葬儀のお経(帰三宝偈)

帰三宝偈 (用語など<お経:浄土三部経のページ>参照のこと)

勧衆偈・十四行偈ともいわれる偈文は、善導大師の「観経疏」巻一の最初にあり、この書の趣意が述べられています。大谷派では葬儀式(出棺勤行)で読誦されます。

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まず、「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流 願入弥陀界 帰依合掌礼」、と呼びかけます。

「道俗時衆等(僧も俗も今を生きる諸君よ)、おのおの無上心を発せよ。生死はなはだ厭(いと)いがたく(この世は思い通りにならない生死の苦海であるのに離れがたく)、仏法また欣(ねが)いがたし(求むべき仏のみ教えをねがうのも難しい)。(さあ)共に金剛の志を発して、横(弥陀の他力によりたやすく)に四流(生老病死)を超断し、弥陀界に願入して(弥陀の浄土を一心に求める誓いをたて)、帰依し合掌し礼したてまつれ。」、と。

つまり、この仏法(観経:弥陀の本願念仏)が、今を生きるすべての人々への教えであることを宣言します。

そして、諸仏に帰命を表明し、同時代を生きる人々と自身とを内省して、こういわれます。

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「我等愚痴身 曠劫来流転 今逢釈迦仏 末法之遺跡 弥陀本誓願 極楽之要門 定散等回向 速証無生身」

「我ら愚痴の身、曠劫よりこのかた流転せり。今、釈迦仏の(教示された)末法の(世のための)遺跡(み教え)、(すなわち)、弥陀の本誓願、極楽の要門に逢えり。定散等しく回向して、速やかに無生(さとり)の身を証せん。」

無始よりこのかた流転する私たち愚痴の身が、末法濁世の今、幸いにして釈尊のみ教えにめぐり逢える時を得た。弥陀の本願による浄土教、念仏こそ唯一無二の衆生救済の道である。定善の行者も散善の念仏者も自力の心を翻して、速やかに弥陀の浄土を求めてさとりの身とならん、と。

この法こそ、私ども衆生を等しく共に救いに導き、今を生きぬくための仏道である、と。

そして、十方の諸仏よ、私を照らし守り給え、釈迦・弥陀の御心のままに、浄土門の教えを広めん、と覚悟を述べ、「帰三宝偈」は、

「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」

「願わくは、この功徳(釈迦・弥陀二尊の教えにより、人々に浄土への道を広めようとする心)を、平等に一切(衆生)に施したまえ。同じく菩提心(上に悟りを求め、下にすべての人を救わんとの決意)を発して、安楽国に往生せん。」、と結ばれます。

最後の四句は特に重要で、仏教徒の決意を表明し、法要をまとめる回向文(自らの功徳を他者に差し向けて、共に救われんという誓願文)として、単独でよく使われます。

このように、浄土門の本願念仏こそ、今を生きるすべての人々へ教えであり、この法に帰依せよ、と宣布しているのが「帰三宝偈」です。

そして、この偈が、葬儀の最初に読誦されるということは、大谷派の葬儀は「亡き人を縁として、私が念仏の教えに出遇うよう願われている儀式」である、ということなのです。

葬儀式では、続いて正信偈が読誦されます。つまり、この次第によるお経の読誦は、故人のための鎮魂歌ではなく、今ここに生きている私たちを導くために、釈尊及び善知識並びに聖人がお説法されている、ということになります。なぜなら、故人は阿弥陀仏の誓いにより迷うことなく、すでにお浄土に生れ仏となられているのですから。

葬儀に臨んでは、身近な人との死別を通して「いのち」を見つめ直し、その行く末を語り合うことが、私たちには必要なのではないでしょうか。