一言法話

2021-07-20 00:00:00

26.命日とは

 

夏本番を迎え、小樽も30℃を超えるような暑い日が続いています。いや、小樽に限らず、北海道内地域によっては35℃越えが何日も続くというような北国北海道としては考えられないような酷暑の夏です。
檀家さんのご自宅へお参りに伺った際には、このところ、改良衣(僧侶が着る黒い衣)に今は必需であるマスクをつけ、汗をかきかき読経する姿に「いやー、暑そうで大変だねー」と気遣いの声をかけていただくことが多くなりました。

日光院では小樽の檀家さんへは月命日(毎月の命日)に、札幌と余市の檀家さんへは日にちを決めてお参りに伺っております。人が亡くなった日の事を「命日」、また毎年迎えるその日を「祥月命日」といいますが、なぜ亡くなった日の事を命の日、「命日」というのでしょうか?
真言宗豊山派の僧侶、名取芳彦さんが「仏教が教えてくれる『お別れ』の仕方」という著書の中で「亡くなった日はあの世で命を受けたという意味で、命日となります。」とおっしゃっています。

ご詠歌に「阿字の子が阿字のふるさと立ち出でて また立ち還る阿字のふるさと」とあります。
阿字とは真言宗のご本尊「大日如来」のことをいいます。真言宗では私たちの命は大日如来の世界から父母を縁としてこの世に誕生し、この世での縁が尽きたならば、また大日如来の世界に帰っていくと考えます。この世とあの世は循環する世界であり、この世とあの世は切り離された別々の世界だとは考えないわけです。

先ほどの歌はお大師さまが、お弟子さんの一人、甥の智泉さんが亡くなった時に詠まれたといわれています。智泉さんはお大師さまの後継者として期待されていましたが、37歳という若さで亡くなってしまいます。この時のお大師さまの悲しみはいかばかりであったことでしょう。私達も大事な方を失くした時、悲しみに打ちひしがれてしまいそうになります。しかし、お大師さまの歌にあるように、亡くなられた方は、この世と繋がっているあの世に戻って行かれたのだ、と素直に受け取ることができれば、その悲しみは時間と共に安らいでいくでしょう。