関川村商工会

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2010 / 12 / 16  00:00

関川村にはあります!【桂のカツラ】

●所在地:岩船郡関川村桂362番地、稲家氏宅
村指定文化財(天然記念物)
樹高13m、周囲3.83m、樹齢300年以上

 桂集落周辺には、通称、石滝沢・うしくび沢・阿古屋谷などの採鉄・製鉄の遺跡が残っている。特に阿古屋谷は大里峠の伝説に登場するところでもあり、山砂鉄採掘の竪穴・横穴の存在が知られていた。
 採鉄・製鉄の場所には、カツラを植栽する慣わしになっており、桂集落にはカツラの老木が繁茂していたが、それぞれ樹齢をまっとうした。
  
  

2010 / 12 / 09  00:00

関川村にはあります! 【おりのの碑】

●所在地:岩船郡関川村蛇喰
 「大したもん蛇まつり」の発祥の地「蛇喰」に大里峠の主人公である「おりの」の碑があります。毎年「大したもん蛇まつり」前日には祈願祭を行っています。
  
  

 おりのの碑には以下のように記されています。
「蛇喰という地名は、地すべりや崩れ落ちた地形の場所につけられ、その元凶は大蛇の仕業と考えられていた。たび重なる飢饉で存亡の危機にある一家を救うため苦界に身を沈めた女性おりのがこの地の出身であることから、蛇漬を食べつくし大量の水を飲み自らも大蛇になった、という伝説が生まれた。」
  
  

2010 / 12 / 08  00:00

関川村にはあります! 【榎峠(榎山古戦場、供養塔)】

●所在地:大内淵(国道113号線沿い、鷹ノ巣温泉を300m過ぎた山形県側の山手が入り口)

越後米沢街道・十三峠は、大永元年(1521)に伊達14代の稙宗が、大里峠を開いたのが始まりである。その十三峠の1つである榎峠は、戊辰戦争の戦場となった。
【榎峠の激戦】
 明治元年8月10日、米沢藩は米沢口の劣勢挽回のため藩兵を増強した。柄目木(がらめき)陣地23隊、八ツ口陣地13隊、金丸陣地8隊、榎峠陣地は武藤秀松隊といった陣容であった。8月12日早朝より、新政府軍は新発田藩兵を先頭に三道より榎峠陣地に、迫った。守備隊は力戦むなしく、多数の死傷者を出し大里峠に後退した。片貝陣地も破られ守将の斎藤新右衛門は活路を開いて沼まで後退したところで新政府軍に包囲され戦死した。この戦闘で米沢藩兵戦死12人、負傷11人、行方不明8人、新政府軍は新発田藩農民兵1人であった。
 供養塔は、戊辰戦争の戦死者を供養するため、明治元年に蛇喰村弘長寺の六十三世良成和尚と集落の人々により建てられ、供養塔には「南無阿弥陀仏戊辰戦死塔」と刻まれている。
  
  

2010 / 12 / 03  00:00

関川村にはあります! 【六・三・三制発祥の地(石碑)】

●所在地:岩船郡関川村下関(関川小学校敷地内)
関谷学園(現関川小学校敷地内)は、文部省指定の六・三・三制を先導する教育の実験校でした!

関川村史によれば、栃木師範学校教授佐藤仙一郎氏(関川村安角出身)が、教育研究所主任城戸幡太郎氏に、実験校設立地に郷里である関谷村(関川村)を紹介したとのことである。実験校は、当初都市部、農山村部、漁村部に、一校づつ設立される予定であったが、都市部、漁村部ついては、諸事情により実現されなかった。
かくして、関谷学園は、全国唯一の実験校となり、関谷村(関川村)は、日本の六・三・三制発祥の地となった。

   

2010 / 12 / 02  00:00

関川村にはあります! 【三潴佐左衛門着装の鎧兜】

●所在地:岩船郡下関(歴史とみちの館内)
村指定文化財で有形文化財です。

鎧兜ファンは集まれ!

  

佐左衛門は、鎌倉時代に桂関の関守として派遣された三潴左衛門尉の子孫、三潴氏の一族で独立して一家をなしていた。
慶長3年(1598年)、上杉景勝が国替えで会津へ赴くとき、同行した武将の中に三潴佐左衛門の名前がある。
佐左衛門は、景勝に従い慶長6年に米沢へ移り、子孫はやがて上杉家の典医として活躍するようになった。
鎧兜は子々孫々に伝えられ、東京世田谷区経堂の三潴信吾氏宅に保管されていたが、先祖の出身地である本村に保管を委託された。内胴には天文4年(1535年)2月、吉久作と記載されている。
現在は、「せきかわ歴史とみちの館」で展示中。
  

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