松村の歴史

 

 

松村商店時代


 

【昭和36年】

味噌横から.jpeg

喜界島でサラリーマンとして家庭向け親子ラジオ等の設置をしていた故・松村秀一郎(以下、秀一郎)が奄美大島の奄美産業株式会社(以下、奄美産業)に縁あって入社し、奄美産業で製造するヤマア味噌、ヤマア醤油の販売店として喜界島・赤連に「松村商店 ヤマア喜界出張所をオープンする。(現在のメガネの正視堂向かい)

秀一郎が家庭向けの親子ラジオ設置等を行っていた経験で、ほとんどの喜界島の島民の顔を知っていた為、喜界島全域に味噌、醤油の配達を行い、奄美産業本社から’’喜界島はドル箱’’と言われるほどヤマアの商品が飛ぶように売れた。

 

【昭和30年代後期】

松村商店ヤマア喜界出張所オープン数年後、離島である喜界島では今後人口減少が進み、’’ドル箱’’状態が長くは続かないのではと考えた秀一郎が、奄美産業の社長に掛け合い、味噌・醤油以外にも様々な奄美大島の特産品を喜界島で販売することを了承いただく。

 

【昭和40年】

旧店舗白黒.JPG

松村商店に隣接する民家の火事が燃え移り、自宅兼店舗が全焼する。

その後、現在当社の物置となっている場所に自宅兼店舗を再建する。

(写真は再建後)

 

【昭和40年代中期】

当時沖縄県から入荷される輸入缶詰が島外で大人気であることを知り、秀一郎が沖縄に出張し、輸入缶詰、輸入チョコレートを仕入れ始める。

奄美大島の特産品と沖縄県からの輸入缶詰、輸入チョコレートで連日大盛況となる。

 

【昭和40年代後期】

しかしながら味噌・醤油の’’ドル箱’’状態や盛況の奄美特産品、輸入商品需要も長くは続かず徐々に下降気味となる。

島民用に島外から仕入れた商品を販売するのでは、それこそ今後人口減少が更に加速し、店が立ち行かなくなるかもしれないと熟慮の結果、喜界島の特産品であるサトウキビで作った「黒糖」を島外に向けて販売できないだろうかと考える。

当時松村家の改築に大工として来ていた荒木集落の登氏とそのような会話をしているうちに、登氏が作っている黒糖を松村商店で買取販売することになる。

 

【昭和50年代中期】

黒糖の売上は順調であったが、黒糖はサトウキビの糖度の関係で冬から春先までしか製造できず、何か良い方法がないか。年間を通じて主力商品である黒糖を販売できる方法はないかと黒糖製造者の登氏と試行錯誤しながら、登氏に弟子入りし、秀一郎自身も黒糖づくりの修行を始める。

春先から糖度が下がるのであれば、ザラメ糖などを混ぜれば糖度が安定し、黒糖が製造できるのではないかと考え、試行錯誤した結果、現在の当社主力商品である「加工黒糖」が出来上がった。

*沖縄県では古くから黒糖にザラメ糖などを混ぜた加工黒糖が製造されていたというが、この時代にはまだ奄美群島では「加工黒糖」は広く認知されていなかった。

 

 

有限会社松村時代


 

 【昭和59年】

旧店舗カラー.jpeg

加工黒糖を主力商品として松村商店を法人化し、有限会社松村を設立する。

加工黒糖を広めるために秀一郎と妻・里子で軽トラックいっぱいに自社商品を積み、フェリーで奄美大島、徳之島、沖永良部島などへ出張し、お土産店などへ精力的に営業活動を行う。

(昭和40年白黒写真と同構図)

 

【昭和60年代~平成初期】

「松村の黒糖」が新聞記事に掲載され、各方面で話題となる。

北海道、東京、名古屋、熊本、鹿児島本土などでも喜界島をPRしながら物産展に出展するようになり、加工黒糖の製造・販売で当社が徐々に認知され始める。

S63.10.18.png

*昭和63年10月18日 日本経済新聞夕刊

 

新聞記事.jpeg

*平成6年頃の大島新聞(現奄美新聞)

 

【平成7年】 

秀一郎が喜界ライオンズクラブ会長に就任する。

 

【平成10年頃】

某テレビ番組で喜界島の黒糖がダイエットに効果があると紹介され、一時製造が追いつかないほど、注文が殺到する。夜遅くまで秀一郎の子、孫なども含め、家族総出で出荷作業に追われる日々が続く。

 

【平成15年】

秀一郎が再度喜界ライオンズクラブ会長に就任する。(3期目)

 

【平成21年】

秀一郎がかねてより理事を務めていた喜界町商工会副会長に就任する。

  

【平成24年】

消費者庁がJAS法を一部改正。「黒砂糖」や「黒糖」と商品表示ができるのは、サトウキビの搾り汁のみを使った商品に限られ、黒糖に粗糖や糖みつを混ぜた商品は誤認を避けるために「加工黒糖」と呼ぶことになる。

これにより加工黒糖が正式に定義づけられた。

 

【平成25年】

k_店外観.jpg

長年工場横で製造した黒糖の販売を行っていたが、販売店舗「きょら島工房」(''きょら島''奄美大島の方言できれいな島の意)を工場横にオープンする。

 

【平成30年】 

k_飲食内観.jpg

「きょら島工房」に隣接する形で、飲食店「きょらHANDS」をオープンする。 

 

【平成30113日】

創業者である初代代表取締役・松村秀一郎永眠。享年80歳。

長男・隆之が2代目代表取締役となる。

 

【令和3年】

新型コロナウイルスをきっかけに隆之の妻、佳子が製造し始めた大島紬で作った紬マスクが鹿児島県商工会連合会運営のアンテナショップ「かご市」で大人気となる。

R3.8.11南日本.png

 *令和3年8月11日 南日本新聞

 

創業者・秀一郎が取材を受けた際の動画です。時代を感じる動画になっておりますので是非一度ご覧ください。