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美術館(施設内の廊下)

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「睡蓮」 (1906年) クロード・モネ Claude Monet 1840-1926 | フランス | 印象派

Monet,Claude"Water Lilies" シカゴ美術館蔵

 

フランスの画家、印象派の創設者。「自然(特に戸外制作での自然風景)に対して自分が認識した感覚を表現する」という基本的な印象派哲学を一貫して実践した芸術家。「印象派」という言葉は、パリ・サロンから独立して1874年に開催された第一回独立展で展示されたモネの作品《印象・日の出》に由来している。フランスの田舎を記録しようとするモネの野望のなかで、光の変化と季節の移り変わりをとらえるために、時間帯や視点を変えて何度も同じ風景を描く方法を確立させた。代表的なのが「印象」シリーズや「睡蓮」シリーズである。1883年からモネはジヴェルニーに移り、そこで家や土地を購入し、モネの作品でよく主題になる睡蓮を中心とした広大な風景画制作を始めた。1899年にモネは「睡蓮」シリーズを描きはじめた。最初は中心に日本風の太鼓橋を置いた垂直的視点だったが、その後死ぬまでの20年間は、巨大サイズの絵画シリーズとなった。

 

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「散歩、日傘をさす女性」1875年 クロード・モネ Claude Monet 1840-1926 | フランス | 印象派

(La promenade, La femme à l'ombrelle)

 100×81cm | 油彩・画布 |  ワシントン・ナショナル・ギャラリー

 

ブーダン(1824年7月12日 - 1898年8月8日)から戸外で描くことを勧められたモネは、戸外のその場で直接描くすべての繰にはアトリエでは出せない力と生命があることを学んだ。アトリエで描く画家が常にアカデミックな慣例と独自のマニエリスムに手を染めているのに対し、戸外で制作する画家は、常に変化する雰囲気、ひっきりなしに変化する光に反応することを強いられている。画家はいつの時代でも戸外でスケッチし、自然の外観を、まずは鉛筆、チョーク、そして水彩絵の具で、そして18世紀末以降になると時には油絵の具でもしっかりと描きとめた。しかし、これはあくまでも、アトリエで初めてカンヴァスに移され、アカデミズムに規制された規則に基づいて伝統的な構図にげるための下絵でしかなかった。画家が自然の中で絵の構想を練り、制作に入り、時には戸外で仕上げるためにイーゼル、カンヴァス、油絵の具、パレットを持って出かけるという状況は、まったく新しい試みであり、絵画に革命的な影響を与えた。モネはこのような方法でアトリエを戸外に移した最初の画家の1人である。これは、そもそも少し前にチューブ絵の具が発明されたことで、初めて可能となった。というのは、粉末絵の具と油を現場で昆合することは、少なくともノルマンディーの強い風の中ではうまく行かなかったに違いないからである。ともかく戸外で描くことは困難で大変なことだった。モネは夏には絵の道具のほかに、大きな日傘を持って出かけた。カンヴァスに直接日光が当たらないようにするためである。寒い季節にはブーツを履き、ウールの服の上にコートを何枚も重ね着し、毛布にくるまってモチーフの前に座っているモネの姿がしばしば見かけられた。風の強い日にはイーゼルとカンヴァスを紐でしっかり結んだが、それでもなおよく風にいたずらをされた。《ラ・ジャボネーズ》と同じ年に描かれたこの作品にこそ、当時のモネが追究していた色彩と光の課題が集約されているといつてよいだろう。草原を渡る風は、見る人の日のなかで色彩と-体となって渦巻き、ふたたび画面のなかへと戻っていく。手前の草むらも、モデルとなった妻カミーユの白いドレスも、人物の背後に広がる空も、ひとつとして静止しているものはない。画面全体は軽やかなタッチ(筆触)で描き出され、草むらに立つ長男ジャンの帽子の赤い緑取り、彼の小さな肩に射す黄色い光、緑の日傘に反射する白い光、影になったカミーユの白いドレスにぽんやりと広がる黄色の反映など、モネの素早い手の動きは確実に多彩な光の効果をとらえている。

 

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アルジャントゥイユのモネの庭 クロード・モネ Claude Monet  1840-1926 | フランス | 印象派

(Le jardin de Monet a Argenteuil) 1873年

61×82.5cm | 油彩・画布 | ワシントン・ナショナル・ギャラリ

画家クロード・モネ作『アルジャントゥイユのモネの家の庭(ダリアの咲く庭)』。本作は1871年末にアルジャントゥイユでモネが初めて借りた、サン・ドニ大通りとピエール・ギエン通りに面するセーヌ川近郊の家(モネの友人であったオーブリー=ヴィテ夫人所有の家)の庭を描いた作品である。モネはこの家に1874年まで滞在したが、本作では画家が庭に咲くキク科の多年草で縹色の種類が非常に豊富な≪ダリア≫に強い関心を寄せていたことが明確に示されている。画面中央から左側に描かれる赤色、桃色、橙色、黄色、白色、薄紫色など多様な色彩を奏でるダリアの群生は、眩い陽光を受け、色彩の洪水となり非常に複雑な表情を見せている。その形態もやや写実性が残るものの花のひとつひとつは隣り合う葉や茎などの白色に輝く緑色と対比し、画面の中で鮮やかに映えている。そして、この画面を覆うかのようなダリアの群生と対照的に空間が開放される画面右側部分には一組の男女が仲睦まじげにこの庭を散歩しており、観る者に幸福的な印象を与えている。さらに可視加減により鈍くグレイッシュな色彩で描かれる空と溶け合うかのような、画面中央やや右寄りの借家のおぼろげな表現など、本作の近景と遠景(背景)の絶妙な色彩感覚と繊細な調和性はモネ1870年代の作品の中でも特に優れた出来栄えを示しており、今なお人々を魅了し続ける。なおモネは本作以外にも『アルジャントゥイユのモネの家』などこの家を画題とした作品を複数制作している。

 

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「ペール・ラテュイユの店」1879年 エドゥアール・マネ  1832-1883 | フランス | 印象派

95×115cm | 油彩 | トゥルネ美術館所蔵

 

《ラテュイユ親父の店にて》は、画家のエドゥアール・マネによって制作された作品。制作年は1879年から1879年で、トゥルネー美術館に所蔵されている。この絵は、 フランス革命前に開業した「ラテュイユ親父の店」という、クリシー通行税徴収所の近くのレストランで描かれた。パリ市民に人気の店で、ときに印象主義者と呼ばれるマネの芸術仲間たちが集まる場所の一つであった。このレストランは、よくマネが芸術仲間と議論を戦わせたクリシー通りの「カフェ・ゲルボワ」の近くにあった。モデルの女性は、当初マネの友人で女優のエレン・アンドレであったが、モデルを最後まで務められず、途中でジュディス・フレンチに変わった。テーブルについている若い男性は、店のオーナーの息子のゴーティエ=ラテュイユである。竜騎兵連隊の志願兵であった彼は、両親の店でマネに出会った。マネは彼の軍服が気に入り、当時とても若く、かわいらしく魅力的で美しく着飾ったエレン・アンドレと一緒に軍服姿の彼を描いた。二回目にモデルを務めた時までは順調に進んでいたが、三回目の時には彼女は芝居のリハーサルがあり、店に来ることができなかった。翌日に彼女はやってきたが、すでに手遅れで、マネからは冷たい反応が返ってきた。そして、その翌日、マネはパリを中心に活躍していた音楽家のオッフェンバックの親戚のジュディス・フレンチを連れてきた。ゴーティエは彼女とポーズをとったが、以前と同じようにはいかなかった。マネは落ち着きがなく、自分のタッソーシルクのジャケットを手渡しながら、軍服を脱いで自分のジャケットを着るように言った。そしてマネはカンヴァスを削り落としたので、一般人の服を着てポーズをとることになった。

 

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「草上の昼食」1863年 エドゥアール・マネ Edouard Manet 1832-1883 | フランス | 印象派

208 cm × 265.5 cm  | 油彩 |オルセー美術館

 

印象派の先駆的画家。筆跡を感じさせる流動的な線と伝統的な形式にとらわれない自由で個性的な色彩を用い、近代の日常、風俗、静物、歴史、肖像、裸婦、風景など様々な画題を描く。また後に印象派らの画家らとの交友を深めると、自身の表現手法にその技法を取り入れるほか、当時流行していた日本の浮世絵・版画から太く明確な輪郭線描の影響を受けた。1832年、第二帝政の法務省高官を父、外交官の娘であった母という裕福で恵まれた家庭で生を受ける。マネの画業は1850年、サロンの第一線で活躍していた画家トマ・クテュールの画塾で7年間に入ることからに始まり、そこでルーヴル美術館などが所蔵する古典的絵画に触れ、それら現代化する表現を会得。1863年のサロンに出品された『草上の昼食』、1865年のサロンに出品された『オランピア』で実践するも、スキャンダラスな問題作として物議を醸す。しかしこれらの事件によってクロード・モネ、ドガ、ルノワール、シスレー、バジールなどシャルル・グレールの画塾で学んだ画家らと、ピサロ、セザンヌ、ギヨマンなどアカデミー・シュイスで絵画を学ぶ画家らによって形成される前衛的で伝統破壊的な若い画家集団≪バティニョール派(後の印象派)≫に先駆者と見なされ、慕われるようになる。またサロン画家アンリ・ファンタン=ラトゥールや文学者ゾラ、詩人ボードレール、女流画家ベルト・モリゾなどとも交友を重ねる。バティニョール派の画家が1874年からサロンに反発し開催した独自の展覧会(印象派展)への出品を画家も熱心に誘われるも、マネは「サロンこそ世間に問いかける場」との考えから出品を拒み続けた。なお都会に生まれた画家は洗練された趣味や思想、品の良い振る舞いを身に付けており、外出時は必ずシルクハットを被り正装したという逸話も残されている。

 

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