一言法話

2024-04-01 21:55:00

116.とらわれのない心


北海道もやっと春らしい日が続くようになりました。新しい年度を迎え、気持ちも新たにすがすがしい日々を送っていきましょう。

私の好きな話を紹介させていただきます。
ある2人の修行僧が諸国を行脚していたところ、前日の大雨で水かさの増した川に差し掛かりました。
そこで川を渡ることが出来ずに困っている様子の若い女性を見つけました。川には橋が架かっておらず、向こう岸に行くには川に入り、歩いて渡るしかありません。
片方の修行僧が、「どうされたのですか」と声をかけたところ、「この川を渡って今日中に行かなければならない所があるのですが、この辺りには橋もなく渡れなくて困っているのです」悲しげに女性は答えました。
「わかりました。じゃあ、私が背負ってあげますよ。一緒に渡りましょう」その修行僧は女性をおぶって向こう岸へ渡りました。
向こう岸で女性を下ろすと「それでは先を急ぎますので」そう言い残し2人の修行僧はその場を去って行きました。
修行僧達は、ややしばらく黙って歩いていたのですが、女性を背負わなかった方の修行僧がこう言い放ちました。「おい、お前は修行者として失格だ。女人に話しかけるどころか、体に触れるとは何事か」
すると、女性を背負った方の修行僧は涼しい顔でこう答えました。
「なんだ、お前はまだそのことを背負っているのか。わしは川を渡ったところでとっくに下ろしてきたぞ」

この話は仏教で大事にする「とらわれるな」ということをわかりやすく表しています。
2人は修行の身ですから、非難した方の修行僧が言うように女性と話しをしてはいけない、まして体に触れるなどもってのほか、という主張はもっともなことと言えます。しかし、そうであったとしても、困った人がいたら自身の慈悲心に従って手を差し伸べる行為は間違いではないはずです。
そして、ここで言えることは非難した方の修行僧はもう一人の修行僧が女性に関わりをもったということにこだわり続け、悶々としていたわけですから、結果的に修行の妨げになるような思いを自分自身で作ってしまったということです。
とらわれの心を持ち続けると、修行者にとっては修行の妨げになりますし、とらわれの悶々とした思いは自分自身をも苦しめてしまいます。

新しい年度が始まりました。とらわれのないすがすがしい心を目指していきましょう。