七夕踊資料館

七夕踊考

2016-05-10 20:11:53
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七夕踊に魅せられて(俵木悟)

私が初めて大里の七夕踊を見に来たのは平成二十年のことでした。当時、私は東京文化財研究所の研究員で、このときは仕事として、衣裳や道具、それらの材料等の調達に関する調査が目的でした。
 しかし実際に来て見て、むしろ踊りにかける青年たちの熱意にまったく魅了されてしまいました。
 その年は鹿児島市内に宿泊していてナラシに十分に付き合うことができなかったので、翌年は踊り相談の前後の三日間と、ナラシの初日から踊り当日までを含めた十日間、ずっと踊りを追いかけました。
 堀ノ内の庭のナラシの後は、一つの青年団のウチナラシに張り付いて、その様子を毎晩最後まで見届けました。
 一週間の努力の跡としての踊り手の上達はもちろんのこと、それをサポートする青年たちの奔走、スエツケの緊張感、役を得られた達成感/得られなかった悔しさ、疲労と酩酊と晴れやかさが入り交じった本番の高揚感など、大げさでなく一つのドラマを見ているように感じられました。
 本番当日の踊りだけ見ても、この醍醐味は得られません。それからは毎年、可能な限りナラシの一週間を見届けたくて、八月になるとすぐに大里に駆けつけています。
 ところで私は、七夕踊を通してもう一つ別のドラマも見ています。 私が初めて大里に来た平成二十年に、中原集落が踊りに参加できませんでした。
 翌年、比良大輔さんが一番ドンを務めましたが、それを最後に中原は踊りから撤退しました。
 平成二十二年は、口蹄疫の流行の影響で踊り自体が中止になりました。
 平成二十四年には、陳ヶ迫も踊りから撤退しました。またこの年は、平ノ木場の西ノ園佳奈さんが、女性として初めてヤッサを務めました。
 平成二十五年には中福良のヤッサとして、地域外からの女性の踊り手も現れました。
 この年から、様々な改革が行われるようになり、『速報七夕踊』号外には大きく「七夕踊存亡の危機」の見出しが載りました。
 平成二十六年からは、市来農芸高校の生徒をはじめ多くの外部参加者が加わって、踊りを盛り上げてくれています。
 このように、私が通っている八年間、このドラマは波瀾万丈の展開を続けて、これからもなおまったく予断を許しません。
 この状況に、青年、庭割、保存会、各公民館などそれぞれが様々な苦労を抱えています。でも一方で、このドラマの次の展開を楽しみにしている自分もいます。
 なぜなら、大里の色々な立場の人たちが協力しあって、自分たち自身で存続に向けたアイデアを練り、その具体化に努めていることを知っているからです。
 今でも思い出しますが、平成二十三年のスエツケの後、和田家の座敷で庭割さんたちが、踊り手不足の対策を話題にしていました。そのとき庭割の一人が「そろそろ女の子でも良いんじゃないか」と言ったのに対し、別の庭割りが「女じゃ尻端折りはできないだろう」と答えて、その場は笑いに包まれました。ところがその翌年、本当に女性の踊り手が誕生していました。前の年には完全な冗談だったものが、次の年には現実になっている、この大胆な発想と実行力には感服しました。
 自分たちの判断で何かを変えていく力のあるうちは、その芸能は生きている、と言えると思います。楽観してはいけませんが、少なくともそう簡単には衰亡しないぞと確信しています。
 ところで、私が大里に来て初めて話をした地元の人は、今年(平成二十七年)の一番ドンを務めた馬場添亨太さんでした。
 当時二十歳だった亨太さんは、私が公民館を訪ねたときに、他の青年より早く来て、ナラシのために庭を掃いているところでした。用件を伝えると、皆が集まるまでまだ三十分ほどあるといって、わざわざ公民館を開け、湯を沸かしてお茶を入れてくれました。 その彼が一番ドンを打つということで、よそ者でありながら私にとっても感慨深いものでした。かつては十五歳で二才入りした青年が、二十三歳のときに太鼓を打つのが習わしだったそうですが、これもちょうど八年目に当たります。 さすがに太鼓を打つには年をとり過ぎましたが、いつまでも他人事のように見ているだけではいけない、この間の曲折を振り返って、私もそろそろ何かの役割を果たさないといけないと感じています。

(文:成城大学准教授 俵木悟)

2016-09-19 08:02:54
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イデコ引き

太鼓踊りには、一っ番ドン、二番ドンの他に、イデコ引き、座引き、鉦んしい、などの役があります。一っ番ドン、二番ドンは、踊相談で決まります。今は、一っ番ドンの踊り子を探すのも大変ですが、、昔は「俺が打つ」「んにゃ、俺が」と希望者が多く話し合いも大変だったとか。それほど大里に生まれし者にとっては、晴れ舞台でもありました。それに次いで、誰もがなりたい役は「イデコ引き」です。この役を貰わんがために、各集落の踊り子と青年たちは、「習し」の期間中、毎夜、遅くまで稽古をするのです。その役を決めるのは「据付の晩」と呼ばれる木曜日の夜の「習し」です。これは、庭割が決めます。イデコ引きは3人です。同じような踊であれば、選ばれたもの選ばれなかったものとでは、選ばれなかった集落からは不満が出てきます。それが尾を引き、踊本番でのイザコザも過去良くあったといいます。俵木先生の「青年の踊にかける熱い思い」とは、この「習し期間中」の「イデコ引き」の役を得んがための、踊にかける毎夜の情熱のことでしょう。これは、俵木先生のおっしゃるとおり、習しに参加しなければ分かりません。

2016-05-10 20:16:01
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深淵な太鼓の響き(大石始)

祭りや盆踊りを訪ねて日本各地を回っている僕にとって、薩摩半島はかねてから憧れの土地でした。
 この半島はさまざまな魅力に溢れています。その中で、祭りフリークである僕を多いに惹きつけたのは、薩摩半島に息づくさまざまな太鼓踊りです。
 太鼓踊りは、全国各地で見られるものですが、薩摩半島のものは土地によって装束やリズムが異なるだけでなく、ひとつひとつが大変個性的。異国情緒を感じさせるものも多く、さまざまな土地の文化を吸収してきた薩摩半島の魅力が太鼓踊りに凝縮されているようにすら思えます。まさに「太鼓踊りの宝庫」。
 この夏僕は、そんな「太鼓踊りの宝庫」の地を周り、いくつかの太鼓踊りを拝見することができました。
 市来の七夕踊には、おそらく県外から訪れる多くの方々同様、最初は虎や牛のツクイモンの可愛らしさから関心を持ちました。
 8月9日の当日もやはりツクイモンの衝撃は大きく、激しく身体を揺さぶる虎や牛に驚かされ、鶴や鹿の異形の佇まいに目を離せなくなってしまったものです。
 ただ、少し俯瞰して見る余裕が出てくると、このツクイモンがあくまでも七夕踊りの一部に過ぎず、大名行列~琉球王行列~薙刀行列~甲冑行列と続くひとつの流れの中にあることが分かり、より深く七夕踊に引き込まれたのです。行列ものにはそれぞれに背景があり、全体としてひとつの物語があります。
 なぜ琉球王を模した人物が行列に加わっているのか。沖縄本島には念仏踊りにルーツを持つエイサーという芸能があります。その中にはチョンダラーという狂言回しのキャラクターが登場します。
 そして、琉球王行列の「ジキジン」はどこか沖縄本島で見たチョンダラーの面影があり、薩摩半島と南西諸島の繋がりがこの行列から見えることに僕は驚いてしまったのです。
 そして、市来の七夕踊りのなかでもっとも重要な役割を果たしているのが太鼓踊りです。薩摩半島の他の太鼓踊りに比べ、市来のものは決して派手なタイプではないでしょう。
 確かにリズムは全体を通して大らかなものですが、どこか深淵な響きがあり、僕を多いに惹きつけました。そして、この太鼓踊りは七夕踊りのエンジン部分と言ってもいいのではないでしょうか。あのリズムがなければ、七夕踊りが前進することはありません。その意味で太鼓踊りの大きなリズムは七夕踊のハートビート(鼓動)のようにも思えたのです。
 市来の七夕踊りは鹿児島のみならず、日本の貴重な文化遺産であると僕は考えます。その貴重な芸能にひとりでも多くの県外の方々が触れ、末永くこの素晴らしい芸能が継承されることを心から願っております。
(旅と祭りの編集プロダクション「B.O.N」主宰 ライター 大石始(ホームページhttp://bonproduction.net/))

2016-05-10 20:38:16
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明治時代の絵葉書にある「武者踊り」

南九州の太鼓踊り考察(鹿児島民俗学会代表:所崎平)

七夕踊の太鼓踊の一番の特徴は、太鼓の役者(太鼓の踊り手を役者という)全員が花笠を被っていること。鉦と小太鼓(イデコ)と同じような花笠を被っているのは県内でここだけである。
 県内の太鼓踊のほとんどは矢旗があるので、花笠は邪魔になる。だから花笠は被らない。

d78ab69c5fa20a96eba44fb276e762db.jpg(伊作太鼓踊り(矢旗がある))
 太鼓打ちが花笠を被っている長島では、タカランバッチョ(竹皮笠)に白い紙を貼り色とりどりの色紙を貼って綺麗な花笠を被っているので、矢旗がない。

長島2.jpg(長島の御八日踊(矢旗がない))
 長島の太鼓は、七夕踊と同じように左手に持って叩いている。これは平戸島(長崎県)から五島列島を下って(天草は未調査)長島へと続いている。
 全てバッチョ笠姿で短冊が顔の周りに下がっている。七夕太鼓踊もこの系統ではないかと考えている。そして、野間岬の大浦町まで繋がっているようだ。

大浦.jpg(南さつま市の大浦太鼓踊り)
 細かいことを上げると、まだまだあるが「マッガケ」についてだけにしよう。
 踊当日の昼食時間と払い山の踊りが終わってから、太鼓役者以外の青年が来迎寺や一ノ宮神社、御霊神社などを「千歳まで」の一節を歌って、役者の太鼓を借りて叩いて回る。これは、本来は太鼓踊が踊る場所であったが、作り物や行列がくっついて、奉納に行けなくなったからであろう。
 なぜ、太鼓踊の前方に鹿・虎・牛・鶴という動物の作り物や行列物が出来たのかはっきりしないが、祭りを盛大にするために加わったのであろう。
 お盆の子どもの行事に、「小さな虎や鶴を作って遊んだ」ということが、東市来側にもあるので、これが七夕踊に入り込んだのかもしれない。
 もともと太鼓踊は、初盆の精霊送りとして入ってきたはずで、人吉・相良や八代あたりでは初盆の人の家で踊っている。枕崎市南方沖の三島村でも精霊踊として取り入れたらしく、初盆の家を一カ所に集めて盆踊りをし、また、太鼓踊もする。太鼓踊が、後から坊津あたりから入ってきたようだ。
 七夕踊の太鼓踊は、床濤到住や大里開田に携わった人々への鎮魂のものであるから、太鼓踊が最も重要な踊として認識されているのであろう。(いちき串木野市内在住)

2016-05-10 20:57:55
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七夕踊りの特徴(所崎平)(撮影:地頭 健勝)

①矢旗がない(花笠を被っているから)
②太鼓を左手に持ち、3分の2は太鼓を叩かない。(太鼓踊りは、叩かない踊り方のほうが、踊りは難しい)
③歌詞は、武士踊の歌が大部分である。その理由は不明。武士(薩摩藩士)から「歌ってよい」と認められた理由は何であろう。
④鉦が男役で小太鼓(イデコ)が女装である。これは北薩型で、吹上町以北である。南薩は、鉦も小太鼓も女装である。概して小太鼓に女装が多い。
⑤たった七日間で仕上げる。各集落からの代表で各集落の公 民館、中福良の「堀ノ内の庭」で稽古し、順番が決まる。
⑥稽古(「習らし」と言う)五日目の「前庭」が終わって「後庭」が始まると「順の歌」ということをする。これは、太鼓役の紹介を兼ね、余興のようなもので、各人の歌のう まさや声の質を確かめているようなものである。「一番ドン」から順に歌うので「順の歌」と言うのであろう。「千歳まで」の短い一節だが、初めての人は息が続かない。歌に自信のない役者(太鼓打ち)は口を隠して後ろにいる別な人に頼むという。音程がずれても、暖かい励ましの声援と拍手が鳴る。

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