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美術館(施設内の廊下)

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「見知らぬ女」イワン・クラムスコイ1837-1887 | ロシア | ロシアの画家・美術評論家 移動派

(Неизвестная) 1883年 75.5×99cm | 油彩 | トレチャコフ美術館 『見知らぬ女』は、ロシアの画家イワン・クラムスコイの作品。モデルはさだかではないが、そこに描かれた女性は「しずかなたたずまいとまっすぐな瞳」をそなえている。いまやロシアで最も有名な作品のひとつであるが、発表当時は高慢でふしだらな女性を描いたものだとして多くの批判を浴びており、今日の評価はひとえに人々の芸術観が変化したことによるものである。フレデリック・アンドレセンは、この女性がトルストイの小説「アンナ・カレーニナ」の女主人公に触発されたものである可能性を指摘している。同書が出版されたのは「見知らぬ女」が描かれる10年ほど前であり、実際にこの絵をカバーに採った版がいくつか存在する。トレチャコフ美術館に展示されているものの他に、やはり1883年のものとされる初期のヴァージョンがキール(ドイツ)のアートセンターに収められている。「見知らぬ女」は絵画の歴史における肖像画の諸様式をまぜあわせて描かれている。雪景色を背負った若い女性は、誇らしげであり高慢そうにみえる。目鼻立ちは整っているが、絶世の美女というわけではない。その人となりは彼女の印象的なくちびる、物憂げな眼、濃いまつげといった表現によって露わになっている。まとっているのははやりの黒い毛皮のコートと帽子、薄い革手袋であり、サンクトペテルブルクのアニチコフ橋に馬車をとめている。彼女がいったい何者であるのかは美術史家たちも明らかにすることができないままだ。クラムスコイは題に「見知らぬ女」とだけつけ、手紙や日記などでモデルについて言及することはしなかった。それが人々の好奇心をくすぐり、この絵画にほとんど不可解なほどの高い評価をあたえているのである。
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「アプサントを飲む人」エドガー・ドガ Edgar Degas 1834-1917 | フランス | 印象派

(L'absinthe (Dans un café)) 1876年 92×68cm | 油彩・画布 | オルセー美術館 印象派の巨匠エドガー・ドガの代表作『アプサントを飲む人』。第2回印象派展(1876年)への出品を目指し制作されたものの完成に間に合わず、翌年開催された第三回印象派展に出品された本作は、画家の友人で女優のエレン・アンドレが、パリのカフェ≪ヌーヴェル・アテーヌ≫でアプサントと呼ばれる度の強い蒸留酒の水割りを飲む姿と、その傍らに彫刻家で禁酒主義者であったマルスラン・デブータンの姿を描いた作品で、ドガの辛辣で鋭敏な現実社会への観察が顕著に示されている。画家自身は印象派展出品当時『カフェにて』と呼称していた、エレン・アンドレの前にはアプサントが、(実際は飲酒しなかったが)マルスラン・デブータンの前にはコーヒーをベースにしたチェイサーが描かれている本作は、カフェ≪ヌーヴェル・アテーヌ≫における朝食時の日常の一場面であり、これらは当時のパリに蔓延し社会的な問題になっていたアルコール中毒が本作には克明に描写されたものである。しかし本作は公開当時、「不快極まりない下劣な絵」、「胸が悪くなる酔っ払いが描かれた不道徳な絵」など酷評を受けるものの、今日では画家はもとより印象派を代表する作品として広く知られている。また本作に用いられている写真を思わせるような唐突に切り取られた構図は画家の大きな特徴のひとつであり、本作の静寂感漂う気だるく憂鬱なパリの朝の雰囲気をより強調している。
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「青い踊り子たち」エドガー・ドガ Edgar Degas 1834-1917 | フランス | 印象派

(Danseuses bleues.Vers) 1893年

85×75.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館

 

失明の危機 ドガの無限の挑戦の先にある作品

視力は失われようと、聴力が残っている。音から動きをみることができよう」(ドガの言葉) すべての境界が曖昧で、ぼんやりしている・・・第一印象は、どこかすっきりしない絵とも観てしまう。しかし、この絵こそ、その後の20世紀絵画の先駆けとして、新たな表現の可能性の突破口を開いた、画期的な作品になった。ドガが描いたこの作品は、ドガ本人が当時失明の危機に瀕していた中で、緊張と不安を抱えつつも、オペラ座で舞う踊り子たちの記憶をなぞるように描いた。点描を指で描くなど、アバンギャルドな驚きの手法で挑戦した画家の執念ともいえる作品である。最も興味を引いたのは、作品の中央に出てくる4人の踊り子。この踊り子たちが、実はすべて一人の踊り子を、まるでストップモーションのように、角度と時間の経過を追いつつ、一枚のキャンバスに投影させたものだ。他の作品にあっても、数多くの踊り子たちの、あらゆる表情や仕草を観察しつつ、あらゆる角度から精緻に、それでいて愛情を注ぎつつ描いた。アートの世界に限らず、スポーツの世界でも、仕事の世界でも、障害をものともせずに、克服するどころか、高い水準の作品やパフォーマンス、仕事の成果をあげている。

 

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「田舎の肖像」 ギュスターヴ・カイユボット Gustave Caillebotte 1848-1894 | フランス | 印象派

(Portraits in the Country) 1876年 95×111cm | 油彩・画布 | バイユー、ジェラール男爵美術館 印象主義時代を語る上で欠かせない同派を代表する画家。観る者に現代性を強く喚起させる独特の自然主義的作品を制作。カイユボットは収集家としての知名度の方が高かったものの、近年(1960~70年代)の再評価によって画家として正当な扱いを受けるようになった。また「ブルジョワ的」とも呼ばれた古典的な表現手法とその印象も特筆すべき点である。画題としては労働、家族、生活など近代的な都市生活的画題の作品が傑出しているが、後年に手がけた風景画なども高い評価を受けている。ブルジョワ階級出身で生涯裕福であったカイユボットは収集家としても良く知られており、クロード・モネやルノワール、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー、ポール・セザンヌなどの作品を購入することによって、経済的に彼らを支えたほか、印象派展の開催などでも意見調整や経済支援などをおこなった。1848年、繊維業を営む裕福な事業家の息子としてパリで生まれ、ナポレオン3世による第二次帝政時代に上流階級層の高級住宅地として新造されたマルゼルブ大通りの邸宅で不自由なく育つ。1870年に法律学校を卒業した後、1872年頃に19世紀後半を代表する(アカデミー)肖像画家レオン・ボナのアトリエに出入りするようになり、翌1873年にパリ国立美術学校へ入学。おそらくボナの友人であったエドガー・ドガを通じバティニョール派(後の印象派)の画家らと知り合い、モネやルノワールなどを始めとした印象派の画家らとの交友を持つようになったが、その中でもとりわけドガの作品から影響を受ける。1876年の第2回印象派展以降、第6回、第8回以外の印象派展に参加。以後、印象派の画家らを支援しながら自らも作品を精力的に制作。1894年、生地であるパリで死去。カイユボットの死後、遺言書により画家が所有していたモネやルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌなど印象派の画家らの作品はルーヴル美術館へと寄贈されることとなっていたが、美術館当局やサロン画家らの猛烈な反対に遭い受け入れられなかったが、1928年に受理。今日ではオルセー美術館へと移管され、同美術館の重要なコレクションとして収蔵されている。
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