創業パートナー・靑栁雄三について
赤江哲也(現・代表取締役社長)と共に、当社を設立した故・靑栁雄三は1950年(昭和25年)1月16日長崎で生まれました。
家族を支える為、高校生の頃から港湾労働や新聞配達等の仕事をしていたそうです。
成績優秀で長崎大学に合格したものの、家庭の事情もあり進学を諦め長崎倉庫に就職。
その頃の苦学の経験が、創業理念「生活に困窮した要介護高齢者に安心を」の原点だと生前に語っていました。
豪快な人柄で、とにかく話題が豊富で話が面白く、いつも周囲は笑いに包まれていました。
音楽的センスも抜群で、学生時代は長髪を振り乱してベースギターを演奏、ピアノバーのピアノ弾きの仕事をしていた事もあったそうです。
歌唱はまさにプロ級で、宴会のカラオケでは、女性陣が惚れ惚れする渋い声をいつも聴かせてくれました。
クールファイブのボーカル候補に名前が挙がったという伝説もある程ですが、(※要出典)医療・介護福祉業界の為にも、前川清さんが良かったのだと思います。
その後、長崎市内で病院の事務長を歴任した後、2002年春に下関市内の病院の事務長として赴任します。
そこで現・代表取締役の赤江哲也と出会い、同じ長崎が故郷だという事などもあり、すぐに意気投合、翌年には独立して株式会社 介援を設立、初代・代表取締役社長に就任します。
創業者の二人が理念とした掲げたのは「ご家族からの支援が困難な方(例えば、家族が遠方にお住まいの場合や疎遠になっている場合等)や、ご自分の年金だけでは老人ホームに入居するのが困難な方々も、最期まで安心して暮らせる施設の運営」「正規雇用の介護職員による介護事業の運営」の2点でした。
今でこそ、生活保護受給中や十分な年金収入がない高齢者の方々も、入居可能な有料老人ホームの選択肢が多数ありますが、2003年当時は介護保険制度自体まだ始まったばかりで、特に生活保護受給中や身寄りの方が近隣にいない要介護高齢者は病院退院後に行き場がなく、社会問題になりつつありました。
また、介護職員の主力の大半が主婦パートの時代だった為、「正規雇用で介護ヘルパーを雇って事業が成り立つわけがない」と、多方面から指摘を受けたそうです。人手不足の深刻化に伴い、介護職員の正規雇用も当然の流れになりましたが、当時は非常に勇気のいる決断だったと言えます。
その後、出身地の長崎市でも介護事業所開設のコンサルタントとして活躍、事業開設に携わった㈱トリプルエスの代表取締役社長・会長を歴任。
愛車のトヨタ・クラウンMAJESTAで高速道路を疾走し、下関と長崎を往復する多忙な日々を過ごしていました。
酒と煙草をこよなく愛した靑栁雄三は、2017年1月9日、67才の誕生日の1週間前に自宅にて逝去。(享年66)
2017年1月14日、㈱トリプルエスと弊社が合同で社葬を執り行い、数多くの参列者の皆様が別れを惜しんで下さいました。