日本酒とワイン

山梨とワインの歴史

農民のための葡萄酒

明治初期、文明開化の気運のもと欧米並みの事業をおこそうと国家は盛り上がっていました。明治政府は主食の米を使わない酒としてワイン造りを奨励しました。

勝沼ではいち早くワインづくりをはじめ、二人の青年をフランスに実習生として派遣しています。

米の育ちにくい土地の勝沼にとって「葡萄酒(ワイン)」は農家の生活を支える主要農産物でした。

 

江戸時代には名産となった甲州ぶどうでしたが、冷蔵庫の無い時代、食用だけでは日持ちもしません。葡萄酒に加工することで長期保存が可能になり、年間の販売収入が得られるのです。

 明治32年、川の水害に襲われた勝沼では傷がつき出荷できないぶどうが大量に発生し、農家は大打撃を受けました。その時、現在のメルシャンの元になる大黒天印甲斐産葡萄酒の宮崎幸太郎が傷んだぶどうを買い上げます。ぶどうは生食や輸送はできなくてもダメになったぶどうを取り除いてワインを造ることができたからです。それから勝沼の農家は葡萄酒を地酒として冠婚葬祭や日々の晩酌にも使うようになったそうです。また現在でもお祭や地鎮祭などでも一升瓶のワインが使われています

 


戦時中でも造られたワイン

明治時代、国の一大事業であったワインづくりでしたが、当時の人たちにはワインが日本酒の様に日常酒として受け入れられませんでした。ですから「甘くて美味しい」「飲めば体に良い」「滋養強壮、産後に良し」など健康食品的なイメージで売りました。何としてでもワインを売らなくては、ぶどう農家が立ち行かなくなってしまうからです。

 

しかし、戦争が始まると状況が変わります。第一次世界大戦時には衛生用品として、第二次世界大戦時にはワインから採れる酒石酸が潜水艦の音波探知機に使えるためワインづくりは国から奨励されます。

そのため戦時中であってもぶどうは育てられ、ワインを造る施設は活躍し続けたのです。

生き残るために

長い間、日本のワインは本来の「酒」としての役割を日本人に認められずにいました。山梨でも昭和の時代では旅行の際のお土産ワインが生産の中心。それは甘口タイプが主流でした。

ですが、食の西洋化、食の多様化に合わせてワインは生活のなかに浸透しはじめます。

わずかですが山梨でも辛口のワインはありましたが、世界中から輸入されるワインに勝てる状態ではなかったのです。

 

お土産ワインを作り続けるか? だけど先細りは明らかで、数年後の産地消滅は確実。

本格的なワインに挑戦するのか⁈  しかし造っても売れる保証は無い。在庫を抱えて収入がなければ倒産するかもしれない。

 

ワイナリーは恐ろしい二択に迫られます。。。そして後者を選び、世界に通用するワイン造りを始めたのです。

これはやはり、甲州というぶどうがあったからこその選択だったのではないでしょうか。

 

100年後には

 江戸時代からの名産・甲州ぶどう。葡萄酒は農民を救い、2度の戦争も乗り越えて生き抜く源だった。しかし、食用としては巨峰やデラウエアに地位を奪われ、生産は減少。このままでは絶滅するかもしれない、そんな状態になってしまった甲州ぶどう。

 

山梨は甲州ぶどうを捨てられるのか? という選択でもあったと思います。

 

時代は令和。山梨は世界に認められるワインを産み出しています。

そして、日本のワインラバー達にも美味しいワインとして愛されています。

ここにたどり着くまでには、並々ならぬ努力と悔し涙を流す日が多々あったでしょう。

 

100年後、フランスのボルドーやブルゴーニュのようにワイン産地といえばヤマナシ!と世界中の人から望まれる為に、今できる事は何なのか? いずれメルロやシャルドネのように甲州が世界中で栽培される時代が来るかもしれません。

 

甲州のワインが世界の人たちに認められ始めたこの時代に、一緒にワインを飲める。なんて幸せでしょう!

世界のトップに挑戦するワインも、毎日の食卓にのって気軽に飲めるワインも、どちらも大好きです。

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