フォトギャラリー
美術館(施設内の廊下)


Monet,Claude"Water Lilies" シカゴ美術館蔵
フランスの画家、印象派の創設者。「自然(特に戸外制作での自然風景)に対して自分が認識した感覚を表現する」という基本的な印象派哲学を一貫して実践した芸術家。「印象派」という言葉は、パリ・サロンから独立して1874年に開催された第一回独立展で展示されたモネの作品《印象・日の出》に由来している。フランスの田舎を記録しようとするモネの野望のなかで、光の変化と季節の移り変わりをとらえるために、時間帯や視点を変えて何度も同じ風景を描く方法を確立させた。代表的なのが「印象」シリーズや「睡蓮」シリーズである。1883年からモネはジヴェルニーに移り、そこで家や土地を購入し、モネの作品でよく主題になる睡蓮を中心とした広大な風景画制作を始めた。1899年にモネは「睡蓮」シリーズを描きはじめた。最初は中心に日本風の太鼓橋を置いた垂直的視点だったが、その後死ぬまでの20年間は、巨大サイズの絵画シリーズとなった。


(La promenade, La femme à l'ombrelle)
100×81cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリー
ブーダン(1824年7月12日 - 1898年8月8日)から戸外で描くことを勧められたモネは、戸外のその場で直接描くすべての繰にはアトリエでは出せない力と生命があることを学んだ。アトリエで描く画家が常にアカデミックな慣例と独自のマニエリスムに手を染めているのに対し、戸外で制作する画家は、常に変化する雰囲気、ひっきりなしに変化する光に反応することを強いられている。画家はいつの時代でも戸外でスケッチし、自然の外観を、まずは鉛筆、チョーク、そして水彩絵の具で、そして18世紀末以降になると時には油絵の具でもしっかりと描きとめた。しかし、これはあくまでも、アトリエで初めてカンヴァスに移され、アカデミズムに規制された規則に基づいて伝統的な構図にげるための下絵でしかなかった。画家が自然の中で絵の構想を練り、制作に入り、時には戸外で仕上げるためにイーゼル、カンヴァス、油絵の具、パレットを持って出かけるという状況は、まったく新しい試みであり、絵画に革命的な影響を与えた。モネはこのような方法でアトリエを戸外に移した最初の画家の1人である。これは、そもそも少し前にチューブ絵の具が発明されたことで、初めて可能となった。というのは、粉末絵の具と油を現場で昆合することは、少なくともノルマンディーの強い風の中ではうまく行かなかったに違いないからである。ともかく戸外で描くことは困難で大変なことだった。モネは夏には絵の道具のほかに、大きな日傘を持って出かけた。カンヴァスに直接日光が当たらないようにするためである。寒い季節にはブーツを履き、ウールの服の上にコートを何枚も重ね着し、毛布にくるまってモチーフの前に座っているモネの姿がしばしば見かけられた。風の強い日にはイーゼルとカンヴァスを紐でしっかり結んだが、それでもなおよく風にいたずらをされた。《ラ・ジャボネーズ》と同じ年に描かれたこの作品にこそ、当時のモネが追究していた色彩と光の課題が集約されているといつてよいだろう。草原を渡る風は、見る人の日のなかで色彩と-体となって渦巻き、ふたたび画面のなかへと戻っていく。手前の草むらも、モデルとなった妻カミーユの白いドレスも、人物の背後に広がる空も、ひとつとして静止しているものはない。画面全体は軽やかなタッチ(筆触)で描き出され、草むらに立つ長男ジャンの帽子の赤い緑取り、彼の小さな肩に射す黄色い光、緑の日傘に反射する白い光、影になったカミーユの白いドレスにぽんやりと広がる黄色の反映など、モネの素早い手の動きは確実に多彩な光の効果をとらえている。


(Le jardin de Monet a Argenteuil) 1873年
61×82.5cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリ
画家クロード・モネ作『アルジャントゥイユのモネの家の庭(ダリアの咲く庭)』。本作は1871年末にアルジャントゥイユでモネが初めて借りた、サン・ドニ大通りとピエール・ギエン通りに面するセーヌ川近郊の家(モネの友人であったオーブリー=ヴィテ夫人所有の家)の庭を描いた作品である。モネはこの家に1874年まで滞在したが、本作では画家が庭に咲くキク科の多年草で縹色の種類が非常に豊富な≪ダリア≫に強い関心を寄せていたことが明確に示されている。画面中央から左側に描かれる赤色、桃色、橙色、黄色、白色、薄紫色など多様な色彩を奏でるダリアの群生は、眩い陽光を受け、色彩の洪水となり非常に複雑な表情を見せている。その形態もやや写実性が残るものの花のひとつひとつは隣り合う葉や茎などの白色に輝く緑色と対比し、画面の中で鮮やかに映えている。そして、この画面を覆うかのようなダリアの群生と対照的に空間が開放される画面右側部分には一組の男女が仲睦まじげにこの庭を散歩しており、観る者に幸福的な印象を与えている。さらに可視加減により鈍くグレイッシュな色彩で描かれる空と溶け合うかのような、画面中央やや右寄りの借家のおぼろげな表現など、本作の近景と遠景(背景)の絶妙な色彩感覚と繊細な調和性はモネ1870年代の作品の中でも特に優れた出来栄えを示しており、今なお人々を魅了し続ける。なおモネは本作以外にも『アルジャントゥイユのモネの家』などこの家を画題とした作品を複数制作している。


95×115cm | 油彩 | トゥルネ美術館所蔵
《ラテュイユ親父の店にて》は、画家のエドゥアール・マネによって制作された作品。制作年は1879年から1879年で、トゥルネー美術館に所蔵されている。この絵は、 フランス革命前に開業した「ラテュイユ親父の店」という、クリシー通行税徴収所の近くのレストランで描かれた。パリ市民に人気の店で、ときに印象主義者と呼ばれるマネの芸術仲間たちが集まる場所の一つであった。このレストランは、よくマネが芸術仲間と議論を戦わせたクリシー通りの「カフェ・ゲルボワ」の近くにあった。モデルの女性は、当初マネの友人で女優のエレン・アンドレであったが、モデルを最後まで務められず、途中でジュディス・フレンチに変わった。テーブルについている若い男性は、店のオーナーの息子のゴーティエ=ラテュイユである。竜騎兵連隊の志願兵であった彼は、両親の店でマネに出会った。マネは彼の軍服が気に入り、当時とても若く、かわいらしく魅力的で美しく着飾ったエレン・アンドレと一緒に軍服姿の彼を描いた。二回目にモデルを務めた時までは順調に進んでいたが、三回目の時には彼女は芝居のリハーサルがあり、店に来ることができなかった。翌日に彼女はやってきたが、すでに手遅れで、マネからは冷たい反応が返ってきた。そして、その翌日、マネはパリを中心に活躍していた音楽家のオッフェンバックの親戚のジュディス・フレンチを連れてきた。ゴーティエは彼女とポーズをとったが、以前と同じようにはいかなかった。マネは落ち着きがなく、自分のタッソーシルクのジャケットを手渡しながら、軍服を脱いで自分のジャケットを着るように言った。そしてマネはカンヴァスを削り落としたので、一般人の服を着てポーズをとることになった。


208 cm × 265.5 cm | 油彩 |オルセー美術館
印象派の先駆的画家。筆跡を感じさせる流動的な線と伝統的な形式にとらわれない自由で個性的な色彩を用い、近代の日常、風俗、静物、歴史、肖像、裸婦、風景など様々な画題を描く。また後に印象派らの画家らとの交友を深めると、自身の表現手法にその技法を取り入れるほか、当時流行していた日本の浮世絵・版画から太く明確な輪郭線描の影響を受けた。1832年、第二帝政の法務省高官を父、外交官の娘であった母という裕福で恵まれた家庭で生を受ける。マネの画業は1850年、サロンの第一線で活躍していた画家トマ・クテュールの画塾で7年間に入ることからに始まり、そこでルーヴル美術館などが所蔵する古典的絵画に触れ、それら現代化する表現を会得。1863年のサロンに出品された『草上の昼食』、1865年のサロンに出品された『オランピア』で実践するも、スキャンダラスな問題作として物議を醸す。しかしこれらの事件によってクロード・モネ、ドガ、ルノワール、シスレー、バジールなどシャルル・グレールの画塾で学んだ画家らと、ピサロ、セザンヌ、ギヨマンなどアカデミー・シュイスで絵画を学ぶ画家らによって形成される前衛的で伝統破壊的な若い画家集団≪バティニョール派(後の印象派)≫に先駆者と見なされ、慕われるようになる。またサロン画家アンリ・ファンタン=ラトゥールや文学者ゾラ、詩人ボードレール、女流画家ベルト・モリゾなどとも交友を重ねる。バティニョール派の画家が1874年からサロンに反発し開催した独自の展覧会(印象派展)への出品を画家も熱心に誘われるも、マネは「サロンこそ世間に問いかける場」との考えから出品を拒み続けた。なお都会に生まれた画家は洗練された趣味や思想、品の良い振る舞いを身に付けており、外出時は必ずシルクハットを被り正装したという逸話も残されている。


(Jeunes filles au piano)
116×90cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)
印象派の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールの中でも最も愛される作品のひとつ『ピアノに寄る娘たち』。非公式ながら国家からリュクサンブール美術館収蔵のために依頼され手がけられた作品である本作に描かれるのは、二人の少女がピアノに向かい楽譜を読む姿≪ピアノに寄る娘たち≫で、この頃の画家が意欲的に描いた若い娘(少女)らが何かをおこなう姿やその動作を、豊潤で豊かな暖色を用い豪奢に描かれているなど、光の効果を探求した印象派時代から、線描を重要視した古典主義時代(枯渇の時代)を経て辿り着いたルノワール独自の様式が示されている。特に本作の流動的で大ぶりな筆触によって表現される(モデルは不詳である)二人の少女の愛らしい表情や頭髪、衣服の動き、柔らかい肌の質感などの描写は、まさに「愛でる」「安らぎ」「ぬくもり」「家庭的」などという言葉が相応しい絶妙な雰囲気を醸している。また画面全体においても、この表現手法を用いることによって、主対象である人物(二人の少女)と物体(ピアノや楽譜、家具)、その動作、室内空間がひとつとなって溶け合うかのような効果も生み出している。このような表現による捉心的効果は、枯渇の時代以降のルノワールの画風の大きな特徴であり、同時に最大の魅力でもある。さらに本作の少女らの赤色と白色の対称的な衣服や、鮮やかなリボンや腰布の青色、カーテン部分の緑色などの色彩描写も本作の見所のひとつである。なお本作のヴァリアントがメトロポリタン美術館やオランジュリー美術館、個人所蔵など合計4点が確認されている。


(Yvonne et Christine Lorelle au piano)
73×92cm | 油彩・画布 | オランジュリー美術館(パリ)
印象派の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワール作『ピアノを弾くイヴォンヌとクリスティーヌ・ルロル』。本作はルノワールのほかエドガー・ドガ、ベルト・モリゾなどとも交友のあった、画家であり収集家としても知られていたアンリ・ルロルの二人の娘イヴォンヌとクリスティーヌをモデルに、当時裕福な富裕層の間で流行していた≪ピアノ≫を弾く姿を描いた作品である。画家は本作以前にも『ピアノに寄る娘たち』など本画題≪ピアノを弾く娘≫を度々手がけているが、本作ではルノワールの色彩の対照性への興味が顕著に示されている。画面中央で白い上品な衣服に身を包むイヴォンヌ・ルロルは交差させるように(ピアノの)鍵盤の上へ置いている。その奥では鮮やかな赤い衣服を身に着けたクリスティーヌ・ルロルが両手でイヴォンヌを囲むかのように寄り添っている。二人の身に着けた白色、赤色の衣服の色彩的コントラストは画面の中で最も映えており、その強烈にすら感じられる対照性は観る者の視線を強く惹きつける。さらに本作にはピアノの黒色と鍵盤の白色、ピアノ(黒色)とイヴォンヌ(白色)、ピアノ(黒色)とクリスティーヌ(赤色)など様々な要素で色彩的コントラストが試みられている。また画面背後の薄黄緑色の壁に飾られる踊り子(バレリーナ)と競馬を描いた二枚の絵画はアンリ・ルロルが購入したエドガー・ドガの作品であり、ルノワールは画面内にドガの作品を描き込むことによって、友人ドガへの友情と、画家としての明確な(差異のある)態度を表している。


(La fontaine de cuiver)1733年
28.5×23cm | 油彩・板 | ルーヴル美術館(パリ)
18世紀フランスの重要な画家ジャン・シメオン・シャルダンの代表的作品『銅製の給水器』。本作は画家の最初の妻マルグリット・サンタールの没後に作成された財産目録に記されているシャルダン一家が所有していた25ルーブルという当時としては非常に高額な評価を受けている≪赤銅製の給水器≫を描いた作品で、この給水器は『買い物帰りの女中』など画家の他の作品にも度々登場しているほどシャルダンにとって愛着のある画題でもあった。画面中央にどっしりと配される赤銅製の蓋のついた給水器は正面よりほんの少し左側に蛇口が付けられており、給水器を支えている木製の脚は重量に耐えられるよう太く頑丈そうである。さらに給水器の前には簡素な洗い桶や柄杓、黒色の水壷などが配されており、それらからは装飾性の全く無い日常的な生活感に溢れている。一見すると全く見所がない作品のようにも思えるが、本作から滲み出るシャルダンの対象に対する実直で真摯な眼差しや、絵画的な飾り気を一切除外した現代的とも言える造形の単純性、非常に日常へ密着した風俗的展開などは画家の全ての作品の中でも特に優れた出来栄えを示している。また本作に用いられる褐色的な色彩と背後の黄灰色的な壁の表現も注目すべき点である。特に給水器の蛇口付近の金属的な光沢と、柄杓の鈍い輝き、そして黒壷の艶やかな光の反射の微妙な差異と、(背後の壁を含む)硬質的な各物質の質感の見事な描き分けは観る者へ強い印象を残すことに成功している。


(Irène Cahen D'Anvers) 1880年
65×54cm | 油彩・画布 | ビュレル・コレクション(チューリヒ)
印象派の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワールが手がけた肖像画の代表的作例のひとつ『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像』。本作は(当時としては数少ない)ルノワールの理解者であり庇護者でもあった裕福な銀行家ルイ・カーン・ダンヴェールの三人の女の子供の内、末娘である≪イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢≫の肖像として1880年から翌年にかけて制作された作品である。ルノワールは自身の娘や(画家の)理解者からの依頼などを始めとして、子供を画題とした肖像画を数多く手がけているが、その中でも本作は特に優れた作品として知られている。清潔で上品な顔立ちの中で輝く大きく印象的な瞳、子供特有の白く透き通る肌、肩にかかり腰まで垂れた少し波打ち気味の長い赤毛の頭髪、質の良さを感じさせる青白の衣服、膝の上で軽く組まれた小さな手。いずれも細心の注意が払われながら、綿密に細部まで画家特有の筆触によって描写されている。とりわけ注目すべき点は少女イレーヌ・カーン・ダンヴェールの長く伸びた赤毛の頭髪にある。印象主義的技法(筆触分割)に捉われない画家の個性を感じさせる流形的な筆触によって髪の毛一本一本が輝きを帯びているかのように繊細に表現されている。また少女の赤茶色の髪の毛と溶け合うかのような背景との色彩的調和も特筆すべき点のひとつである。このように大人が子供に対して抱く愛情と、画家の子供の肖像画に通じる微かな甘美性を同時に感じさせる本作は今なお、画家の代表作として人々を強く惹きつけているのである。


(La balançoire) 1869年
66×86cm | 油彩・画布 | ストックホルム国立美術館
印象派最大の巨匠ピエール=オーギュスト・ルノワー1860年代を代表する作品のひとつ『ラ・グルヌイエールにて』。本作に描かれるのは実業家スーランが興した、パリに程近いブージヴァル近郊セーヌ河畔の新興行楽地であった水上のカフェのある水浴場≪ラ・グルヌイエール≫で、1869年夏に友人であるクロード・モネと共に同地へ赴き、画架を並べ描いた作品としても広く知られている。「蛙の棲み処」という意味をもつラ・グルヌイエールの中央には、「植木鉢(又はカマンベール)」と呼ばれた人工の島があり、本作にもその島に集う人々が描かれている。画面右部分には水上のカフェ、画面下部にはセーヌ河を行き交うボートを配するなど、モネの『ラ・グルヌイエール』とほぼ同様の構図で描かれることから、二人が画架を並べ描いていたことがうかがえる。本作にも(現在では)印象主義の誕生と位置付けられる≪筆触分割(画面上に細かい筆触を置くことによって視覚的に色彩を混合させる表現手法)≫が用いられているも、モネが光の視覚的な現象や印象、効果に忠実であるのに対し、ルノワールの『ラ・グルヌイエールにて』では、より水面に反射する光の繊細さと叙情性が強調されていることは、特筆すべき点のひとつである。さらに本作は色彩においても明瞭で輝きを帯びたルノワール独特の色彩的様式の萌芽がみられるほか、エルミタージュ美術館が所蔵している、ラ・グルヌイエールに集う人々や木々の間から射し込む木漏れ日の表現にも着目し、別の構図で描かれた『ラ・グルヌイエール』も注目すべき作品である。


(Bal du Moulin de la Galette) 1876年
131×175cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)
印象派最大の巨匠の一人ピエール=オーギュスト・ルノワールが手がけた、最も世に知られる印象主義時代の傑作のひとつ『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』。1877年に開かれた第3回印象派展に出品された本作に描かれるのは、当時、パリのモンマルトルの丘上の庶民的なカフェで、かつて粉挽き小屋であった≪ムーラン・ド・ラ・ギャレット≫とそこで過ごす人々で、木々の間から射し込み移ろう斑点状の木漏れ日の表現や、喧騒なカフェで愉快に踊り会話する人々の描写は秀逸の出来栄えである。画面手前の人物らはアトリエで姿態を執らせ、画面奥の群集は実際にダンスホールでデッサンした人物らが配置されている本作には、画家が気に入っていたモデルのマルゴを始めとし、ノルベール・グヌット、フランク=ラミー、リヴィエールなどルノワールの友人や知人たちが多数描かれている。本作の光の効果的な表現や曖昧な輪郭、複雑な空間構成など画家の優れた印象主義的な技法は賞賛に値するが、その他にも退廃的でメランコリックであった当時のカフェ本来の姿とは異なる陽気な本作の雰囲気に、幸福な社会や治世を望んだルノワールの世界観や趣向なども示されているとの解釈もされている。なおルノワールと同じく印象派を代表する画家で友人だったカイユボットが購入し、ルノワールの死後にオルセー美術館へと寄贈された本作を制作するために、画家の友人たちが都度、コルトー街の画家のアトリエからムーラン・ド・ラ・ギャレットまで運ぶのを手伝ったとの話が残されているほか、本作より一回り小さい別ヴァージョン(78.7×113cm)が存在し、フィンセント・ファン・ゴッホの『ポール・ガシェ医師の肖像(ガッシェ博士の肖像)』と同様、大昭和製紙(2003年に日本製紙と合併)の名誉会長であった斉藤了英氏が1990年5月に開催されたオークションで別ヴァージョンを109億円で落札したものの、1997年に米国の収集家へ売却されている。


(Déjeuner des canotiers) 1881年
129.5×172.5cm | 油彩・画布 | フィリップス・コレクション
印象派最大の巨匠の一人ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作『舟遊びをする人々の昼食』。1882年の第7回印象派展に出品された本作は、セーヌ河沿いラ・グルヌイエールにあるイル・ド・シャトゥー(シャトゥー島)でアルフォンス・フルネーズ氏が経営する≪レストラン・フルネーズ≫のテラスを舞台に、舟遊びをする人々の昼食の場面を描いた作品である。本作はルノワールの最も世に知られる印象主義時代の傑作『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』に続く、屋内外で過ごす(集団的)人々の描写に取り組んだ作品でもあり、『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』同様画家の友人・知人らの姿が多数描かれている。中央の昼食やワインが置かれるテーブルを中心に画面左部分手前には犬を抱き上げる(後に画家の妻となる)アリーヌ・シャリゴとその後ろにレストランの経営者アルフォンス・フルネーズの姿が、画面右側手前に椅子に座り談笑する画家ギュスターヴ・カイユボットと女優エレン・アンドレ(エドガー・ドガの代表作『アプサントを飲む人』のモデルとしても知られている)、そして取材者マジョロの姿が配されているほか、画面奥にはバルコニーへ身体を預ける(帽子を被った)経営者の娘アルフォンシーヌ・フルネーズと会話するバルビエ男爵の後姿や、グラスを口元へ傾けるモデルのアンジェール、その後ろで経営者の息子アルフォンスJrと話をしている(ドガの友人でもある)銀行家兼批評家のシャルル・エフリュッシ、そして画面奥右端にはジャンヌ・サマリーやポール・ロート、レストリンゲスの姿が確認できる。本作では人体描写の形態的躍動感や生命感、色幅の大きい奔放かつ豊潤な色彩描写、明瞭で卓越した光の表現、前景卓上の静物の洗練された描写などにルノワールの(印象主義的)技巧の成熟が感じられるほか、風景描写とやや切り離された登場人物の堅牢で存在感のある表現は注目に値する。また本作はルノワールが印象主義時代との決別や終焉を告げた作品でもあり、画家の重大な転換期における最後かつ集大成的な作品としても特に重要視されている。なお本作は第7回印象派展閉幕後、すぐに画商デュラン・リュエルによって購入されている。


(La Chambre de Van Gogh à Arles) 1888年
72×90cm | 油彩・画布 | フィンセント・ファン・ゴッホ美術館
後期印象派を代表する画家フィンセント・ファン・ゴッホがアルル滞在期に手がけた最も重要な作品のひとつ『アルルのゴッホの寝室(画家の寝室、ゴッホの部屋)』。本作はゴッホが大きな希望と高い制作意欲を抱いて滞在していた南仏アルルで制作された作品で、(ゴッホが南仏アルルに誘った)画家たちの共同生活場所を想定して借りられた「黄色い家」の自身の寝室が描かれている。画家は弟テオに宛てた手紙の中で本作について次のように述べている。「僕は自分の寝室を描いた。この作品では色彩が全ての要であり、単純化した物体(構成要素)は様々な色彩によってひとつの様式となり、観る者の頭を休息させる。僕はこの作品で絶対的な創造力の休息を表現したかった。」。画面右側の大部分にゴッホが使用していた木製の寝具(ベッド)が置かれ、そこに沿う白壁には二枚の肖像画と不可思議な絵画が飾られている。ベッドの反対側(画面中央)には椅子が一脚置かれており、この椅子は本来白色をしていたことが判明している。画面右側には小さな木机とそこに置かれる瓶や水差し、さらに画面手前に画面中央の椅子とほぼ同様の椅子が配されている。正面の壁には三角形の窓と、その両脇に風景画らしき絵画が掲げられている。寝具、木製の机、ニ脚の椅子、壁に掛けられる絵画、木の床、窓などに持ちられる赤色や黄色の明瞭で鮮やかな色彩と、三面の壁の青味を帯びた色彩の対比は、画家自身も述べているよう本作の最も注目すべき点であり、一点透視図法を用いた急激な遠近法による空間構成と共に、本作の表現的特徴を決定付けている。なお完成後、洪水によって損傷を受けた本作が制作された翌年(1889年)、神経発作の為に入院していたカトリック精神療養院退院後にゴッホは、本作に基づく2点の複製画(レプリカ)を制作している。


Tournesols (quatorze) 1888年
92×72.5cm | 油彩・画布 | ロンドン・ナショナル・ギャラリー
後期印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホのおそらくは最も代表的な作品のひとつであろう『ひまわり(14本)』。本作は日本の浮世絵から強い影響を受け、同国を光に溢れた国だと想像し、そこへ赴くことを願ったゴッホが、ゴーギャンを始めとする同時代の画家達を誘い向かった、日差しの強い南仏の町アルルで描かれた作品で、本作を始めとする≪ひまわり≫を題材とした作品は、このアルル滞在時に6点、パリ時代には5点描かれていることが記録として残っている。画家の人生の中でも特に重要な時代であるアルル滞在時に手がけられた作品の中でも、最も傑出した作品のひとつでもある。本作の観る者の印象に強く残る鮮やかな黄色の使用については、ゴッホが誘った画家達と共同生活をするために南仏の町アルルで借りた、通称「黄色い家」を表し、そこに描かれるひまわりは、住むはずであった画家仲間たちを暗示したものであると指摘する研究者もいる。また、ひまわりの強い生命力と逞しいボリューム感を表現するために絵具を厚く塗り重ね描かれたが、それは同時に作品中に彫刻のような立体感を生み出すことにもなった。なおゴッホは1889年の1月に本作のヴァリエーションとなる作品を始めとして3点のレプリカ(フィラデルフィア美術館所蔵版、ファン・ゴッホ美術館所蔵版、損保ジャパン東郷青児美術館所蔵版)を描いているが、その意図や解釈については研究者の間で現在も議論されている。


(Le Pont de l'Anglois) 1888年
54×65cm | 油彩・画布 | クレラー・ミュラー美術館蔵
現存はしない『アルルの跳ね橋』
『アルルの跳ね橋』は1880年代後半のオランダを代表するポスト印象派の画家であるフィンセント・ファン・ゴッホが1888年に描いた作品です。ゴッホは、アルルの跳ね橋にとても惹かれました。実は描いた作品は1点だけではありません。繰り返しアルルの跳ね橋を描きました。現在では5作が知られています。もっとも有名な《アルルの跳ね橋》がこちらのクレラー・ミュラー美術館が所蔵する作品です。この作品のモデルとなった橋はアルルの中心部から南西約3キロの運河に実際に架かっていた「ラングロワ橋」です。「ラングロワ橋」は1930年にコンクリート橋に架けかえられたため、現存はしていません。ただし、別の場所に再現されて作られていて「ファン・ゴッホ橋」と名付けられて観光地となっています。しかし風景などが異なり、作品の雰囲気が再現されているとは感じられえないようです。
浮世絵の影響を受けたともいわれる『アルルの跳ね橋』
ゴッホが親日家であったことでも知られています。ゴッホが残した作品の中には、浮世絵の影響を受けたといわれる作品がいくつか存在しますが、この『アルルの跳ね橋』もそのうちの1枚です。当時パリでも知られていた、日本の画家、歌川広重の「あおはしあたけの夕立」に影響を受けたのではないかと言われています。


(Het Straatjd)
53.5×43.5cm | 油彩・画布 | アムステルダム国立美術館
17世紀オランダ絵画黄金期を代表する風俗画家ヨハネス・フェルメールが手がけた現存する二枚の風景画作品の内のひとつ『デルフトの小道』。1654年デルフトの街で起こった火薬庫爆発事故を機に、画家が思い入れの強い街の情景を絵画内へ留めようと、街への敬愛を示した都市景観画のひとつであると推測される本作に描かれる場所の特定については、研究家スウィレンスが提唱したフォルデルスフラハト運河近くの旧養老院とする説が主流とされているも、異論も多く、現在も研究が続いている。フェルメールと同じデルフト派のひとりピーテル・デ・ホーホの手がけた都市景観画に強い影響を受けていることが多くの研究者から指摘される本作では、左から洗濯をおこなう女、道端に座る二人の子供、戸口で針仕事をする老女が登場人物として描かれるが、いずれも当時の人々のありふれた日常生活の一場面を描いたものである。また本作の制作年代については、煉瓦で使用される赤褐色や、それらを繋ぐ膠泥(モルタル)の白色、ポワンティエ(点綴法)、一部に見られる何層にも重ねられた厚塗り描写など『牛乳を注ぐ女』や『デルフトの眺望』で用いられた手法と同様の手法で描かれることから、同時期に手がけられたと推定されている。


(Vase bleu) 1885-87年頃
61×50cm | 油彩・画布 | オルセー美術館(パリ)
近代絵画の父ポール・セザンヌ初期を代表する静物画作品のひとつ『青い花瓶』。1885-1887年頃に制作されたと考えられている(注:1890-91年頃とも推測されている)本作は、花が入れられた青い花瓶を中心に皿や林檎らしき果物などが構成される静物画である。画面中央やや左側に配される青く縦長の花瓶は強く濃く、何度も重ねられた輪郭線によって画面の中で圧倒的な質量感と形状的存在感を醸し出している。それは、本作に描かれる(諸説あるが、おそらくアイリスやシクラメン、ゼラニウムと思われる)花瓶に入れられた花や3つの果物も同様で、細部まで克明に描写されることなく、ただ静物の形態とその存在そのものが強調されている。本作で最も注目すべき点は、この静物が内包する形態の真実性に対する画家の探求と、それらが互恵的に関係し合う計算され尽した構成にある。互いの存在を消し合うことなく絶妙に配される各静物の距離感や、伝統的な写実性や遠近的表現を無視してでも取り組んだ、描く対象における形態の力動的な描写は特に秀逸な出来栄えを示しているほか、他の代表的な静物画作品に見られる複雑な構成とは一線を画する、簡素ながら絵画としての完成度が非常に高い静物の構成は、今なお観る者を感動させる。また色彩の表現においても背景の壁と視感覚溶け合うかのような花瓶の青い色彩や、それと対比する黄土色のテーブルや赤色の花と果実などは、画面の中で見事な調和を示している。さらに意図的に歪められた形態の描写にもセザンヌの独自的で革新的な絵画表現に対する信念が感じられ、これらの特徴はナビ派の画家たちを始め、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックなどキュビスムの画家たちや、アンリ・マティスに代表されるフォーヴィスム(野獣派)の画家たちに大きな影響を与えた。


(Garçon au gilet rouge) 1890年
92×73cm | 油彩・画布 | 個人蔵(ポール・メロン夫妻)
これは,愁いをふくむ若者を描いた後期に属する油絵の一つである。少年が頭蓋骨をわきにしてテーブルの前に座っているもう一つの作例がある。ここでは,もの憂い姿勢と斜めに重く垂れるカーテンによる閉じた包囲が,憂鬱な夢想のムードを,その主題を指し示すことなしに表現している。その材質が身の回りの重苦しげなカーテンに似た衣服を着た少年は,その空間に押し包まれているように見える。赤いチョッキも,このムードの要素の一つである。この強い色彩の例外的な中核は,散発するのではなく,冷たい紫色へと移ってゆく。襟飾と腰帯の青は,暗く灰色味を帯びる。片手を腰にあて,片手を下にさげた,裸体画の常套的なクラシックなポーズ,くつろいだ動勢のポーズと瞬間的休止は,受動的で弱々しい姿勢となっている。力の抜けた生気のない腕に対比してみると,脚の釣り合いのとれた傾斜の繊細さと,カーテンの反復する斜めの塊量の力とがはっきりする。背の高いメランコリックな,もの悲しい優雅さをもつ人体は,内省と懐疑によって活動が阻止されたところの16世紀のイタリアの富裕階級の肖像を思い起こさせる。少年の相貌は,そこはかとないけれども,繊細に描かれる。われわれは,彼の内気と悩める内的生命に気づかずにはおれない。うすく引かれた唇は,遠くの空を飛ぶ鳥の翼のようである。この感情の渋い調子は、実にセザンヌにとっては重要である。対照的に,この絵は,われわれが盛期ルネッサンスの巨匠たちのうちに貴著する形態のあの高貴な大きさと,そしてセザンヌ独自の,生動する筆づかいによって実現された色彩のすばらしい響きと生命感によって,生き生きとし,力強いのである。これは明瞭に配置され,形式化された構図であり,そこにおいては,少年のしなやかな身体の,それ自体で均衡のとれた構成が,その反面で,変化交替する対照性のうちに,カーテンと椅子の長いリズミカルな形態に対して,対立している。左では直線のカーテンは,右では曲線である。少年の身体は,左でいっそう曲折し曲線を描くに対して,右では硬直している。このきわめて想像的な構図は,きわめて慎重に考え抜かれ,直接的な印象にほとんど負うところがない。しかし色彩と輪郭線の細部はそれらの無限の変化のうちに,視覚世界に対して見開いた,探究的で感覚的な目を,如実に示している。






(Danseuses bleues.Vers) 1893年
85×75.5cm | 油彩・画布 | オルセー美術館
失明の危機 ドガの無限の挑戦の先にある作品
視力は失われようと、聴力が残っている。音から動きをみることができよう」(ドガの言葉) すべての境界が曖昧で、ぼんやりしている・・・第一印象は、どこかすっきりしない絵とも観てしまう。しかし、この絵こそ、その後の20世紀絵画の先駆けとして、新たな表現の可能性の突破口を開いた、画期的な作品になった。ドガが描いたこの作品は、ドガ本人が当時失明の危機に瀕していた中で、緊張と不安を抱えつつも、オペラ座で舞う踊り子たちの記憶をなぞるように描いた。点描を指で描くなど、アバンギャルドな驚きの手法で挑戦した画家の執念ともいえる作品である。最も興味を引いたのは、作品の中央に出てくる4人の踊り子。この踊り子たちが、実はすべて一人の踊り子を、まるでストップモーションのように、角度と時間の経過を追いつつ、一枚のキャンバスに投影させたものだ。他の作品にあっても、数多くの踊り子たちの、あらゆる表情や仕草を観察しつつ、あらゆる角度から精緻に、それでいて愛情を注ぎつつ描いた。アートの世界に限らず、スポーツの世界でも、仕事の世界でも、障害をものともせずに、克服するどころか、高い水準の作品やパフォーマンス、仕事の成果をあげている。





