一言法話
67.月輪の如し
一昨日9月10日は中秋の名月でした。このところ、全道的に晴天の日が多く、当日の夜も満月が金色に輝いていました。古来より満月を鑑賞する文化は日本やアジア各国にあったようですが、平安時代、中国から遣唐使によってもたらされた「望月」という月を見る催しが平安貴族に浸透し、観月の宴が催されるようになったということです。
インドの龍樹菩薩の著として伝えられる『菩提心論』には私達自身の心を月の輪に喩え、このように表されています。
我れ自心を見るに形月輪の如し
何が故にか月輪をもつて喩とするとならば
いはく 満月円明の体は即ち菩提心と相類せり
(私達の心はまん丸い満月のようなものであり、その本質は光輝く仏の心と同じなのである)
では、仏とはいったいどんな存在であり、仏の心とはいったいどんな心なのでしょうか。
仏とはあらゆる損得というものから離れ、何事をも真っさらに見通す「智慧」を持ち、すべての人に対し分け隔てなく平等に「慈悲」の心を持つことのできる存在です。
「そうなんだ。でも、自分の心がそんな完璧な仏の心と同じであるはずがない」。こう思われる方も多いとか思います。
しかし、お大師さまは『吽字義』の中でこうおっしゃっています。
日月星辰(にちげつせいしん)は もとより虚空に住すれども
雲霧蔽虧(うんむへいき)し えん塵映覆す
(たとえ雲や霧に覆われていても、太陽や月はいつもその上で輝いています)
それと同じように、普段、意識はしなくとも、私達はあの満月と同じような輝きを放つ仏と同じ心を宿しているのです。しかし雲や霧がその光を閉ざしてしまうように、自らが作り出してしまう様々な心の汚れにより、仏と同じ心(仏心)を見えづらくしてしまっているのです。
自らの心、そして全ての人の心は本来、仏の心と同じなのだとの自覚を持つことができたならばこの世は悟りの世界(密厳浄土)となります。