教行信証 (総序)

この序文は、正式には、『顕浄土真実教行証文類序』ですが、「教行信証」全体の序であることから、総序と呼びならわされています。
まず、生死に関する苦悩や不安について、自力では超え難い衆生を救うために、本願他力の真実の法が常に働きかけていることを説かれます。
つぎに、未だ信を得ていない者は速やかに目覚め、既に信を得た者は遇いがたき法に恵まれたことを慶ぶべきである、と勧めます。
そして、愚禿親鸞は、印度・中国・日本へと渡来した聖典、師釈の伝統の仏法に遇えたことを
慶んで、この書をしたためた、と示されます。

聖人は、経論釈から多く引用されるとともに、「自釈」としてご自身のお言葉で解釈を加えながら、「教行信証」を構成されています。引用文に施された送り仮名・返り点は独自なものも多くあり、聖人の深い思索が現われています。総序には引用がなく、このような構成は「信巻」の別序の外にはないものですので、繰り返し味読されることをお勧めします。

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 竊(ひそ)かにおもんみれば、難思の弘誓(推し量れぬほど広大な弥陀の誓願)は難度海(渡り難い生死の苦悩)を度する大船、無碍の光明(衆生を救わんとする弥陀の智慧の光明)は無明の闇(真理に暗い衆生の迷い=仏智を疑うこと)を破する恵日(弥陀の智慧は太陽の如し)なり。

しかればすなわち、浄邦縁熟(浄土教が説き明かされる時機の到来)して、調達(ダイバダッタ)・闍世(アジャセ王)をして逆害を興ぜしむ(仏、菩薩により王舎城の悲劇が演出されたこと:法事のお経「観無量寿経」参照)。

浄業、機あらわれて、釈迦、韋提(イダイケ夫人)をして安養(西方浄土の教え)を選ばしめたまえり(調達・闍世が起こした王舎城の悲劇が動機となり、韋提希の求めにより「観無量寿経」が説かれたこと)。

これすなわち権化の仁(仏、菩薩が衆生を救わんと凡夫の姿で演じたこと)、ひとしく苦悩の群萠(生きとし生けるもの)を救済し、世雄の悲(釈迦、弥陀二尊の慈悲)、まさしく逆謗(五逆と仏法を謗るもの)闡提(せんだい:断善根、成仏の因をもたないもの)を恵まんと欲す。

かるがゆえに知りぬ。円融至徳(万物を融合させる全き德)の嘉号(弥陀の名号)は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽(自力では得られない、如来より賜る堅固な信心)は、疑いを除き証(さとり)を獲しむる真理なりと。

しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径(近道)なり。

大聖一代の教(釈尊が生涯をかけて説かれた教え)、この德海(浄土教)にしくなし。

穢(世俗)を捨て浄(浄土)を欣(ねが)い、行に迷(まど)い信に惑(まど)い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すく)なく、悪重く、障(さわり)多きもの、特(こと)に如来の発遣(釈迦が往生浄土をすすめ給うこと:浄土に来たれと弥陀が呼び給う招喚と対)を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。(註:自力の行・信ではなく、弥陀の大行・弥陀回向の信なので、あがめよと云う)

ああ、弘誓の強縁(弥陀の本願の強い導き)、多生に(何回生まれ変わって)も値(もうあ)いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁(はるか昔からの如来の御縁)を慶べ。

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば(如来の教えを疑って一生を虚しくすれば)、かえってまた曠劫を径歴せん(長い時を流転する)。

誠なるかなや、摂取不捨の真言(念佛の衆生を如来の光明の中におさめ取って決して捨てないと誓われた真実の教え)、超世稀有(世をこえてたぐいまれな優れた)の正法(南無阿弥陀仏の教え)、聞思し(今よくよく教えを聞き開き)て遅慮すること(迷うこと)なかれ。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃(インド)・月支(西域にあった国)の聖典、東夏(中国)・日域(日本)の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。

真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを(この書にしるして)嘆ずるなりと。