聞き書き、人情横丁

 人情横丁商店街の協同組合は、2011年に創設60周年を迎えます。「歴史は」と組合事務局を尋ねましたが、「資料は乏しいのです」とのことでした。でも市場とともに生きてきた人々の記憶には、しっかりと刻まれているはずです。そんな思いで、メモ帳を片手に街を歩き始めました。

 人情横丁の正式名称は本町中央市場商店街といいます。終戦直後の混乱時代、新潟庶民の台所としての歴史を持つこの界隈におびただしい露店が並びました。戦争で夫を亡くした女性や、財産を失った夫婦らが生きていくために、そして子供を育てるために、足を棒にして魚や野菜を仕入れ、市民に提供したのです。

 世の中が少し落ち着いてきたころでしょうか。商店街協同組合のホームページによると、保健所から「魚を露天で扱うのは、衛生上好ましくない」との指導を受けたそうです。そこで、市が埋めた新津屋小路の堀跡に露店主らが金を出し合い、細長い棟割の共同店舗を建てたのです。店舗は一区画4畳半。84店が入ったといいます。協同組合は1951(昭和26)年10月に創設されました。

 80以上の露天商を組織化したのです。業者の中に、さぞ人望のあるまとめ役がいたのでしょう。埋立地の使用、建設資金の確保や微妙な利害関係の調整など、たくさんの難題に直面したことと思います。地方政治家、行政担当者の尽力も大きかったはずです。国の施策の後押しもあったかもしれません。掘り起こしていきたいテーマが次々と浮かんできます。(2010.8.1) 

 

 

 

 

 

 本欄スタートから約4年、 2014年の年頭を迎え、人情横丁の一角にある浦安橋の遺構が語りかける声に耳を澄ませたいと思い、下記のタイトルで雑文を書き始めました。 

                                           (2014・1・4)

 

 

 

 

                       浦安橋よ語れ

       にいがた町 元和3年の都市計画

         400年目の試練

 

 このページは、新しいブログ 「浦安橋よ語れ」に移しました。なお2011年以前の原稿が消えていますが、なんとか復旧したいと思っています。                                                                                         (2014・1・4)        

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ⑥人情横丁組合の事務所前に、貴重な橋の一部と思われる遺構が現存していました。 

 

 魚の浜焼きに雪が吹き付け、海産物店の軒先には鮭の塩引きが寒風に揺れています。八百屋さんの軒先には切り干し大根のすだれ下がり、間口一間半の鰹節屋さんの店先には、「赤いダイヤ」と呼ぶにふさわしい吟味した小豆が並んでいます。

 

 人情横丁恒例の歳末風景ですが、今年は例年よりも少し新しいお客さんの姿が目に付く気がします。カメラ片手に店をのぞき、切り干し大根について興味深そうに話を聞いてシャッターを切る。そんな若いカップルも見かけました。

 創立60周年が多くのメディアに報じられ、スタンプラリーが紹介されたおかげでしょうか。

 

 大和新潟店の撤退など、新潟の街中の衰退に歯止めがかからない中で頑張っている商店街を応援したい。一緒に盛り上げていきたい。そんな地元メディアの人々の熱意に励まされる60周年でもありました。

 特筆したいのはある記者の質問です。「人情横丁商店街は終戦直後に堀を埋めてそのあとに建ったそうですが、かつて堀だったことをしのばせるものは残っていますか」

 

 「さあ…」と年配の組合役員が首を傾げる中で、「にいがた石山」で三代目修行中の幸一さんが言ったそうです。「子供のころ組合事務所の前にあるコンクリート製の柱に上って遊んだ。あれが昔の橋の一部だと聞いたことがある」

 見に行くと確かに2つ建っていました。今はフェンスに囲まれほとんど目にとめる人もいませんが、がっちりとした立派な造りです。驚いた役員たちはちょっと不安になりました。小さな堀に架かっていた橋の一部にしてはあまりにも堂々としているのです。「当時どんな橋が架かっていたのか」。新潟市歴史文化課を尋ねた「にいがた石山」」の石山イチ子さんと「台湾茶 PURE OOLONG」の北川さんは、昭和初年の新潟新聞の記事に出合いました。

 

 「架橋成って盛大な開通式」との見出しと、渡り初めの写真が目を引きます。記事が伝える橋の位置は、東北電力新潟支店とイトーヨーカドー丸大新潟店に挟まれた人情横丁商店街組合の事務所前なのです。名前は浦安橋。「地元の寄付金と市費を合わせ金3千円で鉄筋コンクリートに改築がなった」とあります。

 

 界隈が名実ともに新潟市民の台所だった時代、浦安橋完成に寄せる地元の喜びと期待はとても大きかったようです。開通式には新潟市長、市議会議長にまじって八木朋直氏の姿もありました。

 初代萬代橋の実現に尽力した人が八木朋直氏です(万代橋は昭和初年に、内務省技師らの指導によって永久橋に架け替えられ、天下の名橋として国の重要文化財に指定されています)。1886(明治19)年、旧新潟町と沼垂町を初めて橋で結び新潟発展の礎を築いた八木氏が、浦安橋完成を祝して詠んだ歌を、新潟新聞は紹介しています。

 

 「幅広くうへ平かに架け替はり車馬の往き来もうら安の橋」

 

 遺構は、記事が伝える橋の一部なのでしょうか。石山さんは「堀を埋めるために撤去するときに、あまりに丈夫なため一部を残した」という、古老の話を聞いたといいます。

 「橋の遺構でほぼ間違いなさそうだ」と思いながら、夢は先走ります。八木氏の歌を入れた案内板を、今も残る遺構の隣に建てたい。そんな思いが募るのです。

 

 八千八川と呼ばれ、市内を縦横に堀が流れていた水都新潟。たくさんの橋がかつては架かっていたはずですが、それらを今に伝える遺構を私たちはあまり目にすることがありません。

 記憶を失った都市は無味乾燥なものになります。都市の魅力、競争力のバロメーターともなる風格や活力、そしてそこに生きる人々の都市に寄せる愛着や誇りを希薄なものにします。

 人情横丁に残る遺構は小さなものです。でもこの存在を知って、ちょっぴり興奮している組合員が少なくないのです。

 

 日本最長の信濃川が運んだ土砂が生んだ新潟の大地。近郊の農村で収穫された野菜は舟に乗って信濃川を下り現在の人情横丁の下を流れていた堀に入り、新潟の人々の食卓に届けられたのです。「水と土」に生かされてきた新潟の記憶を伝える。その1つに、この遺構がなれたら素晴らしい。そんな組合員個々の思いが実を結ぶことを祈っています。(2011、12、20)

 

 <注> この稿。さらに詳しい裏付けが取れ次第、報告します。歩みはゆっくりですが、人情横丁の歴史発掘の動きも、60周年が生んだ果実の1つです。

 

 「人情横丁に残る遺構は、やはり浦安橋の一部に違いないようです」。「あき乃」のホームページで「聞き書き人情横丁」を読んだ方から連絡があったのは数か月前でした。

  その方は、根拠として写真のコピーを持ってきました。図書館で、かつて新潟市で発行されていた新聞をいろいろ調べたそうです。そして、当時の「新潟毎日新聞」に、今も残る遺構とそっくりの石造物の写真を見つけたといいます。確かに、コピーには石柱に刻まれた数本の横溝がくっきりと映っています。

  コピーは、しばらく前から遺構のすぐ近くの笠原豆店さんに掲示されていました。それに目をとめたBSNの記者が新潟毎日新聞に掲載されている写真を見つけた方を訪ねて、詳しく話を聞いた帰ったそうです。奇遇でしょうか、その方は、当方の自宅の隣に住んでいる方なのです。

 その方から、コピーの写真は明日20日夜のBSNテレビで放映されると聞きました。興味のある方、ぜひチャンネルを合わせてみてください。

 最近、新潟の街歩きを楽しんでいるグループの方々が、浦安橋の遺構を眺め、歴史に詳しい方から説明を聞き、写真を撮っている姿を見かけるようになりました。そんな姿が、これからもっと増えるのではないかと、期待しています。(2012、6、19)

 

 

 

 

 ⑤佐藤かつぶし(鰹節)店・佐藤キヨさんの96年

 

 2011年10月、人情横丁の商店街組合は創設60年を迎えました。記念の祝賀会でひときわ輝いていたのが参加者中最高齢の佐藤キヨさんの笑顔でした。96歳。大正、昭和、平成にまたがる約一世紀の風雪を生き抜いてきたキヨさんは、生涯の大半を人情横丁界隈で働いてきました。

 

 「聞き書き人情横丁⑤」は、娘さんに店を任せた今もしばしば店に顔を出すキヨさんの回顧談です。長い話ですので、しばらくは書きかけの状態が続きます。まずお話を伺った順に書き始めます。途中で重複する部分や話が前後する部分を再構成することになると思います。また、キヨさんの記憶を再確認し、何度か修正が入ることをお許しください。時代背景等も適宜加筆します(2011、11、20)

 

 ▼卸小売の家に生まれる

 

 「私は大正4(1915)年3月8日生まれです。生家は豊照小学校の近くでした。こんぴら通り、こんぴら館、映画館の近くでした。 三代続いた青物と果物の卸小売りの家に生まれたの。7人兄弟です」

 

 「古町には大竹座、こんぴら通りにはこんぴら館としろうとの芝居をするみたいな小さな劇場がありましたよ」 

 

 「私が13歳のときに腸チフスが流行して、父が感染したんです。(法定伝染病患者を隔離して治療する)避病院に入れなければならないんだけれど、母が『殺しにやるようなもんだ。家で看病する』と言って、聞かなかったんです」

 

 「医師だった母の弟が往診してくれましたが、そのうちに兄に感染しました。その兄が家の二階で寝ている1月4日に、父は息を引き取ったんです」「葬式騒ぎの中、兄は入院しました。そうこうするうちに、弟にも伝染して、本当に生きた心地がしなかったです」 

 

 「父が亡くなったとき、兄は新潟商業の最高学年で、進学を目指していましたが急きょ商いを継ぐことになりました。それでも図書館に通って勉強は続けていたんですが、数年後にあきらめて家業に専念するようになりましたね」「兄は弟に(旧制)新潟中学への進学を勧めました。中学校を卒業後東京の学校を出た弟は(当時の)国鉄に就職しました」 

 

 「私は女子工芸(現在の新潟青陵高校)のお作法の先生から家に来てほしいと言われたんです。お手伝いさんがだれも務まらず困っていたんですね。あんないいところはなかったわ。家はきれいだし、おいしい頂きものはあるし。初めて羽根布団に寝ました。先生と二人きりの生活で、先生が料理すれば私は家の掃除をするんです。その逆もありました」 「そういう経験もあるんですよ、私。だいぶ分かりましたでしょう」 

 

 ▼朝鮮の看護婦養成所へ

 

 「昭和10年代は(日本統治下の)朝鮮にいたんです。京城の裁判所の近くにあった弁護士さんの家に住み込んでいました。奥さんが私のおばさんだったんです。私、きかんぼでね、いじっぱりで、ひとつしつけてもらおうと、おじいさんおばあさんがこの家にあづけたんです」 

 

 「そこで年頃だったから結婚をすすめられたけれど、独身主義だといって京城帝大の看護婦養成所に入ったんです。2年間みっちり勉強をしました。女学校を出たばかりの年下の同級生の中で人間関係には苦労しましたが、寄宿舎暮らしは天国でしたね。費用はおじさんおばさんが出してくれました」  

 

 そう語るキヨさんが大切に保存している京城大学の新聞「城大学報」昭和14年1月1日号に「医学部看護婦 羅南より帰る」という二段見出しの記事が載っています。

 

 「張鼓峰事件の負傷兵治療のため羅南陸軍病院に派遣されていた京城大附属病院看護婦5人が帰院した」と伝える記事です。その5人の中にキヨさんの名前がありました。記事は「陸軍病院にあるや看護の本務をよく果たし、成績優秀にして病院長をはじめ各方面より感謝されたと聞くが、もって大和撫子の本懐とすべきであろう」と称賛しています。 

 

 昭和13年に、旧満州国東南端で発生した旧ソ連軍との血で血を洗う国境紛争が張鼓峰事件です。日本兵526人が戦死、914人が負傷したといいます(フリー百科事典Wikipedia)。ソ連側も792人が戦死しました。

 

 日露戦争後では初めての欧米列強との本格的な戦闘とされる張鼓峰事件の負傷兵の看護に、キヨさんは当たったのです。 

 

 「陸軍病院にどんどん負傷兵が運ばれてくるの」とキヨさんは振り返ります。さぞ凄惨な情景だったろうと思って質問しましたが、70年以上の歳月の中で、キヨさんの脳裏から辛かった記憶、心も凍りついた体験は抜け落ちてしまったかのようでした。代わりにキヨさんはある郷土出身兵の思い出を繰り返し語ってくれました。 

 

 「私が担当した負傷兵の一人が偶然新潟県出身と分かったの。聞くと村松の床屋さんの息子さんだって。私も村松に親戚がいるから話が弾んだのね」。

 

 「その兵隊さんは大けがをしたんですか」と聞くと、キヨさんは「ぜーんぜん。大した傷じゃなかったわ」と笑みを浮かべながら手を振って否定する。「息子が陸軍病院に入院したって聞いて、両親がはるばる海を越えて駆けつけてきたけど、そこでも私が同郷だっていうんで喜ばれてねえ」 

 

 楽しかった記憶、輝いた日々の情景だけを大切に心に残している。それがキヨさんの長寿の秘訣なのでしょうか。話を聞きながら、何度もそう思いました。

 

 今も食べ歩きが大好きで、当店「あき乃」でも、エビ天ざるをぺろりと食べ、さらにエビの天ぷらを追加して周りのお客さんを驚かせます。 「孫と一緒に食事するときにね、言うんですよ。おばあちゃんは意地汚くて食べてるんじゃないよ。おいしいから食べているんだよってね」。ときに脱線するキヨさんの回顧談は続きます。

 

 ▼ソ連軍に追われ、間一髪汽車に乗る

  

 「14年に、今の北朝鮮にある鉄原の道立病院の婦長にならないかという話があって、『よーし、こんなチャンスはない』と赴任したんです」 

 

 「20年8月、ソ連兵が攻めてくるって聞いて、連れていかれたら大変と駅に止まっている汽車に何も持たずに飛び乗りました。38度線のちょっと南まで汽車で逃げることができて。(日本の敗戦の混乱の中で)しばらく避難民生活が続きました。釜山の学校の運動場で、毛布1枚渡されて。長かったですね」