教行信証 (真宗の基本聖典)

ご門徒に馴染み深い正信偈は、親鸞聖人の著述「顕浄土真実教行証文類」(「教行信証」)の行巻の末尾にありますが、その理由も含めて先ず、この著作の略説をいたします。

IMG_0358.JPG   「顕浄土真実教行証文類序」

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「教行信証」は、教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身土巻の順に六巻より成ります。皆さんは、この《教行信証》という巻の並び順を不思議に思われませんか。

従来、仏教には「教行証」、すなわち、教(仏の教えを受け)、行(修行を実践し)、証(悟りに至る)、という修行過程を表す言葉はありました。これは私たちの人生経験と同じく、先生・先輩に勉強・仕事を習い(教)、実行・実践し(行)、結果を出す・成績を残す(証)、ということになります。

もしこの過程に「信」が入るとすれば、どこが相応しいか、と考えた場合、それは「教」と「行」の間ではないでしょうか。

人は教えられた事を鵜呑みにはしません。この方法で本当に成績は上がるのか、この手段で結果を出せるのか。信じられなければ、あえて時間や資本を投入しません。信じる時に実行・実践に移ります。つまり、教と行の間に信が入る経験が普通であり、その順は〈教信行証〉となります。また、伝統的な仏教(聖道門:聖者の道)における「教行証」も、教えを信じた後、個人の行により悟りへの経験を積む道、即ち〈教信行証〉でした。
しかし、このような過程は、仏道本来の「教行証」にあらず、と聖人はいわれます。

聖人の説かれる念仏の道は、

「真実の教を顕さば大無量寿経これなり(法事のお経:浄土三部経参照)」(教巻)
一切衆生を必ず救わんという弥陀の本願(親心)を説く「大無量寿経」の教え。

「大行とは、すなはち無碍光如来(阿弥陀如来)の名を称するなり。この行は、・・・大悲の願より出でたり」(行巻)  
(大経にある)本願に至る法蔵菩薩の永劫の思惟と修行、その教えを伝えた釈尊・善知識の歩み、そ
して本願念仏を称えた人々の歴史、すなわち弥陀(他力)の大行。

「信楽(信心)を獲得することは、如来選択の願心より発起す」(信巻序) 
 如来より授かる信心。すなはち他力の信心。

「即の時に大乗正定聚の数に入るなり」(証巻) 
 念仏申す身と
なること。

という順になります。

信について、

「信は、すなはちこれ至心発願欲生心(浄土を願う、如来より賜る故の真実の衆生の心)なり」(化身土巻、本)

「衆生が理解し易きように、弥陀如来、至心(真実誠種の心)・信楽(真実誠満の心)・欲生(衆生の心)の三心を発したまうといえども、これら等しく疑心なく、真実信心(他力の信心)に帰一するがゆえに一心と言うべし。三心の一をなす欲生は、願楽覚知(弥陀の本願に気付かされ目覚めて、浄土を楽〈ねが〉うこと)のこころなり。」(信巻)

という旨を述べられます。つまり、「信」 は覚知すなわち、如來により気付かされ目覚めることだ、とされます。また、

「横超は、これすなはち願力回向の信楽」(信巻)とされ、仏の力(はたらき)により信に目覚める時は、一瞬にしてのこと(横超)だとも云われます。

一切衆生を救わんという本願念仏を説く大無量寿経があり(教)、本願成就のための法蔵菩薩(=いのち)の苦難の歩みがあり(行)、そのねがいに気付かされ、はっと目覚めたとき(信)、はじめて念仏申す身(正定聚)となる(証)、と。ゆえに、《教行信証》の順となるのです。

ところで、お念仏を称えると何か良いことがあるのですか、というご質問を受けることがありますが、お念仏は、何かを得るための手段ではなく、証(結論、終着)そのものなのです。

私たちが念仏申す身となることが、聖人の教え、七高僧の論釈、釈尊の教説、弥陀の本願の真実を証することに なるのです。一切衆生を救わん、という永劫にわたる弥陀の本願が、南無と合掌する凡夫の身の上に、その時、成就するのです。かつてよく、祖母が自らに、「お念仏申せ、お念仏一つや」と言い聞かせていた姿が思い出されます。まさにその通りであったのです。

「行」とは「弥陀の大行」のことですから、正信偈を唱えることは、弥陀の大行を讃え、本願の教えを聴聞し、お念仏を世に伝える使命を果たしていくことになります。それで、正信偈は「教行信証」の「行」巻末に置かれているわけです。そして、この正信偈を踏まえて信巻が続くのですが、このような重層的な構成からも、聖人がいかに信を重んじられていたか、ということがわかります。

そして証巻初めに

 「謹んで真実証を顕さば、・・・煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆえに、必ず滅度に至る。」

 と説かれ、一切衆生が念仏申す身となる(往相回向の心行を獲た)時、大悲の誓願のはたらきを示現する真仏土が開かれる(必ず滅度に至る)といわれます。


つづけて聖人は真仏土巻頭に

 「謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち大悲の誓願に酬報する(一切衆生を救わんという仏の願にむくいこたえる=衆生を救うはたらきをする)がゆえに、真の報仏土と曰うなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願これなり。」

と述べられます。

光の仏と光の国土、すなはち、自らは色や形を持たず、他を照らし出すときその存在が明らかとなる光、の世界です。光はそれ自体を見る事ができない、はたらきそのものです。弥陀の誓願が成就した(一切衆生が救われた)浄土も、考え及ばぬ仏のはたらきの世界であるゆえ不可思議光といわれ、真仏土(報仏土)と名付けられます。先の「滅度に至る」とは、この国土にて衆生のいのちが、無量光のいのちに摂取され不可思議光となり、無量寿のいのちとしてはたらき始める(南無阿弥陀仏になる)ということです。

つぎに化身土巻が説かれます。正式な標題は「顕浄土方便化身土文類」です。化身は釈尊のことですから、化身土(化土)とは釈尊が教化された私たちのこの世界を表します。浄土方便とは、浄土の教えが方便のまま終わってしまったことを意味します。未完の教化は誠に不本意なことで、もういちど教化されなおされなければならないという意味で、「浄土方便」と冠されていると思われます。

「教行信証」撰述のご真意は、「雑行を棄てて本願に帰す」(化身土巻後序)ことです。雑行とは日々の修行のことですが、従来の伝統仏教が説くところの聖道のみならず、自らの価値観でこれでよしとする私たちの生活をも指します。なぜ雑行ではいけないのか。釈尊の教化が不本意に終わっているからです。ゆえに、雑行を離れて弥陀の本願に帰さねばならない、と。今その道筋が明らかとなったからこそ、ご自身のみならず、人々が「本願に帰す」(浄土真宗に帰す)ことを願って、この書を撰述されたといえます。

このように考えますと、「教行信証」の最後に置かれた「化身土巻」は、実は最初の巻ともいえます。雑行に惑い化土を生きている衆生に、弥陀の本願を説いて、真実の教・真実の行・真実の信・真実の証・真仏土を示されているからです。したがって、「教行信証」は最後の「化身土巻」を新たなる始まりとして最初の「教巻」へと還り戻る円環構造をなしている、と言えます。

そこで最初の「教巻」に戻りますと、こう始まります。

「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について、真実の教行信証あり。それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。・・・」

往相回向とは、自己の功徳を衆生に回向(施)して共に往生を願うことだ、と「往生論註 解義分」に曇鸞大師はいわれます。

聖人のいわれる往相回向は、浄土への往生は同じですが、自己の功徳ではなく如来の功徳によるものだ、ということなのです。「真実の」とあるのは、如来の教、如来の行、如来の信、如来の証、つまり、他力の教行信証であるからです。

如来による、他力の、真実の教行信証により、念仏申す身となって浄土へ往生する(正定聚となり滅度に至る)仏道を、往相回向すなわち「浄土真宗」とされるのです。

還相回向は、「教巻」「行巻」「信巻」の後の「証巻」で述べられます。「教巻」にある「一つには往相、二つには還相なり。」の後段を受けて、「二つに還相の回向と言うは、すなわちこれ利他教化地の益なり。」とあります。

如来の回向により浄土へ往生を遂げたとしても、それで終わりということにはならないのです。真仏土は衆生救済の「はたらき」の世界だと申しました。往生した衆生は、弥陀の誓願他力のもと、また化土に「はたらき」として還り、利他教化しなければなりません。浄土より還り来たって衆生救済の「はたらき」となること、これが還相回向なのです。そして続けて聖人は

「もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて、生死海を渡せんがためなり。」(往生論註 解義分 起観生信章)と引用されています。

故人は成仏したのでしょうか、とよく尋ねられることがあります。

浄土に往生された故人が、衆生を利他教化して救済する「はたらき」となられたことを成仏といいます。つまり、往生は弥陀の誓願により必定ですから、浄土への往生が成仏なのではなく、往生の後ふたたび化土に還り、有縁の人々を導く還相回向の「はたらき=不可思議光」となること、そのことを成仏(いのちの完成=南無阿弥陀仏)と聖人はいわれるのです。

如来の回向により教→行→信→証と歩んで真仏土へ至り(往相)、また如来の回向により化土に還って衆生救済の「はたらき」となる(還相)、これを聖人は浄土真宗といわれます。ですから、ふたたび、→教→行→信→証→が繰り返されることになります。それは無限の円環ですが、「教行信証」は以下の言を以て閉じられます。

「『安楽集』に云わく、・・・前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり、と。」(化身土巻後序)