一言法話

2021-11-19 00:00:00

38.“決めつけ”のないように

 

こんな話を聞いたことがあります。

ある病院の待合室に双子と思われるまだ幼い子供2人と、30代位のお父さんがいました。子供たちは待合室の椅子の周りを走り回っています。ところが、その若いお父さんは注意することもせず、下を向いたままです。
その様子を見ていたある人は「おいおい、この父親、何やってんだい、もしかして子供をほったらかして、こんなところで寝てんのかい。ほかの人の迷惑も顧みず、いい気なもんだな」と思ったそうです。
しかし、そのあと救急の診察室から出てきたお医者さんの話を聞くため立ち上がった父親は目に涙を浮かべていました。うっすら聞こえてきた二人の会話からすると、どうやらその方の奥さんは交通事故にあい、半身不随は免れそうもないとのことでした。
それを聞き、途端にその家族に対しての見方が変わったそうです。
悲しみと不安に打ちひしがれるかわいそうな男性と、まだ状況がわからないでいる無邪気でいたいけな子供たちという風に。事情も知らず、なんとわがままな子供たちだろう、なんと無責任な父親だろうという見方でみていた自分が恥ずかしくなったということです。

私たちはその人の事情など知らずに簡単に「この人は〇〇〇な人だ」とレッテルを貼り、自分の意にそぐわないような人にはすぐに批判の目を向けてしまいます。でも、それは愚かなことであると言えます。仏さまの眼“心眼”というもので、物事を見定めることができたなら、そのようなことはないでしょう。しかし、先入観や自分の勝手な思い込みというものに縛られがちな私たちには、心眼でもってまわりを的確に見定めることは難しいことなのかもしれません。であるならば、まずは何事においてもすぐに「これは〇〇〇だ」と決めつけることだけは避けなければと思うのです。