七夕踊資料館
水神のことなど
いでん神んさー
地元の人たちが親しみを込めて「いでんかんさー」と呼ぶ水神は、高速道路市来インターから串木野方面へ100メートルほど進んだ国道三号線左脇に石碑と共に、ひっそりと立っている。1993年の8・6水害で被害を受け、約5年ほど前に立て替えられた。祠には、小さな石が鎮座しているが、これは水害のとき、祀っていた水神が水で流され、水神さんの後にこの石が鎮座していたため、神様の身代わりの石として、今は祀られている。七夕踊の始まりは、約350年前の新田開発が完成したときの大祝賀の余興。新田開発は、犠牲者を出すほどの困難な大事業だった。特に、井堰の工事は困難を極めたといわれる。そのことは「大里川井堰物語」として語り継がれている。だから、ここの水神を「いでんかんさー」と呼ぶのであろう。その後、井堰は何回も改修が行われ、この井堰から引かれた用水が、今も大里の田圃を潤している。
三号線沿いの明治の頃に立てられた水神案内の石碑の奥に「いでんかんさー」は祀られている。
石碑
水神の横の石碑には「四時無一点之災 八節有大来之慶 天長地久 国土豊饒。(一年を通じて大災害もなく、季節毎に適当な日照りと雨に恵まれ、作物も良く稔り国土豊饒、天地と同じように永遠に変わらず、続き栄えますように)」の文字が刻み込まれている。困難を極めた末の新田開発の完成。天水だけが頼りだった当時、やっと田圃を大里川の水で潤せるようになった。この言葉には、先人たちの願いが込められている。また、碑の後段には、天和四年と刻み込まれている。これが、工事が完成した年と言われ、七夕踊の始まり、新田開発完成の大祝賀の余興のあった年。
「四時無一点之災八節有大来之慶 天長地久 国土豊穣 奉護造立 水天尊安置石廟一宇 市来院大里村 講結衆敬白
天和四年甲子年仲春吉日 金鐘現俊堂誌 」 と石碑に刻んである。
御山神
地元の人たちが「イデ」と呼ぶ大里田圃に水を引くための井堰の横に昭和15年の改修記念石碑と共に「御山神」の石碑が立っている。何故、井堰の横に山の神の石碑があるのであろうか。
現在の井堰
350年前、大里田圃の新田開発のとき、葦が原の泥濘の改修の際、柴木を敷き詰めて改修を行ったという。その柴木は、柴刈り山であった大谷山から切り出し、牛に引かせて現場まで持っていったという。多くの柴木を使ったことから、山ノ神への感謝の意を表したのではないか。
現在の大谷山、昭和の初期のころから、柑橘栽培のための開墾か行われ、石垣の段々畑が広がる。今は市来の名産「ポンカン」を中心にした柑橘栽培が行われている。