一言法話

2021-12-21 00:00:00

41.命有ることの有難さ

 

令和3年もあと少しとなり、何かと慌ただしく、気忙しい毎日ですね。
今年もコロナ禍に振り回されましたが、1年を無事、過ごせることに感謝したいと思います。

この一言法話でも度々お話ししている通り、仏教では私たちそれぞれが「今」「ここに」「このように」存在しているのは様々な『縁』によるものだと考えます。
1年を無事に過ごせるのは「良き縁」の賜物と言えるでしょう。逆に言えば「大病を患う」「交通事故に遇う」といった「悪き縁」に遇わなかったお陰とも言えるでしょう。 

私は、何年か前に胸が苦しくなるようなことが何度かあり、病院で心臓エコー検査等をしてもらいました。その時初めて、血液の逆流を防ぐ為にある自分の心臓弁の動きを見ましたが、小さなその弁は心臓の動きに合わせ健気に動き続けていました。結局、心臓には特に問題はなく、胸の痛みは胃が少し荒れていたことが原因だとわかったのですが、この時感じましたのは、当たり前のことではありますが、自分が健康でいられるということは体の中の様々な器官が、この自分の身を維持するため、休むことなく正常に動き続けていてくれているお陰(縁)によるものだということでした。


心臓の動きというものを考えみましょう。人間の安静時の心拍数は1分間に60100回だと言われます。60回として計算した場合でも、1時間だと60回×60分で3600回、1日だと3600回×24時間で86400回。1年間だとどうでしょう。86400回×365日ですから3156000回、では一生ではどうでしょう?今は長寿の方が多いですから、100歳まで生きたとすると31536000回×100年でなんと315360万回、人の心臓はわが身を保つためひたすらに、途方もない回数の動きを続けるわけです。途中で心臓が「もう面倒くさいや、やーめた」となれば私という存在はひとたまりもありません。もちろん、この身を支えてくれているのは、心臓だけではありません。体の中の様々な器官が微妙なバランスを取りながら動き続けていてくれていることにより、私たちは「今」「ここに」「このように」存在することができるわけです。
そんな思いを巡らすならば、“生きているということはなんと有難いことなのか”と言わざるを得ません。

忙しい年の瀬ではありますが、今年1年「良き縁」に遇い、命有ることができた有難さに感謝し、来年も「悪き縁」に遇わず、無事に過ごせるよう共に願いましょう。