茶話

 新潟市本町の人情横丁に蕎麦店を開いて一年余。日々の出来事を見つめ、思いをめぐらせていきたいと思います。なお11年5月以降、インフォメーションで紹介したメニューなどの話題も「茶話」に転載します(2010.8.17)



 ⑩タクアン

 ウッドデッキの上で、タクアンを漬けた樽に粉雪が舞っています。しっかり重石を乗せ直して、「2月初めには、お店に出せそう」と、女性スタッフはつぶやきます。
 
 新潟市の郊外、黒埼地区で無農薬栽培された青首大根に、これも黒埼地区の水田で実ったコシヒカリの糠を使い、塩と少量のザラメ砂糖を加えました。当店の女性スタッフは数十年来、天然のにがりを含む赤穂の天塩を使っています。「これが味を引き立てる」と言い、精製塩は使いません。小さなこだわりです。
 他には何も加えません。とてもシンプルな漬物が、家や地方によって独特の風味を出すのですから不思議です。大根は漬ける前に寒風にさらします。その時の気温、風力、湿度、そして干し加減によって、歯ざわりや香りが微妙に異なってくるのでしょう。旅先の民宿や小さな食堂で出合ったタクアンの数々を懐かしく思い出します。

 うらやましいのは舞台芸術家でエッセイストの妹尾河童さんです。約30年前のことですが、「週刊朝日」の企画で、日本全国のタクアンを食べ歩いたのです。
 「いぶし干し」「潮風干し」と、大根の干し方ひとつとっても土地ごとに個性があり、それぞれに深い味わいを持っていることが活字を通して伝わってきます。

 中でも興味を引かれたのが網走刑務所の受刑者が食べているタクアンでした。北海道の広大な開拓地に建てられたこの刑務所は、東京都の新宿区に匹敵する敷地を持っているそうです。妹尾さんは、高倉健さんの主演映画で知られる半月形の門のある本所から約7キロ離れた農場の施設で漬けられているタクアンの味に感嘆したのでした。

 大根は刑務所の農場で受刑者が育てたものを使います。それを、明治29年に建てられた木造の旧獄舎の中で漬けるのです。直径2メートル近い樽も木製です。「コンクリートはあくが出る」といいます。重石も昔ながらの自然石でした。「コンクリートでは塩に侵食されぼろぼろになる」と避けていました。約10キロの自然石を一樽に10個乗せ、食べ始めたら減った量にあわせて、重石を減らしていくのです。長年の勘が頼りの作業です。
 同じ手順を商業ペースで行ったら、一本幾らのタクアンになるでしょうか。

 この「監獄タクアン」を妹尾さんは、流氷がオホーツクの海を閉ざしている厳寒期に食べたそうです。「かむとシャリッと音がした。よく見ると、氷の小片がキラキラ光っていた。実に美味だった」。何ともうらやましいタクアン談義を読んで、「河童の馬鹿ヤロー」と叫んだ人がいました。指揮者の岩城宏之さんです。
 岩城さんはわざわざメルボルンから国際電話をかけて、妹尾さんに抗議したのです。「俺は日本食への郷愁など持っていない方だと思っていたけれど、海外でお前さんの書いた連載を読んでいるうちに、無性に本物のタクアンが食べたくなったじゃないか。コンチキショウ」というのです。

 当方だって同じ思いです。網走刑務所のタクアンを一度味わってみたくてなりません。今も同じ製法で漬けているのでしょうか。網走ではさまざまな「監獄グッズ」が観光土産として人気を呼んでいるそうですが、その中にタクアンもあるのでしょうか。(2011、01、10)

 ▼参考文献 「河童のタクアンかじり歩き」(妹尾河童・朝日文庫)
 


 ⑨大根

 本町市場に並ぶ見事な大根を見ると、寒風に冷えた体がほんのりと温まるようです。おでん鍋で湯気を立てる輪切り大根や、熱々の大根汁を連想しての条件反射でしょう。
 揚げたての天ぷらの薬味に使う辛い大根も、体を熱くしてくれます。
 冬の食卓に欠かせない大根。「もう少し寒くなると、沢庵漬け用の大根の最盛期だよ」と、人情横丁で青果物店を営む秋葉商店のおかみさんはいいます。

 昨冬、秋葉商店の店先で思いがけない知人に会いました。離れたところに住んでいながら、わざわざ大根を買いに来たというのです。毎朝、卸市場で仕入れてくる店主の確かな目を信頼している姿を見るとうれしくなります。「いよいよ冬が来るわ」と主婦が身構える季節です。大根の味へのこだわりが、本町へと足を向かわせるのでしょう。

 「青く来し大根舟の今白く」。新潟大学医学部名誉教授で俳人でもあった中田みづほさんが1938(昭和13)年に詠んだ句です。街なかを堀が縦横に流れ、「八千八川」といわれた時代、近郊の農村から大根を満載してくる舟は、初冬の新潟の風物詩でした。
 竹のさお一本で小さな舟を操りながら「大根やーい、大根やーい」と声を張り上げると、小路のあちこちからおかみさんたちが集まってきて、賑やかな値切り交渉や品定めが始まったといいます。

 中でもたくさんの大根舟が集まったのが、人情横丁の共同店舗のある場所にかつて堀が流れていた新津屋小路だったようです。「(青果物を運んでくる舟は)一番堀から東堀や西堀を通ってくる舟と、信濃川から新津屋小路の堀へ入る舟と、六の橋から入ってくる舟がこの新津屋小路の堀に集まって荷をあげた」と「新潟の町古老百話」(沢村洋編)にあります。舟運が活躍した時代、新津屋小路の堀端に多くの青果物問屋が軒を並べていたのです。

 大根を運ぶ舟は道路の整備とともに馬が引く荷車に代わり、やがて自動車全盛の時代になって、人情横丁かいわいの情景も大きく変わってきました。「健康そのもののようなきめうるわしく肥大な女性のおみあしを、失礼にも大根足と申しますが、決してそのことに立腹してはなりません。歳とともに干し大根ともなり、沢庵足ともなるのが人間の宿命でありまして、練馬大根のようなおみあしは、大いに誇りとすべきでありましょう」。懐石料理の辻嘉一さんの言葉です。

 自分の足を見ながら考えます。商店街にも、健康的な若さが目にまぶしい大根足に始まって、干し大根、沢庵足のような時代があるのでしょうか。
 「身にしみて大根からし秋の風」。芭蕉の句です。(2010,11,21)

 ▼引用・参考文献   「市史にいがた 7号」(新潟市)
               「新潟市青果業界の歩み」(新潟市青果業界の歩み刊行会)
               「味覚三昧」(辻嘉一 中公文庫)
               「新 歳時の博物誌Ⅱ」(五十嵐謙吉 平凡社)   



 ⑧老いて人間浴

 一冊の本が届きました。元小学校教師・飯沼宏さん(1928年生まれ・新潟市在住)が新潟県の県北地域で発行される情報紙に寄せた随想など約70編をまとめた「郭公の鳴くころは ふるさと村上些事断章」(ふくろう舎、1365円)です。「在郷で育ったことを喜んでいる私が、県北で今生活している人たちに少しでも読んでもらえればと思い、些事を書き続けた」といいます。

 話題の多くは些事かもしれません。その「些事」が、飯沼さんの筆にかかると、次々とイメージを膨らませてくれるのです。
 県北の中心校の校長を務め、県内義務教育界の指導的立場にあった飯沼さんが共感を寄せる人間像に、心を打たれます。

 「よい青年は無精ひげが似合う」。108ページに出てくる言葉です。ガス器具を直しに来た青年、テレビの画像が映らなくなった原因を探るために危険な大屋根に上った青年。どちらも無精ひげに汗を光らせていたのです。彼らは「これは自分の担当ではない」「専門分野が違う」などという立場に逃げようとはしません。現場で直面する問題に真剣に向き合い、行動するのです。
 旧奥三面集落の小池善茂さんの言葉にも、飯沼さんは脱帽します。「銭のことなど考えね。とにかく一年の段取りがあって、その通りにいぐように体を動かしたさかえに、余計なことを考えねんサ」

 「郵便を配達する人とかゴミを収集する車の人とか、現場で働く人を見るとわけもなく尊敬する(略)。この世にはコツコツ明るく働く人もいるし、規則どおりしか動かない人もいる」。12ページに出てくる飯沼さんの言葉です。どのような思いをこめて「現場」という言葉を使ったのでしょうか。一番書きたいテーマですが、言葉にすると理屈っぽくなります。思いが整わないのです。いましばらく、心の中で発酵するのを待ちたいと思います。

 今日は、飯沼さんの母の言葉について書きます。
 
 県北の村に住んでいた飯沼さんの母は晩年、新潟市の息子の家に滞在するのを楽しみにしていました。日曜日になると、いそいそと新潟市の繁華街・古町へ出かけるのです。「何も混雑している日に行かなくても」という飯沼さんに反論したそうです。「馬鹿いえ。人の通らぬ道の何がおもしぇんだ」。そう言って、古街十字路を行き交う人をあきもせず眺めたのです。

 作家で日本芸術院会員だった八木義徳さん(故人)の随筆「老いの風景」を思い出させる言葉です。八木さんも、繁華街をただ芸もなくぶらつくのが好きでした。

 疲れるとなじみの喫茶店に入り、窓に面した席に座ります。コーヒーを飲みながら、広場を往来する人々をぼんやり眺めるのです。
 幼児が母親の手を離れてはしゃぎながらひょこひょこ歩き回っているのを見ると、八木さんの顔もほころびます。「これはもう、無垢の幼児だけの持つ生命の光の照射というしかない」。そういう八木さんですが、もっとわくわくする「光」がありました。

 短いスカートから白い太ももをあらわにした若い女性です。「これはまた、何とまぶしい光を放つ代物だろう。心の中が何かお祭りのような華やかで賑やかな気分になってくる」
 短いスカートの女性は、やがて視界から消えます。「祭りの後の寂しさだけが残る」といいますが、またすぐに魅力的な女性が現れ「祭り」が再開したことでしょう。

 八木さんの住む団地の近くには、田園風景が広がっていました。そちらよりも商店街の雑踏に出かけたのです。「70代の半ば頃から田園風景よりも、人間風景のある場所に惹かれるようになった」という八木さんは自問します。
 「人が老いるとは、一口に言えば人に疎くなることだろう。人間世界から遠ざかることだろう」「人気のない林の中を歩くよりも、人波にまぎれながら街歩きをしたり、喫茶店の窓からさまざまな人間風景を見物したり、ともかくも人間の世界に親和しながらひと時を過ごすことのほうが、より強力な老化防止になるのではないか」。 八木さんはそれを、森林浴という言葉を真似て「人間浴」と名付けました。飯沼さんの母の思いも、同じだったのでしょう。

 古町も、そして庶民の台所としての歴史を持つ本町も、街歩きを楽しむ熟年世代が目に付きます。「心の老化」を防ぐために「雑踏での人間浴」を楽しみたいと考えている人々が増えていることを実感します。団塊世代が大量退職したいま、そうした人々に、いかに刺激的で心地よい空間を提供するかが問われているのでしょう。
 衰退が心配される古町と本町商店街の再生を考えるヒントのひとつを、飯沼さんと八木さんに教えていただいた気がします。(2010、10、16) 

 
  ⑦ アーケードが消えて

 人情横丁のお隣さん、本町通五番町のアーケードが撤去されました。
 開放的な空間が広がり、一気に道路が広くなったようです。歩道が空を取り戻しました。そして、これまで隠れていた建物の二階部分や屋根が秋空を背に姿を現したのです。古い町家風の木造建築や洋館風の建物が、往時のにぎわいを物語るようです。
 日本の大工さんの技量が頂点に達したのは大正末期から昭和初期と聞いたことがあります。そんな時代の棟梁の心意気を思わせるような、堂々たる構えの建物もあります。ただ、これまでアーケードに隠れたまま風雪にさらされていたのです。痛みが気になります。

 ところで、アーケードはどうして撤去されたのでしょうか。新潟市中央区役所によると、もともと老朽化が進んでいたところに今冬の豪雪で破損するなど、危険な箇所が目立つようになっていたそうです。地元はやむなく撤去を選んだのでしょう。本格的な改修には、多額の資金が必要です。中央区によると、撤去費用はすべて地元が負担したそうです。

 昭和30年代から40年代にかけて、日本全国の商店街でアーケードが建設されました。高度経済成長時代、アーケードは商店街近代化の象徴として国や自治体も積極的に整備を後押ししたのです。このとき建てられたアーケードが一斉に老朽化し、維持管理が深刻な問題となっています。拍車をかけているのが、大型店の郊外進出に伴う中心商店街の衰退です。

 新潟市でも、撤去されたのは本町だけではありません。気になるのは、撤去の後の商店街再生をどうするかです。新潟市にとって大きな政策課題となっている中心市街地の衰退防止に直結する課題です。
 本町通五番町でも、雨や雪の日の買い物客の減少を心配する声が聞かれました。街路樹など景観整備への期待を口にする人もいます。

 インターネットで検索すると、アーケードを撤去した後の商店街活性化策をめぐって、全国各地の自治体が知恵を絞っていることが良く分かります。
 新潟市にとって、日本海側のライバル都市である金沢市では、横安江町商店街のアーケード撤去の代わりにロードヒーティングを設置したそうです。雪の季節も歩きやすいという声がインターネットに寄せられています。
 九州・臼杵市中央商店街のアーケード撤去は、中心市街地活性化法の基本計画に基づく町並み整備事業とリンクして行われました。江戸時代から商業地として栄えてきた町並み景観を生かすために個々の店を改修し、電線を地中化したのです。他にも数々のアイデアを実現した臼杵市の取り組みは、中小企業庁や内閣官房都市再生本部などもインターネットで紹介しています。他にも、多くの自治体の取り組みを興味深く読みました。

 本町通五番町は、柳都にいがたでも最も古い歴史を持つ商業地の一つです。新潟市が適切に手を差し出せば、中小企業庁のホームページで取り上げられるような地域再生の取り組みも不可能ではないと期待をしています。(2010.9.28)



  ⑥ そばと健康

 奈良・正倉院の薬物の中にそばの実と思われるものが9粒検出されているそうです。古くから人々は、そばに薬効があると言い伝えてきました。

 最近は国際的にもそばの薬理研究が盛んで、国際シンポジウムも開かれています。中でも注目を集めているのが、穀類で唯一そばだけに含まれているといわれるルチンです。
 ビタミンPの一種であるルチンは老化で細くなった毛細血管を強化し、脳出血や高血圧を予防する効果があります。ただルチンは水溶性のため、ゆでると何割かが湯の中に溶け出るのです。
 そば好きの方の多くがそば湯を飲んで初めて、そばを食べ終わった気分になるといいます。それは栄養学的にも理にかなったことなのです。血圧が気になる方は、濃いそば湯を大いに飲まれたほうがいいでしょう。

 そばには肝臓の働きを促進するコリンという成分も含まれています。飲酒によって肝臓に脂肪がたまるのを防いでくれるとか。「一人で街を歩いていて、一人で酒が飲みたくなったら、私はまずそば屋で飲む」と書いたのは、作家の池波正太郎さんでした。そばを食べながら飲む適量の酒は、まさに百薬の長なのでしょう。長野県には、そば湯で焼酎を割って出す店があるそうです。当店は現在お酒を出していませんが、いつか新潟の銘酒や焼酎でそばを味わってもらえる日がきたらと、思っています。

 そばは、美容やダイエットにもすぐれています。ゆでたそばは、炊いたご飯に比べ一割以上もカロリーが少ないのです。また、食物繊維が多く含まれているため、便通を整え、腸内にあるコレステロールや有害物を水分と一緒に排出してくれます。
 
 そばの薬効をさらに高めているのが、小千谷そばのつなぎに使われている海藻のフノリです。カロリーがとても低いうえ、食物繊維のフノランが多く含まれ、ダイエットに優れていると注目を集めている食品なのです。

 当店が人情横丁に開店して一年余、若い世代からシニアまで、そばに親しむ女性の増えていることをあらためて教えられました。小千谷そばが健康食品として優れていることを知っておられるのでしょう。

 厳しい残暑から一気に肌寒い秋へ、激しい気候の変動に体が悲鳴をあげている方も多いと思います。当店では、温かいそばを注文される方が目立つようになりました。お昼休みに来店し、体をいたわるようにそばをすする企業戦士の姿に、サラリーマン時代を思い出します。(2010.9.23)


 ▼引用・参考文献 「そばの散歩道」(日本麺類業団体連合会)
             「信州そば事典」(中田敬三 郷土出版社) 



 ⑤ にいがた総おどり

 夏から秋にかけて、本町通りアーケードに面する店の多くがシャッターを下ろすころ、通りの風景は一変します。まばらになった買い物客に代わって整然と並んだ数十人が、踊りの練習に汗を流すのです。
 今日(9月18日)から始まる「にいがた総おどり」に参加する「日向」の一団です。代表の小山政美さんは、人情横丁で「紅茶の店 ひまわり」を経営する、小柄な女性です。2002年のチーム結成当初は、練習に3人しか集まらなかったといいます。それが数カ月でうれしい悲鳴をあげるほど急増したのです。小山さんの踊りの指導がメンバーの心をとらえたからでしょう。新潟中央高校ダンス部の活躍を担った経歴を、小山さんは持っているのです。

 「日向」が結成されるより1年、あるいは2年前でしょうか。小山さんと一度会っていたことを、人情横丁に「あき乃」を出店して数カ月後に思い出しました。人の縁は、本当に不思議です。約10年前、新潟県赤十字血液センターが募集した献血にまつわる「ホッといい話」の応募作を読み、入賞者と会う機会があったのです。最も心を打たれたのが「贈り物」と題する小山さんの手記でした。

 「息子、航が天使になった」と手記は始まります。息子さんを失った悲しみから、小山さんは精神安定剤と睡眠薬を常用する日々を過ごすようになりました。ただ息をするだけの数年間から小山さんを救ったのは、亡き航君との幸せな日々の思い出だったといいます。

 「このままでは、自分が航を産んだことすら否定することになる」と気付いたのです。それだけはできません。最初に取り組んだのは、ぼろぼろになった体を献血ができる健康体に戻すことでした。航君との闘病時代、献血は血液だけでなく、生きる希望、勇気、そして愛を、小山さん母子に与えてくれたのです。
 薬漬けの日々からの卒業を航君の霊に誓ってから1年2カ月後、初めて成分献血ができました。「言葉では表現しがたい感情に涙が流れた」といいます。 「献血のできる健康な体は、航からの大切な贈り物。航との日々を幸せな時と胸を張って語れるよう生きていかねば」。そう誓った小山さんは、踊りのグループ「日向」を結成したのでした。

 今日から始まる「にいがた総おどり」には310団体、1万4000人が参加するそうです。人はみな、胸に秘めた喜びや悲しみをばねに、懸命に生きています。そのエネルギーを爆発させるように、全身を躍動させるのです。新潟の秋空の下、1万数千人が肉体表現を競う姿は圧巻です。(2010.9.18)


 ④ 秋茄子

 秋茄子を褒めて値切るや朝の市(加藤峰子)
 暑い日が続きますが、夜の虫の音、朝夕の風に秋を感じるこのごろです。本町市場の八百屋さんの店先に、紫紺色のつややかな秋茄子が並ぶ季節になりました。
 当店でも、西区鳥原の無農薬菜園で収穫された秋茄子を天ぷらに揚げています。若返り剪定を行った株から元気の良い枝が伸びて、再びたくさんの実をつけ始めたのです。

 秋口に獲れるナスは身がしまっていて、包丁を入れるとすっと裂けます。白い果肉を見ると、思わず生のまま口に入れたい衝動に駆られます。この時季のナスは、えぐみやタネが少なく、一段と風味を増すのです。
 揚げたてのナスの天ぷらを天つゆに浸してほおばります。果肉からあふれ出た、やけどしそうなほど熱い汁と、薄い衣にしみこんだ天つゆの味が口いっぱいに広がります。そばの味の見事な引き立て役でもあります。

 独り占めしたくなるほどおいしいからでしょうか。「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉をよく耳にします。「月さすや嫁にくはさぬ大茄子」は一茶の句ですから、相当昔から言われてきたようです。
 「嫁って、そんなに憎いのかしら」と、姑つとめに苦労していた当方のカミさんが寂しそうにつぶやいたのは、子どもがまだ小さいころでした。
 「いやいや、茄子は体が冷えて毒だから、嫁の身を案じて食べさせないのだよ」「秋茄子は種が少ないから、子種がなくなることを心配して嫁に食べさせないのだよ」。いずれも、江戸時代の文献に出てくる説です。以来、どれほどの嫁さんが、この慰めにも似た説に納得してきたかは分かりません。

 ナスはインド原産だそうです。日本には中国を経て伝わってきたようです。正倉院の古文書にナスの名が出てきます。天平勝宝2(750)年、東大寺大仏開眼供養の2年前です。そんな昔から、「秋茄子は嫁に食わすな」と、言われ続けてきたのでしょうか。(2010.9.10)

 ▼引用・参考文献  「江戸食べもの誌」(興津要 朝日文庫)
               「たべもの歳時記」(平野雅章 文春文庫)
               「食物ことわざ事典」(平野雅章 文春文庫)    


  ③「たれ」「つゆ」論争

 「もりそばが出されると、まず箸の先に数本をたぐり寄せて『たれ』も何もつけず、つるつると風味を確かめる。『おいしい』と、またたれなしでつるつる」。10年以上前になりますが、こんな文章を書いたときのことです。
 「最近たれという風潮があるが、つゆが正しい」との指摘を受けました。日ごろ何気なく「たれ」という言葉を使っていた当方は、あわてて池波正太郎さんら、そば通の文章を確かめました。みな「つゆ」なのです。
 「正しくは『たれ』とはいわず、『つゆ』という。たれは焼肉などに使われる粘体であるのに対して、そばつゆは完全な液体である」と、いう本もありました(「そば打ちの哲学」石川文康 ちくま新書)。石川さんは著名な哲学者で、自他共に認めるそば通です。

 「恥をしのんで、訂正をしなければならないのか」と、あせりました。しかし、会津地方の結婚式などで披露される「そば口上」では何度も「たれ」という言葉が登場します。

 「たれ」は本当に誤りなのか。「たれ」と「つゆ」、両方とも正しいとすればその理由は。悩んだ末に頭に浮かんだのが、長野県の知人でした。日本のそばの歴史の中でもとりわけ大きい位置を占める信州そばの地なら、と電話をかけたのです。
 知人は、元信濃毎日新聞論説委員で食物史の研究家である中田敬三さんを紹介してくれました。

 さすがでした。恐る恐る電話をした当方の疑問を、中田さんは即座に解消してくれたのです。

 「そばの汁はどちらかというと『つゆ』と呼ばれることが多いですね。でも、より歴史のある言葉は『たれ』なんですよ」。
 電話の向こうでそう語った中田さんは、それまでに発表していた「たれ」と「つゆ」という言葉に関する文章のコピーを送ってくれました。その後「物語 信州そば事典」(郷土出版社)という労作にまとめられた研究です。

 「今から350年以上前の寛永20(1643)年に「料理物語という本が出た。日本では最初の本格的料理書といわれる。そば史でいうと、『そば切り』の製法を初めて書いた本である。(略)汁のところには『汁は煮抜き。垂れ味噌がいい』とある」(信州そば事典)。しょうゆが普及していなかった時代、そばは生味噌を水で煎じた汁を垂らして食べたのでしょう。これが語源のようです。

 では垂れ味噌はどのよう作ったのでしょうか。「料理物語」によると、「味噌1升に水3升5合を入れて煎じ、3升ほどになったら袋に入れて垂らす」とあるそうです。
 もうひとつ「煮抜き」は鰹節をだしにする汁です。味噌1升に水3升を入れて垂らした「生垂れ」に鰹を入れて煎じ、こしたものといいます。
 
 江戸で生まれた、鰹節の出汁としょうゆを主体とする汁の前に親しまれていた350年前の「垂れ味噌」「煮抜き」で食べるそばの味。一度試してみたいものです。(2010.9.3)

②ゴーヤの力

 甲子園で史上6校目の春夏連覇へ、破竹の勢いで勝ち進んだ興南高校(那覇市)。一球一打に沸くアルプススタンドで、沖縄の伝統野菜であるゴーヤを手に応援する人の姿が目を引きました。
 南国沖縄では昔から、「ゴーヤを食べれば夏の猛暑に負けない」と言い伝えられてきました。興南ナインの元気の源は、この野菜にあったのでしょうか。
 
 沖縄の人々の長寿の秘密も、ゴーヤにあるのではないかと研究が進められています。本来、日光の強い地域では、人々はたくさんの紫外線を浴びた結果、体内に老化を早める活性酸素が発生しているはずです。肌のシミも「光老化」から発生します。しかし、ゴーヤには、活性酸素を除去してくれる抗酸化物質がたくさん含まれているのです。 
 「ゴーヤは強烈な日差しに耐えて繁殖するために、紫外線に負けない成分を作った。それが、あの鮮やかな色素や苦味に含まれているのでしょう。植物が蓄えた抗酸化成分は、人間の細胞の酸化防止にも役立つはずです」。食文化史研究家の永山久夫さんは、そう考えます。

 独特な苦味は肝臓に優しく、胃腸を整え、食欲を増進する効果があります。さらに、血糖値を下げ、がん細胞を抑制するとの説もあります。
 一本にレモン約1.5個分のビタミンCをはじめとする抗酸化ビタミンがふくまれています。しかも「ゴーヤのビタミンCは加熱しても壊れにくいとされているのです」と、沖縄県はPRします。

 当店も、無農薬栽培されたゴーヤを天ぷらに揚げています。タレカツ丼にも、蓋からはみ出そうなゴーヤ天ぷらを乗せています。動物性食品と組み合わせると、抗酸化力がアップするらしいのです。

 厳しい残暑が続きます。ご家庭でもゴーヤ料理をいかがですか。(2010、8、23)


 ▼引用・参考文献  「長寿村の100歳食」(永山久夫・角川oneテーマ21)
              「おきなわ伝統的農産物データベース」(沖縄県農林水産部流通政策課)


 ①お盆


 民族が大移動するお盆、当店にも何人かの常連さんが、里帰りした子や孫と一緒に来てくれました。はしゃぎながらそばや天ぷらを食べる子どもたちを見つめる祖母や親の穏やかな笑顔が、まぶしく見えました。墓参りでは、先祖をどのように語り継いだのでしょうか。

 今夏、終戦から65年を迎えました。
 おびただしい犠牲者を出した戦争でした。作家・夢野久作さんの長男杉山龍丸さんの終戦直後の体験を思うと、胸が熱くなります。

 杉山さんは、次々と尋ねて来る出征兵士の家族に「戦死しました」と告げる、つらい仕事をしていました。
 ある暑い日、杉山さんの机から頭だけが見えるくらいの少女が立っていました。「あたし、小学校2年生なの。おとうちゃまはフィリピンへ行ったの。家にはおじいちゃまがいるけど病気で寝ているの」。そう言うと、少女は顔中汗をしたたらせながら復員局からの通知を出しました。
 祈る思いで書類をめくった杉山さんの全身に戦慄が走りました。少女の父はルソンのバギオで戦死と記されていたのです。「あなたのお父さんは…」。そう言いかけた杉山さんの唇の動きを、少女は目をいっぱいに開いて見つめています。言葉が続かなくなった杉山さんは、「答えねばならぬ。答えねばならぬ」と自分に言い聞かせ、声を振り絞ったのです。
 「あなたのお父さんは、戦死しておられます」
 
 少女は一瞬わっと泣き出しそうになりました。それを必死にこらえると、「戦死していたら、そのときの状況を書いてもらっておいでと、おじいちゃまに言われたの」と頼んだそうです。

 書類を書き始めた杉山さんの目から大粒の涙がぽたぽたと落ちます。その涙で濡れた封書を受け取った少女は、小さい手でポケットにしまうと、大切そうに腕で押さえたままうなだれました。
 顔をのぞきこむと、下唇を血が出るほどかみしめ、目をかっと見開いて、肩で息をしています。

 「一人で帰れるの」、そう聞いた杉山さんに少女はこっくりうなづいて言いました。「おじいちゃまに泣いてはいけないって言われたの。電車賃をもらって、行けるねって何度も何度も言われたの」。

 体中が熱くなった杉山さんは、少女の手を握ると外まで送りました。その途中、少女は繰り返し境遇を語ったそうです。「あたし、妹が二人いるのよ。お母ちゃまも死んだの。だから、あたしがしっかりしなくてはならないんだって。泣いてはいけないんだって」

 泣くことさえ奪われた悲しみの中で終戦を迎えた少女は、戦後の混乱期をどのように生きたのでしょうか。当時小学二年生の少女が元気なら、70歳代前半のはずです。今年もお盆で集まった子や孫に、戦死した父をはじめ、母や祖父母の思い出を語っていると信じたいのです。(2010、8、18)


 ▼引用・参考文献  「ふたつの悲しみ」(杉山龍丸)
              「夢野久作 迷宮の住人」(鶴見俊輔、リブロポート)
              「可能性としての『戦後』」(桜井哲夫、講談社選書メチエ)