美術商 酔壺亭 (suikotei)

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小林和作 【海】

小林 和作(こばやし わさく、1888年8月14日 - 1974年11月4日)は、日本の洋画家。作品は主に風景画です。

 小林和作は、明治21年(1888)8月16日、山口県吉敷郡に生まれました。父は和市、田畑、塩浜などを有する富裕な地主で、和作は7人兄弟の長男でした。小学校を了えると画家になることを希望し、廃嫡を父に申し出で、なかなか許されなかったものの、遂に父もおれて、明治36年和作をつれて上京、日本画家田中頼璋の門に入りました。
 大正二年(1913)京都市立絵画専門学校を卒業し、この年の第7回文展に「志摩の波切村」が入選、褒状をうけましたが、その後出品しても落選し、大正9年(1920)洋画研究を志して鹿子木孟郎の下鴨の画塾に入門して初歩の木炭画から始め、ここで林重義、北脇昇などを識りました。
 大正11年(1922)春、大正博覧会に上京、偶然紹介された小石川の野島熙正邸を訪ねてその所蔵の洋画コレクションに接し、特に梅原龍三郎、中川一政の作品に感動して洋画への転向と上京を決し、居を東京に移します。中野の前外務大臣伊集院彦吉の邸宅に住い、梅原、中川、林武に油彩画の指導をうけ、春陽会展に出品。京都におけるジャン・ポール・ローレンス系のフランス・アカデミスムの画風から、上京後は印象派以後の近代的画風へと転じ、大正14、15年とつづけて春陽会賞を受賞し、昭和2年(1927)第5回春陽会展に「上高地の秋」を出品して春陽会会員にあげられました。
 昭和9年(1934)、春陽会を脱会して独立美術協会に会員として参加、また、同年東京から尾道に居を移し、以降、尾道にあって独立展を中心に作品を発表します。戦後は、春、秋の二度にわたり長期の写生旅行で日本国内をまわり、その成果を独立展、秀作展、日本国際美術展、現代日本美術展などに発表、昭和28年(1953)には27年度芸術選奨文部大臣賞をうけ、昭和46年(1971)に勲三等旭日中綬章を受賞しました。なお、80歳を祝って、梅原、中川、小糸源太郎などを加えて八樹会がおこされ、日動画廊で展覧会が毎年開かれていました。後半期は日本の古美術、特に肉筆浮世絵、文人画から富岡鉄斎、村上華岳などと幅広い蒐集でコレクターとしても知られ、また、随筆家としてもよく知られており、随筆集に「風景画と随筆」「春雪秋露」「美しき峯々の姿」「天地豊麗」「春の旅、秋の旅」などの著書があり、そのほか、「浮世絵肉筆名品画集―小林和作家蔵」(画文堂)、「備南洋画秀作集」(求竜堂)などがあります。

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青地秀太郎 【紫禁城】

青地 秀太郎(あおち ひでたろう、1915年 - 1979年11月10日)は、日本の洋画家。岡山県岡山市出身。

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小野竹喬 【帰撫】

小野 竹喬(おの ちっきょう、 1889年(明治22年)11月20日 - 1979年(昭和54年)5月10日)は、近現代日本画を代表する日本画家です。75年間の画業を通して、日本の自然の美しさを描き続けました。

小野竹喬の風景画は、明るく清澄な画面に、光の変化や季節のかすかなうつろいまでもが表わされています。そして一年のうちのある季節、一日のうちのある時間という一端を描きながら、その作品は、自然が絶えず変化し、めぐるという普遍へと私達の思いを至らせます。  

1889(明治22)年、現在の岡山県笠岡市に生れた小野竹喬は、14歳で瀬戸内海に面した故里を後にし、京都の竹内栖鳳に師事しました。  

75年間の画業を通し、日本の自然の美しさを描き続けた竹喬ですが、<竹橋>の雅号を用いていた初期には西洋絵画への関心が強く見られ、1922(大正10)年から翌年にかけての渡欧を機に、「線」による表現へと方向を変えます。やがて南画への憧れが強まる昭和前期を経て、戦後は『奥の細道句抄絵』に代表される象徴的な表現へと画風は変化しました。そして最晩年に至って、墨彩画への挑戦を試みました。  

竹喬の自然を見つめるまなざしや表現の探求は、1979(昭和54)年に89歳で亡くなるまで変わることがありませんでした。

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清水比庵 【柿のもとの柿磨呂】

清水 比庵(しみず ひあん、1883年(明治16年)2月8日 - 1975年(昭和50年)10月24日)は、日本の歌人、書家、画家、政治家。本名は清水秀(しみず ひで)。号は他に匕舟、比舟、比安。晩年は「今良寛」と呼ばれました。

「家の廻りに柿うえおきて、柿のもとの柿磨呂の歌 詠まれておもほゆ」と書かれております。

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長沢芦雪 【うさぎ】 師 丸山応挙

長沢 芦雪(ながさわ ろせつ、宝暦4年(1754年) - 寛政11年6月8日(1799年7月10日))は、江戸時代の絵師。円山応挙の高弟。長沢蘆雪長澤蘆雪とも表記されます師の応挙とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人です。

こちらの作品は、二羽のうさぎで、自身と師である円山応挙を表現しています。

長沢芦雪は江戸時代後期に活躍した円山派の絵師です。1754(宝暦4)年、丹波国篠山藩(現・兵庫県)の武士の家に生まれ、入門時期は定かでないですが円山応挙の弟子となり、20代半ば頃には師風を忠実に受け継いだ作品を制作していました。いっぽうで、筆を用いず指や爪で描く指頭画などの作例もあり、応挙様式の模倣だけに終わらず、早い時期から独自の作風を模索していたこともうかがえます。一門の中で頭角を現すとともに、禅宗の僧侶や地方の豪商らとの交流を広げ、当時の著名人の名鑑である『平安人物志』の天明2(1782)年版の画家の部に登場しています。

 86(天明6)年、師の代理で紀伊半島の南端、紀州(現・和歌山県)串本まで赴き、代表作の《虎図襖》を手がけました。画面をはみ出しそうなほどのダイナミックな構図や、意図的に崩したフォルム、どこかユーモラスで愛嬌のある動物や人物の描写など、この頃から、応挙とは異なる芦雪の独自性が顕著に表れています。この南紀滞在の折、紀伊半島に点在するほかの寺院にも芦雪は作品を残しました。天明の大火(88年)の後、一時期奈良に滞在し、帰京後、応挙一門として寛政の御所造営に参加。次第に応挙様式を離れ、独自の画風の確立とともに作風のバリエーションも広げ、寛政後期の約5年間は、とりわけ精力的な制作活動を展開しました。99(寛政11)年没。伊藤若冲、曾我蕭白とともに、現代では「奇想の画家」のひとりに挙げられています。

 

 

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2024.05.17 Friday