七夕踊資料館

七夕踊の由来と歴史

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床濤到住の碑

「大里七夕踊」は、国の重要無形民俗文化財に指定されている素朴な農民の祭りです。

戦国の世も終わり、将軍綱吉の時代、大里金鐘寺の禅僧捨範叟と床濤到住が協力して、大里水田の開拓・用水路・用水堰などを計画し、天和四年(一六八四)遂に完成しました。そして、大祝賀の祭りが行われ、その餘興として企てられたのが七夕踊であると言われます。しかも、大里地区の農民にとっては、世紀の大事業でもあり、何時までも記念すべく、また神への感謝の誠を捧げる意味からも七夕踊だけは、伝えられ今に至っています。

床濤到住は、当時の地頭だったとも伝えられていますが、歴代地頭に床濤の記録はないともいわれ、大里田圃開田時の現場監督的な立場だったとも伝えられています。しかし、床濤の碑が建立され、碑の前で踊りを奉納することを考えると、大里田圃の開田に最も重要な役割、貢献をした人であったことは間違いありません。現在、堀ノ内の庭にある到住碑は、明治34年に建立されました。それ以前は、平凡な塚石が置いてあったと言います。

 

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金鐘寺

大里田圃開田のもう一人の主役、捨範叟は、当時、大里の禅寺「金鐘寺」の禅僧であった。金鐘寺は、永和3年(1337年)市来氏が大阪出身の了堂和尚をまねいて開山した。当時は七堂伽藍が建ち並び、末寺が全国に49にも及ぶ隆盛を誇っていた。開田が始まった350年前は、大変な大寺であったらしい。明治2年の廃仏棄釈により廃寺となった。今は、その面影は殆ど残っておらず、木場迫にある鶴岡八幡神社と並んで立っている建物の中に仏像が納められている。

七夕踊では、朝一番の「堀ノ内の庭」の踊りの奉納が終わったら、次は、鶴岡八幡の境内に登って行き、踊りを奉納するが、その踊りの奉納は、八幡神社に奉納するのではなく「金鐘寺」に奉納する踊りである。

ここでは、七夕踊で言う「13庭」踊って奉納する。「13庭」奉納するということは、それほど大切な「踊り庭」であるということである。到住と同じように大里田圃の開田に貢献した捨範叟への先人たちの誠の表われであろう。

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八幡神社の境内からの景色。参道入り口から見上げた七夕踊当日の写真「祭りの日」は、2015年の写真コンテストで優秀作品に選ばれた。

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踊りの起源は朝鮮の役(島津義弘)

豊臣秀吉の朝鮮の役当時、市来は島津の直属地でした。朝鮮の役での島津兵の活躍に武士はもとより百姓町人に至るまで殊の外喜び、領内至る所で祝賀会が催されました。当時の人々は、思い思いに趣向を凝らし、太鼓踊り・棒踊りなど郷土色豊かな踊りを創案し、祝賀会場で踊り踊ったと伝えられます。このことが太守の耳に入り、殊の外喜ばれ、後、踊りに島津家の家紋を付すことを許されました。その時、踊られた太鼓踊りが、七夕踊の太鼓踊りの原形と言われています。また、七夕踊の様々な道具類には、島津の家紋が使われています。

一方、薩摩半島で盛んな太鼓踊りは、江戸で大流行していた疫病を、駿河の念仏踊りがねり歩いたところ下火になったという話を島津義弘が聞き、文禄・慶長の役の凱旋記念に家臣に習得させ薩摩に持ち帰ったものが起源と言われていますが、七夕踊の太鼓踊りが「念仏踊り」であることも納得できます。

1ae09e65.png朝鮮の役での進軍の図

それから約90年後、太鼓踊りは、大里田圃開田祝いの大祝賀の余興して踊られました。それは、90年後に突然、踊られたのではなく、その間も、節目節目に大里地区民の間で踊り継がれてきたのではないかと考えられます。

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大里川井堰物語(現在の井堰)

新田開発が始まる前、大里田圃ははじめの頃、用水路がなく、天水だけが頼りでした。干天が続けば、水不足、大雨になれば、大里川が氾濫。一度大雨ともなって氾濫の心配が起こると、村人たちは、鍬を肩に所有する田圃に急ぎ、少しでも自分の耕地を水害から守ろうと焦った。

 その頃掘集落の出森某は、大雨になると直ぐに崎ヶ岡の高台に登って、田圃全体を見渡しながら、その高低起伏や水勢の強弱を見極めて、急を村人に知らせることを常とし、決して自分の所有田の流失は眼中になかったという。

 干害や水害を防止するには、用水路を完備するしかないと判断し、村人にその必要性を説きました。しかし、経済的に窮乏していたので、誰一人耳を傾けませんでした。 出森某は、庄屋を動かし、寝食を忘れて、画策し、藩主の補助と指導を得て、島内に井堰を造る工事に着手しました。

 この頃の井堰工事は、柴木を刈りだし適当な太さに束ねて川底に敷き並べ、木の杭を打ちこみ竹がらみを組んで、段々に積み上げたものであった。工事は、順調に進みましたが、完成間近で豪雨に見舞われ、流出すること三度に及びました。 村人たちは、水神様の祟りであろうから、人柱をたてねば工事の完成は難しいと噂を始めました。 藩主の命で来ていた監督は、日吉山王神社のご神託を受け、人柱を一人選ぶことになりました。 お告げは「袴に横ふせをしている者を人柱に立てよ」であったと監督は言いました。そして、それは監督その人であり、自ら人柱となりました。

 本工事では、他に二人が犠牲になっており、計三人の尊い命の犠牲を出しながらも、ついに完成し、村人たちは多大の恩恵に浴するようになりました。天和四年(一六八四)に建てられた石碑が島内集落あると郷土史にあります。そして、その碑には「四時無一点之災 八節有大来之慶天長地久 国土豊饒」とあります。
 「一年を通じて大災害もなく、季節毎に適当な日照りと雨に恵まれ、作物も良く稔り国土豊饒、天地と同じように永遠に変わらず、続き栄えますように」の願いを込めて。

 昭和16年刊行の郷土史に「出森某は、現在の堀集落の出森助右衛門氏5代の祖であり、出森(井手守)の姓もその時藩主から頂いたものであろう」と記しています。

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2015年秋から翌年春の間に新たに圃場整備された大里田圃

 

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大阪万国博出演

市来の七夕踊りが昭和四十五年大阪で開かれる万博のお祭り広場に出演するなどとは、当時の町民誰一人として夢想だにしていませんでした。
 出演の運びとなったその陰に、本町後潟出身「山下三基夫」氏とその友人で世界的に著名な民俗写真家「芳賀日出男」氏の力がありました。この二人の紹介で昭和43年夏、東京文化研究所の山路耕造氏が七夕踊の調査に訪れた。また、同年12月には、大阪万博「お祭り広場」の主任プロデューサーで宝塚歌劇団の渡辺武雄氏が、出演が適当かの調査のため来町した。そして、44年8月に出演が決定した。
 大阪万博の催し物で、最大規模を誇る「日本の祭り」は全国各県から代表的な催し物を選んで、世界に例にない空間と機構を持つ「お祭り広場」で行われました。 そして、市来の七夕踊りは、昭和四十六年八月二十日から二十二日までの三日間出演しました。

(当時の町報から)

 七夕踊りは広島の「やっさ踊り」に次いで八番目の出演。
 場内からはキャンコロ・キャンコロと虫追踊りの鐘の音が木霊してくる。
 そして、下手から異様な格好の狩人がズドン・ズドンと空砲を鳴らし飛び出してくる。その後から、鹿がピョンコピョンコと走り出し、思わず観客は目を見張る。
 次いで、マイクの音響が猛獣の咆哮に変わり、虎が現れ、虎取りのチョンマゲ姿に満場哄笑する。
 その後に続く、牛・鶴の動作や琉球行列・薙刀行列の満場好奇の目を注ぐ。
 虎は、観客席に首を突っ込み、そこから悲鳴と笑いが起こる。いやもう張り子の動物たちは大変な人気である。
 その後、場内の音響が止まり、ドンドンドンと古式に則った一番太鼓を打ち鳴らし、それに続いて太鼓と鉦の合奏。二万人の観衆もそれに釘付けされる。日本古来の民俗芸能の持つ美しさに見とれている感じである。
 祭りの最後は、当日の出演者全部が会場に出て、万博音頭を踊る。観客席からも続々と観客が降りてきて踊り、広場は人の波。七夕踊りの作り物たちはここでも主役を演じた。鹿や虎・牛・鶴は踊りに調子を合わせて群衆の間を練り歩く。フィナーレの人気もこの動物たちにさらわれた格好。
 「七夕踊りよ本当に良くやってくれた。日本のはずれの一農村の市来の七夕踊りは、一躍日本中にその名を轟かした。七夕踊り万歳・万歳」

62ccb82b8ec163711759e382c5018e75.jpg岡本太郎作の「太陽の塔」とお祭り広場

総勢百五十人の青年の奇想天外とも思われる素朴な踊りは、月並みな単調な踊りに飽きがちな観衆に大きな喝采と強い印象を与えました。
 特に故郷を遠く離れ関西方面に居住している市来の人々の喜びようは一様でなく皆感激の涙をポロポロと流して喜び合ったと言います。

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