大将のブログ 冒険小説「らーめんダイバー」

2020-07-30 00:25:00

dive42

 「和尚,怎么了?蓝生!为什么摇摇晃晃的?」(和尚様、どうしたんですか。藍生!どうしてふらふらしてるの?)

 和尚様が今までのいきさつを王さんに話した。最初はびっくりしていた王さんだったが、全部聞いて真剣な目になり一言だけ言った。

「如果和尚相信的话。」(和尚様が信じてくれるなら)

和尚にそう言うと、今度は私の手を取り

「藍生!拜托了。我也会努力的。」(藍生!頼みます。私も頑張るよ)

と強く握りった。その手は分厚く、温かく、何か大きなものに守られるようで安心感をくれた。

ああ、やっぱりこの人しかいないだろう、こんなことを頼めるのは。そう確信させてくれる手だ。何だろう、温かな何かが流れ込んでくるようで、仏様ってこういう風なのかなと錯覚さえさせるこの人を、今では何の迷いもなく「師匠」と呼べる。料理人としても、人生の先輩としても。私はこんな人に出会えてよかったとしみじみと思った。人生でいろんな人に会う中で、その人の人となりを感じ、あまり深入りをしないでおこうと思うことは少なくない。それは相手にとっての私も同じことだろう。長く生きていればいろんな人に出会ったおかげなのか、そのせいなのかはわからないが、子供の時の様にすぐに友達なれなくなってしまう。何かの欲のせいなのだろう。だまそうとする者、奪おうとする者、意地の悪い者などから身を守ろうとするうちにいろんな鎧を着るのであろう。重くて、身動きの取れない状態で人付き合いをしていくのだから現代社会はストレスがたまるのだろう。身分や立場、年齢や性別、いろんなものでがんじがらめになった場所で生活を続ければ、そこにまた悪いものが溜まっていき、それがまた誰かに向けられるのだろう。私もそんな世界を悲観して生きていた一人だ。そんな人生の中でこんな人に出会えたのは無明地獄に明かりを見るようだ。まさにこれが救いではないだろうか。昔、長野善光寺の胎動巡りに行ったときに、真っ暗闇の中進み、いつまで続くかわからない、何があるかわからない恐ろしい世界というものを体験した後に出口に外の明かりがさしたのを見て救われたと感じた。このとき見た光に王さんの存在が重なる。私もこの人に精一杯応えよう。

 約束して寺に戻る道すがら、あの麺料理屋を見に行った。相変わらず地元の人は見ないがそれでも流行っていた。和尚に、この先もこんなことが起こるんじゃないかと聞いたが、じゃあ、あの店に営業を止めるだけの証拠があるか?と言われ何とも歯がゆい思いをした。現代社会の様に科学的な証拠があるわけでもないのに、皆に行くなというのは単なる営業妨害になる。どうしたら、と思っていたら和尚が

「大家也没那么傻。总有一天那样的店会消失。」(皆もそんなに馬鹿ではないよ。いずれあのような店は消えるでしょう。)

と慰められた。

 寺に戻るとイーチンがお菓子のお土産を期待して寄ってきたが、ないと知るとさっさとみんなのところに帰っていった。申し訳ないことをした。小僧の姿に、自分が小さいころ誰かに買って来てもらうお土産をいつも楽しみにしていたのを思い出す。おばさんが買って来てくれたパンがいつものパンと違ってむくれたり、親父が飲んだ帰りに買ってきた寿司折に好きなタコが入っていなくて悲しんだり。買って来てくれるだけでありがたいのに。今度から山を下りたら必ず買ってこなくちゃと懐かしみながら贖罪の様に心に決めた。

dive43に続く・・・・

Today's Schedule
2026.10.30 Friday