聖徳太子讃

image.jpeg 刻字:北森和久氏

真宗寺院の聖徳太子御絵像には、以下の画讃(絵のこころを表す言葉)が書かれています。(写真巡り2平生参照)

「四十九歳  伝燈演説  大悲大慈  敬礼菩薩」の第二句「傳燈演説」が、玄関正面(写真の)刻字額です。ちなみに、法灯を世に伝えて仏説を演(ひろ)められた、という意味です。

四十九歳

聖徳太子は推古三十年(622年)に四十九歳で亡くなられるまで、仏教を国の根本理念に据え、推古女帝のもと、皇太子・摂政として国を総理されました。天皇を中心とする統一国家を目指し、冠位十二階・十七条の憲法制定・暦法の採用・国史編纂・遣隋使派遣などの事績をあげられました。

伝燈演説

十七条の憲法第二条「篤く三宝を敬え、三宝とは佛法僧なり。即ち四生(衆生が生まれる四種の形態・胎生、卵生、湿生、化生)の終帰、万国の極宗なり」の宣言は、太子の崇仏の念と深い仏教理解に基づくものです。「三経<維摩・法華・勝鬘経>義疏」を講じてまとめられたこと、天寿国繍帳に「世間虚仮、唯仏是真」の語が遺されていることなどに、太子の仏教帰依、仏教興隆の立場が明示されています。

大悲大慈

太子は観音菩薩の化身として崇敬され、比叡山ではつとに太子信仰が盛んでした。聖人も太子讃仰の念篤く、二十九歳の時、太子創建とされる六角堂に参籠されます。九十五日の暁に太子の示現を得て、後世の助かる縁に会うべく法然上人を訪ねたという経緯が、聖人の妻の恵信尼消息に書かれています。

敬礼菩薩

聖人は、皇太子聖徳奉讃として、以下の和讃を詠ぜられます。

「救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して 多々(父)のごとくすてずして 阿摩(母)のごとくそいたまう」

「大慈救世聖徳皇 父のごとくにおわします 大悲救世観世音 母のごとくにおわします」