神山家と菊紋章

菊の紋章.png 

 遡ること南北朝時代(1320年頃)、南朝天皇と北朝天皇が存在し、日本は二分し大きな戦いがありました。

京で北朝に敗れた南朝は、北畠顕家らが醍醐天皇の皇子義良親王(後村上天皇)を奉り、ここ陸奥の国霊山へ逃れてきました。当然公家たちも一緒にきました。

 しかし、北朝側も南朝を倒そうと追ってきました。ここ中通りは戦場で福島の霊山、郡山、須賀川の宇津峰山では南朝についた守山田村氏一族などが攻防し壮絶な戦いがありました。しかし南朝側は敗北しました。(後に京で楠木正成と新田義貞らが北朝側を倒して南朝を巻き返し争いは終息する)

 この地、郡山市中田町高倉 旧家の古い墓地石碑には必ず16枚菊の紋章が刻んであり、私の家の旧墓地石碑や水神様の祠にも刻まれてあり、鑑みますと彼等の一部は京に帰ることなく、此処に定住したのではと推測されます。我々は末裔でございます。

 この高倉という地名は1170年頃(嘉応2年)、高倉天皇がここ陸奥の国を巡行し立ち寄ったことから、名がついたという伝説があります。 

 お墓の菊紋章の言い伝え 

石碑には、元号が刻んでいないが、古い時代の当家墓標に刻んである菊の紋章です。

 

お墓菊紋.JPG

2024.05.01 Wednesday
誰でも簡単、無料でつくれるホームページ 今すぐはじめる