浄土(正信偈)の七高僧

「三朝浄土の大師等 哀愍摂受したまいて 真実信心すすめしめ 定聚のくらいにいれしめよ」(正像末和讃)

印度、中国、日本の、浄土の御教えを示された祖師たちよ、
私どもを哀れみ、つつみとり、真実の信心に目覚めることを勧めて、
仏となる身に定まった方々の仲間にお導き下さい。

親鸞聖人は、釈尊の説かれた南無阿弥陀仏の教え、つまり浄土教の教えにご自身が遇い難くして遇えたのは、偏に印度、中国、日本の三朝に亘って仏教伝来に尽くされた七高僧のお蔭によるものであると云われます。ここでは、正信偈・ご和讃のお言葉をお借りしながら、七人の菩薩高僧にふれてみたいと思います。

1)龍樹菩薩 

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龍樹菩薩は、二世紀頃、南インドのバラモンの家に生まれました。はじめに小乗仏教を学んで九十日で習得し、後に大竜の導きで竜宮に入って同じく九十日で大乗経典の深意を悟り、大乗に転じた天才と伝えられています。

般若空観(色即是空空即是色に代表される説)、すなわち、すべての存在は相互の関係により生じる(=縁起)ものであり、条件次第で如何様にも変わると悟れば、絶対に有(ある)絶対に無(ない)などの極端にとらわれた考え(有無の見)がなくなり、中道(空)の正しい見解(正観)が生まれるという教えを、「中論」で説かれました。このことから、中観学派の祖、八宗(すべての仏教学派)の祖師とも云われています。正信偈には、

「南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」
南天竺に 龍樹大士世に出でて ことごとくよく有無の見を摧破せん、とあります。

『十住毘婆沙論』(龍樹菩薩の著作:大乗経典から大乗菩薩道についての諸説を取り上げて解説したもの)「易行品」の巻では、恭敬心を以て仏の名を称える易行の法を示されています。易行として諸仏についても御名を称えることが説かれていますが、とりわけ阿弥陀仏については、本願や往生の利益まで述べられています。さらに、龍樹菩薩自身の自行化他(自ら進んで阿弥陀の名を称え、他にも勧めること)が記されています。
このことから、
浄土真宗では、菩薩の本意は阿弥陀仏の易行(阿弥陀の名を称えること)を勧めることにあるとみて、本書を重視し所依の聖教の一としています。易行道について

「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」
(龍樹菩薩は)難行の陸路(自力の聖道門)苦しきことを顕示して、易行の水道(他力念仏の浄土門)楽しきことを信楽(目覚め)せしむ、と正信偈にあります。

2) 世親(天親)菩薩

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世親菩薩は、五世紀頃、ガンダーラ国に生まれ活躍されました。はじめ小乗仏教を学び、『倶舎論』(註1)を作られました。後に、兄の無著菩薩の勧めで大乗仏教に帰し、『唯識二十論』『唯識三十頌』など唯識の学説(註2)を伝え、多くの論釈を著し、「千部の論師」と尊敬されました。また、自らの帰依を表明する著作『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論)』(註3)があります。

「天親菩薩造論説 帰命無碍光如来 依修多羅顕真実」
天親菩薩、(浄土)論を造りて説かく、無碍光如来(阿弥陀仏)に帰命したてまつる 修多羅(無量寿経)に依って真実を顕す、
と正信偈に記されています。

法然上人はこの『浄土論』を浄土宗正依の論と定められ、真宗では七祖聖教の一としています。ちなみに、聖人の名は世親の「親」と曇鸞の「鸞」を継ぐものです。

(註1)   倶舎論は、釈尊の言行録であるアーガマ経典(阿含経を含む)から、仏教の基礎的観念を抽出し、整然と組み立てて仏教思想体系を構築した書で、印度、中国、日本を通じ、ながく僧徒の学習の対象でした。                       

(註2)  唯識学派の基本理念である「唯識」では、私達の知覚する表象は、誤まって想定された存在していないもの(非有)であり、心のはたらき(識)のみ存在している(有)とされます。しかし実は、非有のものを有とする心のはたらき(識)も真実として存在しているものではなく(有かつ非有)、表象されたものも、認識する心のはたらきも、ともに非有であると知る識のみが、二つの非有の識により有であると証明される、と説きます。すべての心のはたらきの根底にある根本識(アーラヤ識)のみ有であるとするので、「唯識」と云われます。
『華厳経』の「三界唯心万法唯識」とは、「世界のすべて、知覚しているもののすべては、ただ心の中に、この識が作り出している」ということであり、これを知れば何物も執着すべきものはないことを教えています。

(註3)  『浄土論(願生偈)』は、世親菩薩が『無量寿経』に基づき自らの浄土往生を願って著されたものです。先ず、世親菩薩自身の阿弥陀仏への帰依と、願生浄土の思いとが表白されています。次に、安楽国土と阿弥陀仏及び聖聚が讃嘆されます。結びに、遍く衆生と共に往生することを願う回向の意が示されています。
本書は、往生浄土の行を大乗仏教の実践道として明らかにしたものであり、曇鸞大師の『浄土論註』を通して、後世の浄土教思想に多大な影響を与えました。
また『浄土論(願生偈)』は、大谷派では中陰の勤行(初七日から四十九日までの七日ごとのお参り)で読誦されます。

3)曇鸞大師 (476-542年)

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北魏時代、山西省の人。十五歳で五台山で出家しました。正信偈には次のようにあります。

「本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼 三蔵流支授淨経 樊焼仙経帰楽邦」
本師曇鸞には、梁の天子も常に曇鸞の處(居る方向)に向いて、菩薩として礼し奉りました。(それほどの尊敬を受けていた曇鸞大師ですが)三蔵流支が(観経を説いて)浄土の教えを授けると、(苦労して修行し、学んだ)仙経(不老長寿の法)を焼き捨てて安楽浄土(の教え)に帰依されました。

曇鸞大師は常に一切衆生を心に掛けていました。『讃阿弥陀仏偈』の一偈一偈の末に、善導大師の『往生礼讃』と同じく、「願わくは諸の衆生と共に安楽国に往生せん」と、願い続けています。後世の付加ともいわれますが、大師の人となりを象徴するものです。

大師は、『浄土論註』の中で「信」と「他力」を強く打ち出し、衆生救済の道は阿弥陀の本願による以外にないとされます。私達が浄土に往生するのは、弥陀のしもべとなり自己救済だけで満足するのではなく、精進修道に励んで不退転の菩薩の位に進み、さらに阿弥陀と一体となり一切衆生を救わんという大慈悲心に立つためだ、と云われます。まさにそれが大乗仏教徒の理想であるからです。そして、

龍樹菩薩が『十住毘婆沙論』で説かれる不退の位を得るための二つの菩薩道(難行道と易行道)の内、易行道(他力の称名念仏)を択び取られました。さらに、五濁悪世・無仏の今の時には、天親菩薩の『浄土論』こそ仏の願力に乗じて水路を船で行く易行道である、と確信されて『浄土論註(往生論註)』を著されました。

「天親菩薩論註解 報土因果顕誓願」、と正信偈にあるのはこのことです。
天親菩薩の(浄土)論に註解をされ、報土の因果(阿弥陀の衆生救済の願と修行と思惟により浄土が成就したこと)の根本は、(仏の大慈悲心、すなわち他力の)誓願にあることを顕かにされました、と。

4)道綽禅師 (562-645年)

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山西省の人。十四歳で出家されました。はじめ、末法の世に生まれた罪悪の凡夫には、聖者になる望みなしと絶望した禅師ですが、涅槃経の教えに出遭い、「一切衆生すでに仏性あるをもって、人々みな成仏を願う心あり」(『安楽集』巻下)と仏道を求め続けます。玄中寺に於いて曇鸞大師の碑文を読み、浄土教の教えに帰依されました。以来、日々称名念仏七万遍、「観経」を講ずること二百回に及び、人に応じて解り易く教える実践的な民衆教化により多くの帰依者を生み、山西盆地において、慈父のごとく慕われる道綽禅師の説く念仏を称えぬものはない、とまで云われました。

『安楽集』(註1)は、曇鸞大師の「他力本願の信心」の教えを継承しつつ、末法到来(註2)という時代認識の上に展開されたものです。この教学は、やがて善導大師に受け継がれて、長安に広められました。

(註1)
『安楽集』は、「観経」の要義を示して安楽浄土を勧めたものです。教法は、時代と人の根(性)に適ったものでなければならず、今(末法)において菩提心(衆生救済の心)の教えは、称名念仏により往生を願う道(取り急ぎ往生し、不退の位につき、仏となり衆生救済にはたらくという教え)にほかならないと説かれます。すなわち、龍樹菩薩の易行道、世親菩薩の弥陀仏への帰依、曇鸞大師の他力の信心の教えを継承して、末法濁世では浄土門が唯一の道であると説かれました。
「道綽決聖道難證 唯明浄土可通入」
道綽(禅師)、聖道の証し(さとり)難きことを決して(判断して)、ただ浄土(の教え)に通入すべきことを明かす、と正信偈にあります。
このように禅師は、往生浄土の教えが大乗仏教の基本理念の上に立脚するものであることを種々の観点から論証し、浄土門の理論的基礎を築かれました。

 (註2)   「像末法滅同悲引」(正信偈)
仏法が像(かたち)ばかりとなった像法の時代の人も、行(修行の実践)や証(さとり)が廃れた末法の世の人も、仏法が滅した法滅の時の人のことも同じく(哀れんで、道綽禅師は私達を称名念仏の道へと)、悲引(慈悲の心で導き)くださいました。

5) 善導大師 (613-681年)

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善導大師は、山東省の出身、唐代浄土教の祖師で光明寺和尚とも云われます。一切衆生を救わんという教えを求めて、諸方を遍歴し、浄土変相図をご覧になり浄土教に帰依されました。さらに求道の師を求め、貞観十九年(645)、念仏を皆と共に称え続ける高潔な道綽禅師に謁して、教化を受けました。以後、終南山中で厳しい自己内省の修行をされるとともに、長安の光明寺や市街で念仏弘通に勤められたので、帰依する道俗は数知れず、と伝えられています。

当時、『観無量寿経』の研究・講説が流行していましたが、善導大師は古今楷定(ここんかいじょう)されて古今の諸師の説をただし、「観経」の仏意を明らかにされ、『観経疏四帖』(註1)を著されました。それは、曇鸞大師・道綽禅師の伝統と浄土教の本意を明らかにして、生死の苦海に彷徨う衆生を救済し、他力本願の念仏へ導かんとするものでした。(お経のページ:「浄土三部経」参照)

法然上人は「偏依善導一師」の立場により浄土宗を開かれました。

親鸞聖人は、「善導独明仏正意」(正信偈)
大心海より化してこそ 善導和尚とおわしけれ 末代濁世のためにとて 十方諸仏に証をこう」(高僧和讃)と讃えられ、さらに

無始より流転してきた自らは、罪悪深重の凡夫であることを衆生と共に懺悔し、心を清める宗教儀礼(讃嘆、読経、礼拝、称名)を行ずべきことを常に善導大師が教えられたことを踏まえ、

「弘誓のちからをかぶらずは いずれのときにか娑婆をいでん 仏恩ふかくおもいつつ つねに弥陀を念ずべし」
「娑婆永劫の苦をすてて 浄土無為を期すること 本師釈迦のちからなり 長時に慈恩を報ずべし」

と高僧和讃で伝えられています。

(註1)お経のページ:葬儀のお経「帰三宝偈」参照のこと

6) 源信和尚 (945-1017年)

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比叡山横川の恵心院に住まわれたので恵心僧都と云われます。大和(奈良県)当麻にお生まれになり、幼くして比叡山に登り良源和尚に師事されて、天台教学を究められました。

四十四歳の時に『往生要集』を著され、末代の凡夫のために穢土(煩悩まみれの迷いの世界)を厭離(きらい離れる)して、弥陀の極楽浄土を欣求(ねがいもとめる)すべきことを勧められました。

『往生要集』は、諸経論釈の中から往生極楽に関する要文を集め、同信同行の指南として撰述されたものです。
はじめに、六道輪廻の穢土(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの迷いの世界を流転すること)を厭(いと)うべきことと、極楽浄土を欣(ねが)うべきこととを説かれます。次に、称名念仏を実践する方法を述べられた本書の中心部分があり、結びに、関連する諸問題を問答形式で解釈されています。

この書は、日本における最初の本格的な浄土教の教義書であり、撰述後まもないころから広く流布して、思想面はもとより、文学や芸術面など広範囲に大きな影響を及ぼしました。聖人は、本書の教えを

「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」(お経のページ:「無量寿経」参照)

と正信偈に引用され、さらに高僧和讃で、

「極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとえに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたもう」
「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」 

と教えてくださいました。

ちなみに『源氏物語』「宇治十帖」における横川の僧都は源信和尚がモデルではないか、とも云われています。

 

7) 源空(法然)上人 (1133-1212年)

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浄土宗の開祖。美作国(岡山県)漆間時国の子として誕生されました。十五歳にして比叡山に登り、慈眼房叡空に師事し、法然房源空と号されました。四十三歳の時、善導大師の『観経疏』により専修念仏に帰依されました。同年、比叡山を下り洛東の吉水に移られ、浄土念仏の教えを弘められたので、浄土宗ではこの承安五年(1175)を立教開宗の年とされます。

建久九年(1198)、南無阿弥陀仏の教えを明らかにしてほしい、という前関白九条兼実の請いにより、『選択本願念仏集』を著されました。「知恵第一の法然房」と讃えられた上人は、洛中洛外の人々に慕われ、身分を越え老若男女を選ばず、教えを求める者数知れずという方でしたが、

元久元年(1204)比叡山の僧徒が念仏停止を天台座主に迫るという事件が起き、

元久二年(1205)興福寺僧徒が念仏停止並びに師弟の処罰を「興福寺訴状」により朝廷に訴え出て、

建永二年(1207)上人は讃岐に流罪となり、弟子たちも死罪あるいは流罪に処されました。この時、親鸞聖人も越後へ配流となり、師弟は以後 再び相見えることはありませんでした。

建暦元年(1211)上人は赦され吉水に戻り、東山大谷に住まわれましたが、

建暦二年(1212)正月二十五日、八十歳で遷化されました。

上人は、「偏依善導一師」、すなわち、善導大師の教えを第一に大切にされ、専修念仏に帰入されました。
善導大師の念仏説の独自性は、四十八願
の内、第十八願に基づき、称名念仏を正定業として(以前は念仏は他の行の補助をする助業とされていた)専修を説くところにありました。
その教えを受けて、第十八願について、それ以外の四十七願は衆生が浄土に往生したのちに得る果報に対する願であるが、その果報を受けるために衆生を往生せしめようとするのが第十八願であると、上人は『三部経大意』で説かれます。したがって、第十八願こそが四十八願の根本であるとされるのです。

上人は、『往生要集』を通じて機根に適った教法として称名念仏を見出され、さらに善導大師の『観経疏』から、弥陀如来の一切衆生を救わんとする誓願が根本にあることを悟られて、浄土往生の確信を得られたのです。

上人を心より慕われていた聖人は、次のように多くの和讃を残されています。

「曠劫多生(何回生まれ変わっても)のあいだにも 出離の強縁(迷いの輪廻を脱出す教え)しらざりき 
 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」

「源空光明はなたしめ 門徒につねにみせしめき 
 賢哲愚夫もえらばれず 豪貴鄙賎(ごうきひせん:身分)もへだてなし」

「阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ(上人は阿弥陀様の生まれ変わりである) 
 化縁すでにつきぬれば 浄土にかえりたまいにき」

「本師源空のおわりには 光明紫雲のごとくなり 音楽哀婉雅亮(あいえんがりょう:妙なる音楽がながれ)にて 
 異香みぎりに映芳す(なんともかぐわしい香りが漂った)」

「道俗男女預参し 卿上雲客(けいしょううんかく:公家や殿上人)群集す 
 頭北面西右脇にて 如来涅槃の儀をまもる」

「本師源空命終時 建暦第二壬申歳(にんしんさい)
 初春下旬第五日 浄土に還帰せしめけり」  (以上高僧和讃)

なお、季語で「御忌」といえば、この「初春下旬第五日」を指し、一年のお寺参りのはじめとして、御忌詣は後世の人々に親しまれるようになります。浄土宗信徒であった蕪村の句に次のようなものがあります。

    なには女や 京を寒がる 御忌詣