会津八一50話

 新潟市が生んだ歌人で美術史家、さらに、書家、教育者としても知られる会津八一と、その薫陶を受けた人々のエピソードを集めたいと思います。50話と銘打ちましたが、今それだけの話題を持ち合わせているわけではありません。八一を敬愛する知人らの助けを借りながら、続けることができればと思います。



   ③ 山鳩 丹呉協平さん㊤

 1945(昭和20)年4月13日、米軍B29爆撃機の大編隊が東京を襲いました。一面火の海となる中、八一の住む目白の秋艸堂も炎上したのです。「満屋の図書器玩ことごとく灰燼となる」と嘆いた八一が疎開先として頼ったのが、遠縁にあたる旧中条町(新潟県胎内市)の豪農・丹呉家でした。病身の養女キイ子さんを一足先に汽車で向かわせた八一は4月30日、毎日新聞社の飛行機で新潟松ヶ崎飛行場に降り立ちます。
 「みやこべを のがれきたれば ねもごろに しほうちよする ふるさとのはま」。
 故郷の海も山も、八一を限りなく優しく迎えたのでしょう。しかし、新たな悲しみが八一を襲います。キイ子さんの結核が急速に悪化し、7月10日に亡くなるのです。

 八一の生涯でも最も苦難の時代、身近にいたのが丹呉家の息子・協平さん(昭和20年当時33歳)でした。思い出を聞かせてもらうため、旧中条町へ車を走らせたのは1975年の春でした。
 教えられた場所に着いて戸惑いました。「確かこのあたり」と思うところは、広い空き地なのです。通り過ぎて、戻って、その空き地が丹呉家の屋敷であり、目的地だと知りました。

 敷地には、八一が疎開した時代をしのばせる建物の礎石が点々と顔を出していました。あの時代、丹呉家もまた苦難に直面していたのです。
 広大な田畑を農地解放で失い、広さ千数百平方メートルを誇った江戸期の邸宅は昭和24年の火災で焼失しました。以来20数年、丹呉さん家族は敷地の一角に焼け残った土蔵に住んでいたのでした。通された土蔵の中で、奥さんが出してくれたコーヒーのほろ苦さが忘れられません。

 既に高校教師を定年退職していた協平さんは淡々と話し始めました。

 「直接のお付き合いは(私が)早稲田へ行ってからです。体が弱くて、2つ年下の弟より1年遅れて早稲田第一高等学院に入ったのです」「弟と一緒に秋艸堂を訪ねたのが(八一と)話をした最初でしたね」
 玄関に大きな銅鑼が下がっていたそうです。「ガーンと打った。そしたら奥の方から『誰だ』と怒鳴りつける声がして…」。現れた八一の印象は、伝説の通りでした。「胸をはだけて細い帯して、着物が短いからすねが出ていてね。強い近眼鏡の奥から鋭い目をして現れたんです」
 「それから、上がりなさいなんていわれて、書斎に通されて…。その時には最初と違ってとても優しい目つきでいろんな話をしてくれました。説教すると思ったら、そんな話まったくなかった。庭に小鳥が来る話とか、『住み心地がよくて富士が見える、今日はどうか』と庭に下りたり」。
 
 「門人の話を聞くと非常に気が短くて、怒鳴られた人がほとんどなんでしょ。どういうわけか、私、怒鳴られたことなく、会津さんは優しい人といった感じですね。もっとも、門人は学問の上で叱られたんでしょう。私は学者になるわけでないし、行ってようごちそうになりましたわね。あのころ糖尿で豆腐のあんかけを秋艸堂でごちそうになったこともあります」
 「外に出ると、私いつも銀座に連れて行かれましてね、洋食をごちそうになりました。オリンピックなんかよく行きました」
 「海老の料理をごちそうになったのが印象的ですね」。そのとき、協平さんはフォークを誤って落とします。「こんなことを言ってなんだけど」と、八一が遠慮がちにささやいたそうです。「拾うな。(ボーイさんが)持ってくるから」

 協平さんは少し間を置いて言いました。「八一は一切構わない、バンカラの人のように言われていますが、神経の細かい人なんでありませんか。非常にデリケートな人ですね」

  「大体、寂しげな人じゃないですか。本当の芸術は、暗く、孤独の中から生まれるという意味の手紙がありますねかね」

 そんな八一に、協平さんは「先生はなぜ結婚をしないのですか」と聞いたことがありました。「人間男女二人で完全だが、オレは一人で完全だ」と笑いながら答えたといいます。
 孤独な笑いだったのか、おおらかな笑いだったのか。尋ねなかったのが残念です。(2010,12,5)


   ③ 山鳩 丹呉協平さん㊥

 協平さんはお酒が苦手だったといいます。「でも、一口でも飲むと(会津さんは)喜んでくれてねえ」。そんな協平さんを、八一はよく銀座に誘って食事をしたと㊤で書きました。「銀ブラ」の楽しみは、食事だけではなかったようです。

 「骨董屋を回るんです。そこで仏像や古美術品の話をようしてくれました。会津さんの話は講釈ではなくて、実物を持って話される。そうした講義を大学で行うために、自分の給与をつぎこんでいたのですね」

 私財を投じ、数10年かけて収集した美術品の多くは、米軍の空襲で家とともに灰となりました。

 「中条に疎開するについて、父(康平さん)に連絡があったんです。こちらは先生の世話を十分にできない。もとは使用人が十数人いたけれど、戦争で暇を出していたのです。そのことと、食糧事情が非常に悪かったので、配給で生活してもらわなければならないということを、父は説明していました」「先生は、自分を世話する人を連れて行くから心配いらないということでした」

    八一が丹呉邸に着いた日のことを、協平さんは鮮やかに覚えていました。
 「5月の3日ころでした。ちょっとこう雨みたいな日でね、モミジが芽を吹いて、ほんにこう、緑が部屋の中にまで入ってくるような日でありました。新座敷の窓をすーと開けられて『はー、きれいですねえ』と眺めておられた先生の姿が印象的です」

 中条の自然に心を癒されたのは、八一の養女・キイ子さんも同じだったのでしょう。5月6日付の手紙に書いています。「一日中幾回となく出る(空襲)警報下の東京から 松籟のそうそうたる音 山鳩 いかる つぐみ それに夜となく昼となく 蛙の声がし 全く別天地です」

 そんなキイ子さんの体を病魔が蝕んでいました。同じ手紙でつぶやきます。「この澄んだ美しい空気で早く元気になり もりもりと働きたいと思いますが すっかり弱って フトンの上げ下ろしにも幾度も休み休みしてゐるくらいでは それもいつのことでせうか」  

 協平さんは、つらそうに話しました。「キイ子さんは肺結核で、非常に進行していたんですね。医師の話では、開放性で危険、隔離しなければということで、観音堂に移ってもらうことになったんです。会津先生も気にしておられ、早く行きたいといっていました。観音堂には既に疎開者がいたのですが、出てもらって、二人で引っ越されたのが7月3日でした」「住み込みで二人を世話してくれる人をさがしたのですが、家族が兵隊に行っているなどどこも人手不足で見つかりませんでした。観音堂の隣に住んでいる夫婦に日常の世話を頼んだのですが、何かと不自由だったと思います」

 「雨模様なりしをキイ子リヤカーに乗せ、リヤカー7往復にて、観音堂へ引っ越す。日暮れて間に合はず夕食を略す。障子に紙無き室多く、電灯は家中にて1個のみ。キイ子衰弱加わる」と、八一は日記に書いています。

 衰弱する体に耐えて、キイ子さんは筆をとりました。「観音堂前庭は殺風景なるも 東側木立の藪はよろしき 夏も涼しき風入るらし 但し自分には後 幾日の命なりや 甚しく苦しき 手足緑色だちて見ゆ」
 さらに7日の日誌に綴ります。「あまりに苦しき故に 夜明に叔母上 道人を起こしてほうじ茶を飲ましてもらふ 生き返りたる様なり 既に死を覚悟したるも 弱々乍ら脈あり」。

 牛乳が1、2本手に入るとは、キイ子さんに届けていたという協平さんは目をしばたたかせながら語りました。「このあたりは5月から7月にかけて山鳩がしょっちゅうきて鳴くんですよ。デデッポイポイ、デデッポイポイと低くこもった声で寂しげに鳴く鳥ですがね。キイ子さんは、その声を聞きながら満足な手当ても無く病んでいたんですねぇ」

 7月10日、キイ子さんは34年の生涯を閉じました。看病疲れでまどろんでいた八一の方に手を伸ばしたまま事切れていたといいます。(2010.12.20)




  


    ② 南浜の教え子 笠原誠さん㊤

 会津八一は晩年を新潟市中央区の南浜通りで過ごしました。この時代、昭和20年代に八一が会うのを楽しみにしていた高校生がいました。その後、小学校教師となった笠原誠さんです。4年前、新潟県胎内市で開かれた会津八一を語るシンポジウムで、当時の思い出を聞くことができました。

 笠原さんが八一と接するようになったきっかけは、まるで映画の一場面です。級友とキャッチボールをしていて、取り損ねた球が八一の植木鉢に当たり、壊したのです。
 玄関で謝る笠原さんに、八一は「まあ上がれ」と言いました。「やれやれ、家に上げて叱るのか」。重い気持ちの笠原さんに、八一は植木鉢などそっちのけで、矢継ぎ早に話し掛けたそうです。「君はどこの学生だ」「今、どんな勉強をしている」「遊びは、何がはやっている」。

 八一は明治時代に早稲田大学を卒業した後、新潟県上越地方の有恒学舎、東京の早稲田中学と、現在の高校に当たる旧制中学の教師を十数年務めています。自らを「中岳先生」と名乗ったゆえんです。若かった教師時代を、笠原さんに接して思い出したのでしょう。

 以来、八一は笠原さんを見かけるとは家に招き入れるのです。若者の前では、好奇心の旺盛な老人だったようです。
 笠原さんが友人と、新潟で行われたプロ野球の試合の話をしているところに割って入ったこともありました。「僕も見てきたよ。前半は投手戦、後半は打撃戦だったな」「会津先生は野球が分かるのですか」「馬鹿にしちゃいけない。僕は早稲田だよ」。

 「いま上映している映画で、面白いのは何だ」と、聞くこともたびたびでした。どの映画を見るか、新聞や雑誌の映画評だけでなく、高校生の視点も参考にしていたのでしょう。
 「笠置シズ子は映画に出ていないか」と、よく聞いたそうです。彼女が大好きで、出演した映画を見てくると「大きな口を開けて歌っておったぞ」と上機嫌なのです。

 戦前、笠置シズ子はパワフルに踊り歌う姿が「時局にふさわしくない」と当局ににらまれました。丸の内劇場への出演を禁じられたり、マイクの周辺1メートル以内で歌うことを強要されたりと、つらい時代を過ごしたといいます。

 そんな彼女が、敗戦で打ちひしがれていた日本中をうきうきさせる「東京ブギウギ」を大ヒットさせたのです。大恋愛の末に子どもを身ごもりながら恋人が急死、彼女は一時引退を考えました。再起させようと服部良一さんが作曲したのが「東京ブギウギ」でした。
 終戦直後の混乱期、乳飲み子を抱えて頑張る彼女の姿は、境遇こそ違え苦境に耐える多くの人々を励まし続けました。子どもを育てるため、生きるため、やむなく「夜の女」となった人たちも大勢、彼女の後援会に入ったといいます。
 「放浪記」で知られる作家・林芙美子も彼女の熱烈なファンで、原稿の執筆に行き詰まると「ブギの女王」のステージを見に出かけたそうです。
 八一は、笠置シズ子のどんなところにひかれたのでしょうか。(2010.10.8)



  ② 南浜の教え子 笠原誠さん㊥


 高校生の笠原誠さんと親しく言葉を交わすようになった八一がある日、「君の学校へ講演にいくぞ」と言ったそうです。「やめたほうがいいでしょう」「なぜだ」「天野貞祐さん(京都大学名誉教授)の講演では、やじが大変だったのです」
 その後、帰宅した笠原さんを八一の養女・蘭子さんがたずねてきました。講演を企画した教師に手紙を渡してほしいといいます。断りの手紙ということは、すぐに分かりました。笠原さんは、深く考えずに話したことが重大な結果を招いたことに気づいたのです。

 天野さんは「戦争に負けると、初めから知っていた」と語ってやじられたと、笠原さんは振り返ります。敗戦から日が浅く、新潟高校には予科練などから復学した学生がいました。みな、祖国の勝利のために、教えられた通り死ぬ覚悟だったのです。「負けると知っていたなら、なぜ軍部に抗議しなかったのか」。激高した声が次々とあがり、天野さんは立ち往生したそうです。

 著名な哲学者で教育者でもある天野さんは戦前、著書で軍部を批判していると糾弾を受け、絶版に追い込まれたことがあります。その後も、時代に警鐘を鳴らしたといわれます。
 高校生たちが天野さんの戦前戦中の行動をどこまで検証して抗議したのかは分かりません。また、笠原さんが、ヤジの詳しい事情をどれだけ八一に伝えることができたのかも分かりません。ただ、八一の断りの手紙にため息をつく教師に「私がやめろといった」とは、怖くて口にできなかったといいます。

 責任を感じた笠原さんは、学校から帰ると八一をたずねました。「講演会のことで、つまらないことを言ってすみませんでした」。その瞬間、八一の大声が耳に響きました。「なぜ謝る。君はいいことをしたのだろう。この僕がそんな目に遭わないよう知らせてくれたのだろう。謝ってはいけない」
 強い口調に笠原さんは一層、身を小さくしました。慰めるように、八一は言ったそうです。「このままでは君の立場が悪かろう。希望者だけ集めて話をするよ」。声の優しさが、笠原さんの心に染みました。講演会は後日、図書館で行われました。

 笠原さんは他にも八一のエピソードを聞かせてくれました。そのたびに八一の厳しさの奥にある優しさ、温かさを強調していたのが印象的でした。
 
 「八一は多くの人を叱ったという。しかし『謝るな』と言って叱られたのは私だけだと思います」。笠原さんはそう随筆に書いています。「謝るな」の大きな声。その深い意味を、当方もかみしめる日々です。(2010.10.8)



  ② 南浜の教え子 笠原誠さん㊦

 二人の交流は、笠原さんが高校を卒業し、新潟大学へ進んでからも続きました。教師に採用されたと報告に訪れたときのことです。「そうか、お前も先生になるか」と喜んだ八一の、はなむけの言葉は厳しいものでした。「ほめることよりも、叱ることのほうが大事だぞ。叱れ」

 「すごく怖いことをおっしゃるなと思いながら、よく意味が分からなかったのです。でも、5年、10年と教員を続けるうちに、叱るべきところ、ほめるべきところの要所要所を押さえることがいかに大切か痛感するようになりました。人間を育てるために、そのわずかな瞬間を逃してはいけないと、私も後輩に語るようになりました」

 シンポジュウムで笠原さんに聞いてみました。
 「先生も会津八一のように生徒に接したのですか」
 「うーん」という顔をして一呼吸した笠原さんは、少し照れながら答えました。
 「「私は人を怒ることなどあまりできませんので、絶えずにこにこして暮らしていました」。「そうだろうなぁ」と聞いた人をうなずかせる、穏やかな語り口です。だからこそ、笠原さんがまれに生徒を叱ったときは、さぞ怖かったろうと思うのです。

 笠原さんが校長時代の思い出を綴った随筆に「心のリボン」があります。20年近く前、新聞や単行本に紹介されて感動の輪を広げた文章です。
 昭和60年、笠原さんは村上市の山辺里小学校長に着任しました。校長になって初めての学校です。「失敗があってはいけない」と、あいさつは常に下書きを用意したそうです。
 
 着任から間もなく開かれた春の運動会の開会と閉会のあいさつは特に念入りに準備しました。開会のあいさつは原稿どおり、さて閉会式です。台に上った笠原さんは生徒を見渡しました。
 入賞した子どもの胸についているリボンが目に入ります。1等は青、2等は黄、3等は赤。一人で3つも胸に付けている子もいます。でも一番多いのは、何も付けていない子どもたちなのです。

 リボンのない子をじっと見つめた笠原さんの頭から、用意していたあいさつ文が消えました。代わって、心の奥からわいてくる言葉を口にしていました。
 「リボンを3つ、胸に付けている人は手をあげなさい。はい、この人たちは大変頑張りました。その場所にしゃがみなさい」
 「リボンを2つ付けている人は手をあげなさい。次に頑張った人たちです。しゃがみなさい」 
 拍手をしながら、父母はこの先が心配になったそうです。「リボンのない子だけが残るのではないか」と。
 笠原さんは続けました。「次に、リボンを1つ付けている人は手をあげなさい。この人たちも頑張りました。しゃがみなさい」

 リボンを付けている子はみなしゃがみました。立っているのはリボンのない子だけです。じっと校長先生を見つめています。笠原さんは声に力を入れました。

 「残った人たちは一生懸命やったけれど、もうちょっとのところでリボンがもらえなかった人たちです。頑張ったことをほめて、校長先生が心のリボンをあげます。さあ投げますから、しっかり受け取って胸に付けるんですよ」

 笠原さんが大きなモーションでリボンを生徒に投げる動作をしたその瞬間です。立っていた子どもたちが一斉に手を天に伸ばし、飛び上がり、目には見えない空中のリボンをつかむ動作をすると、大切そうに胸に付けたのでした。父母の間から、ひときわ大きな拍手があがったそうです。
 
 「本当に大切なものは目に見えないんだよ」という、サン・テグジュペリの名作「星の王子さま」の言葉を思い出します。
 あのとき、五月晴れの空いっぱいに手を広げた子どもたちは、笠原さんが渡そうとした目に見えない本当に大切なものを、しっかりとつかみ取ったのでしょう。

 厳しさの奥に温かさ、優しさがあったという会津八一。「私は人を怒ることがあまりできない」という笠原さんの笑顔。二人の心に響きあったものが何か、少し分かるような気がします。(2010・10・11) 


  ▼参考・引用文献  「この人この歌」(斎藤茂 廣済堂出版)
               「心のリボン」(笠原誠 Q書房)
               「Wikipedia 天野貞祐」
               「Wikipedia 笠置シズ子」



   ① 家来 木村秋雨さん㊤

 人はその気になれば、大概の人に会うことができます。たとえ、直接話を伺うことはできなくても、遠くから仕事ぶりを見たり、講演を聴いたりして、人格の謦咳に接することはできます。でも、どうしても会うことができない人がいます。亡くなった人です。活字や写真の世界でしか知らない会津八一をもっと身近に感じたい。そんな思いで、八一と親交のあった人々を訪ね歩き始めたのは1975年、20歳代のときでした。その一人、八一の弟子ならぬ「家来」を自称する禅僧・木村秋雨さんは当時70歳でした。

 新潟県上越市に木村さんを訪ねたのは、まだ雪の残る季節でした。土間に入って、茶色に変色し、所々破れた障子戸をごとりと開けると、目の前は一面本の山。時代を経た部屋の柱は本の重みのせいか傾き、天井から垂れるすすが隙間から吹き込む風に揺れています。

 越後俳諧史の研究をライフワークとしていた木村さんは裸電球の下で、幾重にも綿入れの着物を着て火鉢の炭火で寒さをしのいでいました。足の踏み場もないほど本に埋まった部屋の中を、木村さんの前までたどり着くのが大変でした。なんとか当方の座る空間を確保して、まずは木村さんの生い立ちについて聞きました。

 「明治39年生まれ」「生家は庄屋」。答えはじめた木村さんは、途中で面倒そうに言いました。「ああ、あれ見せればいいわ…。堀口さんの…序文だわね。今度の」。「今度の」とは、木村さんの文章を知人らがまとめて1975年に出版した「越後文芸史話」(ほくえつ選書)を指します。序文を書いた「堀口さん」は、文化勲章を受章した詩人の堀口大学です。

 「俺の経歴くらい調べて来い」と、当方の勉強不足を指摘したかったのかもしれません。しかし、すべてを木村さんの口から直接聞きたいのです。粘っていると「どうもごめんください」と、新たな客が入ってきました。
 先客がいるのを知って「すぐ帰るわ」と遠慮する男性を、木村さんは引き止めるのです。「おうおまんか(といいながら当方を見て)いいのさ」「見舞いに来たかね。あがれて」「なんにせ…(と言いながら、本で埋まった部屋を見渡して)そのへん、ちとあがってくれ」「血圧らすけ病気でねえこてさ」「右手きかんのさ。それが、鍼でようなった」。

 話は延々と続きます。じっと待って、ようやく当方とのインタビューが再開された後も、話は年代も含めてあちこちに飛び、時には大幅に脱線し、はぐらかされます。

 しかし35年後の今、メモを読み返すと、そんな木村さんの語り口にとても味があるのです。極力手を加えずに、メモを起こしたいと思います。年代などに若干の思い違いがあると思われる箇所もありますがそのまま掲載します。

 「あれはね大正15年のね、ちょっと数えてみてくれ、(俺)幾つになる。12月28日ごろ、ああ会津さんの家だこてね、俺は行ったんだ。下落合(東京)の市島春城の別荘(に八一は住んでいた)、そこんとこへ行ってね、へへへ」。思い出し笑いをしながら火鉢の団子を裏返して、「動機は、ない。俺は神様の次に偉いと思っているんだ。昔から」と、とぼけます。

 でもすぐ真顔になって、動機を語ってくれました。「(大正)13年に(会津八一の第一歌集)南京新唱を読んだ。出たときだ。18、9(歳の時とき)でねえかな。初めっから2版だった。ああ、八一、八一、読んだなんてもんでねえわね。初版てね、あれは2版が初版なんだ。面白い本だれね」

 「ハーア、それが…本、苦心惨憺して買った。本の広告に歌が2つ、3つあった。その時分、(木村さんが在籍した)有恒学舎(現・県立有恒高校)の先生も知らねえんだ」
 「さーて、1円80銭かな。あの本。どんな人だろう。いっぺん会ってみてえな。こんな歌つくる人。背中ぞっと寒くなる。歌のよさなんてろくに分からねろも、とにかくたまげた。だろも中学3年や4年が行くわけにはゆかんわね」

 「俺、歌、子どものころから好きだった。だーろも、ちーとも歌うたいになれんろも」。しみじみ述懐を始めたと思ったら「おまえんとこの○○○○(とある人の固有名詞を挙げ)大有名。必ず(歌壇の)選に入って新潟日報に出ているねけ」と脱線して、愉快そうにクックと笑う。話を元に戻すのにどれくらい時間を要したでしょうか。

 「調べると(会津八一は)オラ学校の先生したという。それならと舎主先生(増村朴斎)のとこ行って…。成績悪いすけ行かんねろも、そういうとこ、オラ行った」。木村さん、旧制中学の有恒学舎に5年在籍したが、卒業していません。

 「会津先生のとこ行きてすけ、紹介状書いてくんねけ。その時、八一の書いたのをくれ、名刺に紹介状書いてくれた。コホン、コホン」
 「それ持って、東京へ行った。うーん、俺卒業してねんだ。5年。もう1年いれば言うたろも、笑止でね」「それでも、増村さんね、スススと紹介状書いてくれた」
 「いごいごと思っても場所分からんもんね。住所は分かってもね」

 「12月25日か7日ころだ。そのとき初めて行った。羊羹持って行った」。心から楽しそうに振り返る。声が躍っていました。その声が、急に低い、凄みのある声に変わったのです。
 「こんなの持ってこんでいい!。せっかくだすけ、そこ置いてけ!。俺は天下の会津だぞ。天下の会津はな、貴様らのようなのに会う会津じゃない!。まあ上がれ。貴様は増村先生の名刺を持って来たから会ってやる、と、こう言うんだね。エライ話さ」。炭を火箸でいじりながら、またクックッと笑うのです。

 回顧談はようやく八一と木村さんの出会いの場面に入りました。二人はどんな対話をしたのでしょう。木村さんは言います。「会津さんは増村先生をほめて言うんだ。『貴様幸せだぞ』って。オラ(増村先生を)偉いと思てねし、幸せらろかね。ナーも面白くね」。
 「ほかにどんな話を?」とせついたら、あっさりとかわされました。「それで、その話は終わりさ。そのまま帰ったんだ」(2010、9、8)


     「家来 木村秋雨さん」㊥

  あんなに感銘を受けた歌集の作者との面談がかなったのに、増村舎主の話だけで帰るなんて信じられません。それに、初めて会った八一の印象はどうだったのでしょうか。
 木村さんはその後、是非自分を飯炊きにと、八一に頼んでいるのです。若い青年をそこまで惹きつけた理由を聞こうとしましたが、無駄でした。「木村老人、自分の感情を言葉にすることを好まない。言葉になる前の感動を大切にする人だ」と、当時のメモにあります。ひとまず話を前に進めようと、八一と会ってから後のことを聞きました。

 「それからね、行くとこねえんだ。あのころ仕事ねかったんだ。警察の前通ったら募集の看板が。あのころね、入られねんだれ、巡査に。そん時だけ俺、成績いかったんだね。ウッフッフ」「それで、駐在が来た。オラの親父ぶったまげたわね。なんか悪いことしたかとね」
 話の流れから、どうやら警察官の採用試験に合格したのだなと思っている当方を前に、木村さんはキセルに刻みタバコを詰め、火鉢の火に近づけます。おいしそうに一服すると、「俺も困ったね。冗談で受けたんだ。しかし、おっかなくてね。そのときハンコ押したんが、5年誓約のハンコなんね」
 
 どんなお巡りさんだったのでしょう。木村さんと交友のあった堀口大学が書いています。「主として長岡の町はずれ、宮内の派出所勤務だったが、ただの一件の検挙も、一人の逮捕もしなかったとかで、久しく土地の語り草になっていたという」
 そんな評判に木村さんは言うのです。「オラァなーも勉強してねすけ(法を犯した人を)叱るだけの根拠知らんろ」

 煙に巻かれているようで、相槌を打つのに困っている当方に同情したのか、木村さんは話題を八一の第一印象に戻してくれました。
 「会津さんの第一印象ねぇ。なんとも言うてみようもねえこて。鬼みたいな人らった。ばくち打ちみてらこてね、格好は。変わっている人だと思うこてね。親分みてらもん。学校の先生なんて格好じゃねえもの。南京新唱書く人かや。信じられんみたいだて。それが、最初のときと、(戦後)新潟に来たときの風貌は違ったね。偉くなったんらこてね。最初に会ったころは元気で、道端に石落ちていれば蹴飛ばして歩くくらいだもの」

 さて、5年間の巡査勤めを終えた木村さんは各地を放浪します。そのころでしょうか。「会津さんのところに飯炊きに置いてくれと頼んだら、いらんという。(身の回りの手伝いは)一人いればいいと」。
 「それで雲洞庵(新潟県魚沼地方にある曹洞宗の寺)に行った。昔から坊主が好きらった」。禅僧となった木村さんに、八一から連絡が入ります。

 「(それまで八一の身の回りの世話をしていた)中山しまが嫁に行って、それで飯炊きがいるようになった。お前、先年飯炊きに来るといったがまだやる気あるか、というので早速行った。30(歳)ころかな」。木村さんに、八一は言ったそうです。「オラ、どんなにごうぎな、ごっつおう(ご馳走)食わせてもちっともたまげねえ。どんなにごっつおうなくてもいい。少々腐っててもいい。そうかといって、オレ豚じゃないんだぞって。何でもとにかく威張る人らったね」

 「足掛け2年くらいいた。洗濯までした。そりゃ楽しいこてね。家来らすけね。弟子なんかじゃない。家来はいい。弟子だとね、本読め、本読め言われるすけね。隣の部屋で話を聞いてる。あ、この話おととい聞いた話だな。オラそらんじてしまう。覚えるの得意らったからね」

 「あの人ね、サトイモの味噌汁大好き。味噌汁にサトイモ入れてれば怒らん。ぬるぬるしてないと機嫌悪い。夕飯はネギにマグロのネギマが好きなんだね。こわめしも好き。酒は好き」
 「俺は流しで食う。会津さんの分は持っていく。番をしなくていい。『味噌汁冷めますよ』なんて言うと『余計なこと言うな!』だもんね。『どこそこ行って飯買って来い』『はいはい』『3人前買って来い』『3人前?何すんです』『オレ2人前、オレ2人前』。こんなこと書いてないね、本には。これはやっぱ、そばにいたのでないと分からんね」(2010.9.9)


        「家来 木村秋雨さん」㊦

 「それでさ、おめさん、足袋の後ろも留めねでさ、杖持ってさ、今みたいに車ねっけいいけどさ、知らん人が見たら気でも違がうと思うけどね。『おめも、散歩についてこい』と言われればさ」。 さすがの木村さんも、戸惑ったのでしょうか。
 「越後文芸史話」で回顧しています。「『先生、コハゼが外れています』なんて言うと『わかっている。おれはかかとが冷たくないんだ。冷たいのは爪先なんだから余計なこというな』って叱られる」

 散歩をしながら、八一は詩を高らかに吟じるのです。
 いつも難しい顔をしていたと思われがちな八一ですが、時折「縁かいな」という俗謡も口にしたそうです。「夏の涼みは両国で 出船入船屋形船 上る流星星くだり 玉屋が取り持つ縁かいな」。朝、八一の寝室からこんな歌声が流れてくると、「今日の先生は機嫌がいいな。昨晩の原稿がきっとうまく書けたんだな」と、木村さんの心も弾むのです。

 八一が住む秋艸堂には、多くの学生が訪ねてきました。「小杉一雄(小杉放菴の長男)と加藤諄、この二人が一番いっぱい会津さんのところへ来ていた。会津さんもかわいがっていたよ。この二人はいつ来てもいいんだ。他は面会日が決まっている。会津さんのことを書かんのもこの二人だね。一番書いている人を(おら)知らん」。
 小杉さんと加藤さんはともに八一の衣鉢を継ぎ、早稲田大学の名誉教授になりました。あまり八一のことを書かない。そのことで木村さんは二人の愛弟子に一目を置いているようでした。
 木村さんは言うのです。「本当の会津さんを書いている人は一人もいない。そりゃあ一人ひとりの思う会津さんは違うだろうけどさ。おれの思っているような会津さんを書いた人は一人もいない。じゃあおめえそれ書いてみろと言われても書けない。表してみようがないんだもの」。

 木村さんに、八一の有名な「怒り」について聞いてみました。木村さんの目が真剣になりました。
 「会津さん本当に偉いんだもんね。言われればその通り。理屈に合っているんだ。ただ怒っているんじゃない。今考えてもぞっとするね」
 そして、懸命に言葉を捜すように続けるのです。
 「言うてみようがない。いわく言い難い。足が偉いわけでもなく、手が偉いわけでもない。美人は目、口でなく、顔全体で美人だし…」「人間として偉い。学問でもはかり知れず、人格も。あれで情もある。金のない学生には『おれは銭ねえすけ、これ持っていけ』と書いてやる。頼んだ人には書かず、学生には書いて、どこそこに持っていけとやたらにしていた。ずいぶん学生のために、学問、大学のために私財を投じた。好きな趣味のためよりは、自分の教室のために(古美術品を)買い集めた。偉い人なんだね」

 「ハーア」とため息をついてお茶を飲み干すと、しんみりした木村さんの目が再びいたずらっぽく光りました。「おれ、血圧の薬飲んだろか。飲まんかったかなあ。飲んだような気もするなあ」。血圧から八一へ、軌道修正するのが大変でした。

 木村さんは八一から「学規」を書いてもらっています。八一の人生訓ともいわれる四カ条です。「これだけは、やたらに書いてくれないんだ」と自慢する木村さん。「ほら」と八一が渡した学規を急いでしまおうとしたそうです。「そしたら、『貴様にくれたもん、またおれにくれなんて言わんわ』という。その次にくれた書をせきこんで片付けないで、知らん顔していたら『いらんのか』という。ここんとこが難しいんだよね」。学規を見ながら、懐かしそうに笑います。

 「学規」を書いてくれた八一は、木村さんに何を伝えたのか、聞いてみました。木村さんは独特の煙幕を張りながら答えるのです。「会津さんは何にも教えない人だ。歌を作ると直してくれたりはしたが、言うんだ。『おめえは人の学問のまねをしても何にもならん。おめえはおめえの学問をやれ』って」
 木村青年の「自分探し」は、八一の許でも終わらなかったのでしょうか。少し時間を置いて言いました。「おれ会津さんに字が上手だとほめられたな。『われ、今の若いものにしてはうまい字書くな。おめえなあ、人に書いてくれと頼まれたらどんどん書いてやれ。人の紙で練習するならもうけもんだ。あんな、字は度胸よく書くんだ』」

 そんな木村さんの「家来」生活は、新しく高橋きい子さんが八一の身の回りの世話に来るようになったため、約一年間で終わりました。 その後再び各地を放浪し、吉井勇など多くの文人を訪ねたそうです。戦時中は、京都の大原で代用教員を務めた木村さんは、戦後、新潟市に転居した八一を訪ねています。「おらが奉公したときとはまるで別人。大成なさったんだね。『おお木村か、新潟に珍しい蕎麦屋があるから食わせるぞ』って自慢して、山文という蕎麦屋に連れて行ってくれたね。話?なにもしてない。世間話だけさ」

 そのころからでしょうか。木村さんは越後俳諧史と良寛の文献収集に一段と力を入れるようになります。多くの人が出版を待ち望んでいました。堀口大学が書いています。「俳諧と良寛研究が一生の仕事だと言っておられ、広い家中いっぱいの書籍に埋もれて暮らしていられるが、内に蔵すること専らで、仲仲にその片鱗だに示そうとされないのが君を知る人々の久しい憾(うら)みであった」

 当方も遠慮なく木村さんの業績を尋ねました。「おれ、処世訓ねえんだ。しようと思うことは50年しているけれど、成果が上がらない。越後の俳諧史を自分の仕事にしたい。ちっとも進まんが…。ちっとぐらい進んでも文句にならん。手八丁、口八丁だけど」。「雑学ってのは、だめだなあ。田んぼには稲ができるけど。そして供出すれば世のためになるけれど」

 ふと話題が八一に戻りました。「会津八一、懐かしい人だよ。きつーい人だけど。思い出すなあ。おれ八一の位牌に、毎日(お経を)よんでいるんだ」
 禅僧の木村さんも、生涯独身でした。
 「会津さんはそれでも恋人はあったらしいけど、おれ恋人もなかったわね」。八一の恋人とは、女子美術学校の画学生だった渡辺文子さんを指すのでしょう。鏑木清方の美人画に描かれ、長谷川時雨の「美人伝」にとりあげられるほど美しい女性でした。八一の恋は破れます。
 「いろいろと、50(歳)になってからも援助しなさってたよ。相談にものっていた。会津さんはしかし、そんな話があったからちょっぴり花は咲きかけたけれど、おらそんなこともない」

 木村さんが自分自身を語ることが多くなりました。お邪魔してからずいぶん時間が過ぎていました。「一人ってのはいいもんだ。気楽だし、何しても文句言われない。病気ってのはこれもいいもんだ。みんな人がしてくれる。おれ家来がいっぱいいるんだ。弟子はいねども。鶏の餌くれる家来、植木に水くれる家来、薬を届けに来る家来もいる」

 「おまん腹減ったろ」。そう言ってサンドイッチを出した木村さんは、当方が腰を上げようとすると、引き止めるように八一の話に戻ります。「会津さんはどう言うてみようもない。きっと書簡に秘密(の鍵)があるんだ。会津さんも良寛も気位が高い。心は貴族だね。あとはみんなげすだがね…。食べなさい、なもごっつおねえけど」

 それから7年後の昭和57年、長期入院していた木村さんは9000点を超える貴重な資料を新潟県糸魚川市に寄贈し、63年に81歳で亡くなりました。
 没後20年を迎えた一昨年から昨年にかけて、糸魚川歴史民俗資料館で「木村秋雨没後20年展」が開かれました。木村さんが生涯をかけて収集した連歌、俳諧関連資料は、全国の研究者から注目されているそうです。(2010.9.21)