日記
揺さぶり体験からの気づき
今日、訪問先へ向かう途中で、
「リュックに入れたはずの携帯が入っていない」ことに気づいた。
すぐに、準備していたときの自分の動作を振り返り記憶をたどってみる。
「あ、もしかしたらあのとき棚に置いたままだったかもしれない」
「駅に忘れたのかもしれない」
など、いくつもの場面が頭の中でぐるぐる回り出す。
気持ちを落ち着けようと、iPadから探すそうとするも、うまくいかず。
焦りは消えず、思考がぐるぐると渦巻いたままだった。
そんなとき、ふと腕時計をみると、歩数が増えていることに気づいた。
ということは、携帯はこの近くにある?
「駅を降りたらまずスーツケースを開けて確認してみよう」
と思い立った。
駅についてすぐさまスーツケースを開けると、
三つ折りの傘とペンケースと飲み物だけ(あとは楽譜や歌集など)。
「やっぱり違ったか~」
と思いつつ、下の方を確認してみると、、、
「あった!!」
思わず小躍りしてしまった(笑)
電車に揺られながら、「どこにあるのだろう・・・」とあれこれ探していた時間、
私の気持ちは終始落ち着かず、景色を眺めるどころじゃなかった。
気持ちの中はぐるぐると渦を巻いているようだった。
そんな中で、腕時計の歩数が増えていたことに気づいて
「もしかしたら、近くに・・・?スーツケースの中かな?」と思いついた瞬間。
まさに「揺さぶり」の体験そのものだった気がする。
そして「まあ、なんとかなるだろう」「何となく、出てきそうな気がする」
と思えるようになった後、車窓からの景色を眺められるようになっていた。
これが、神田橋先生のおっしゃる「揺さぶりによる変化」なのだと思う。
先生も言われているように、
物事の受け止め方を変える
「リフレーミング」は
まさに、「見方を変える」という一つの揺さぶり。
生活の中での出来事を
臨床の場で捉えてみると、
今日のこの体験はさらに意味を帯びてくる。
神田橋先生はこのように述べている。
「がんとかエイズなんかそうだ。
それをどう納得するかというテーマもある。
だけど通常の場合は、停滞させている原因の多くは、
内在化された文化の有害性だ。
だから内在化された文化へ疑問を投げ掛けていくと、
それが”揺さぶり”。」(『対話精神療法の臨床能力を育てる』,p27)
クライエントの中にある「内在化された有害性」
疑われることのなかった文化的な前提に、
治療者は小さな問いを差し込む。
クライエントにとって
揺さぶられる体験は、恐怖を伴う。
なぜならそれは
これまで、自分を守ってきた意味付けが
一時的に不安定になるから。
がんやエイズなどの重い病を抱える人にとって
揺さぶりは「変化」ではなく、
「これ以上壊れないための最後の防波堤」を
脅かすものとして感じられるのかもしれない。
揺さぶられずに生きるしかなかったのかもしれない。
自分が壊れないように必死に守ってきた防波堤を守り続けた結果、
身体が語り始めた状態、と理解することもできるのだろうか。
神田先生はこうも述べている。
「揺さぶりとは、治療者が揺さぶるんだけど、好ましいのは
クライエントの中にある。自己揺さぶり能力を賦活して、
それに対する抱えであると見えてくる。そうすると、だんだん
ゴチャゴチャで分からんようになるでしょ。そういうふうに
まぜこぜになってできたものが、盲縞なの。
模様がだんだんだんだん複雑になって、もう全部グラデーションになって
分からんようになる。それが机上の論でない。現実の実態に添った
ステキな理解なのです」(『対話精神療法の臨床能力を育てる』,p30)
今日の携帯の出来事は
この言葉を生活の中で体験した一日だった。
混乱し、揺さぶられ、
しかし壊れず、
むしろ見え方が変わった
という体験。
そして
境目を消えて
白黒は溶けて
グラデーションの中で
現実は続いていた
という感覚。
対話精神療法の臨床能力とは
こういった「揺さぶり」を
安全に、生活の中で引き受ける力なのかもしれない。
今日はそのことを
身をもって学んだ一日だった。
今日も、ありがとう。
