★「長年自分の心の中で温めてきた新企画」の「売り込み」
をしなくてはいかんかな!
と、思い始め、
準備し始めた昨今です。
◆もし、やれるとしたら、人生最後の企画となるので、
「高く売り込みたい」
と思います。
▲「安売り」するぐらいなら、寝てた方がまし!
だという意気込みが、
大切です。
(話者:著者:井川治久。TOKYO,JAPAN。都内、豊島区にて。)
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(執筆日時:2018年6月15日16時55分~2018年6月16日1時55分。)
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