よくある質問

質問「外国人が出入りしているのは?」

時々、夜、嵯峨野教会に観光バスが乗り入れたり、大勢の外国人が出入りしているのを見かけます。何をしているのですか?

 平和の祈り

嵯峨野教会では創立以来、世界の平和のために祈り続けてきました。
今では、海外の信仰者にも共感が及び、
グループで嵯峨野教会に立ち寄られることも多くなりました。

 歓迎集会

わたしたちはそのような海外からのお客様を迎えて、歓迎集会をもっています。
歓迎集会では、
聖歌隊によって歌が歌われ、
平和のメッセージが語られ、
共に平和のために祈ります。

 安全のために

安全のために次のようなことに気をつけています。
・完全予約制で、信頼のおけるガイドを伴っているグループを迎えています。
・観光バスで来られる際には、安全のために駐車場に誘導員を立てています。
・タクシーの乗り降りは教会の駐車場を利用しています。
・複数の通訳者が常駐しています。

 

 ※観光バスの乗り入れに関しましては、最寄りの小学校の課外活動時におけるバスの発着所としても協力させていただいています。

地域の皆様のご理解に感謝しております。
今後ともよろしくお願いいたします。

 

 質問「聖書の成立について教えて下さい」

聖書はずいぶん古い書物であると聞きましたが、どのようにしてできたのでしょうか。また、私たちは、聖書の本文を信用してよいのでしょうか。

 

 旧約聖書の成り立ち


 聖書は大きく旧約聖書と新約聖書に分けられますが、まず、旧約聖書についてお話ししましょう。
神と人間の物語は、はじめには、伝承のかたちで世代から世代へと口で言い伝えられておりました。
紀元前2000年の終わり頃に、文字で書かれた記録があったことが知られています。
旧約聖書の最初の5つの書はモーセの五書と言われていますが、
モーセは律法を石板に刻みつけるようにと、神からはっきりした命令を受けました。
その時、「書かれた法」と「口伝の教え」が与えられたと言われています。

その後、預言者の活躍した時代に、エレミヤ(紀元前6世紀頃)は、
彼の書物がどのようにしてできたか、
またそれが何のために用いられるべきかを明らかに述べました。
エレミヤ書36章1節から4節ですが、そこには
「主が彼に語った言葉をことごとく巻物に書き記した」とあります。
聖書は神の霊感によって書かれたといわれていますが、
聖書の本当の著者が神ご自身であることがわかります。

 紀元前5世紀には、モーセ5書がユダヤ民族の根本的な成文律法とみなされるようになり、
この規範に従って、日常生活・社会生活が営まれるようになりました。
そして、モーセの5書(トラー)は、紀元前300年には完全な形をとりました。
預言書もおそらく前200年までにはおおよそ完成しました。
一番大きな問題が起こったのは、諸書とよばれる部分です。
ラビ(ユダヤ教の教師)たちは長い時間をかけて、その基準を探し、
西暦100年頃に、当時のユダヤ人の精神的中心地ヤブネで、正典が最終的に確立され、
以後追加も削除もいっさい行われませんでした。

 その結果、ユダヤ世界で生み出された、ヘブライ語や、アラム語で書かれた多くの聖なる書物が正典の外に取り残されました。これらは、アポクリファ(外典)、及び、プセウドエピグラファ(偽典)と呼ばれています。

  新約聖書の成り立ち


 新約聖書の正典が確立したのは、紀元3世紀の終わり頃です。
どの文書を正典として認めるかについては、長い間流動的な状態が続きました。
それは福音書や書簡が書かれた場所が広い地域にまたがっており、
集大成する事が困難であったことや、ローマ帝国による長い迫害が原因です。
キリスト教がローマの国教として認められると、
その当時の教会がいくつかの教会会議において、
信仰と生活のための正典(カノン)として、聖書の範囲を確定したのです。
その後、これまで知られていなかった初代教会の文書が発見されましたが、
それらは本質的には、何も新しいことを知らせてはいません。

 聖書は信じられるのか

 元来、聖書の本文は、パピルス紙かまたは羊皮紙に書きつけられたものです。
印刷技術が発明されるまでは、その本文は筆写によって、広められていたのです。
当時のユダヤ人は、聖書の複写をするときに、一字一句間違えることのないように、細心の注意を払って書き写しました。
聖書を書き写すことを専門職とする人も養成されました。
現在使われているヘブライ語聖書の基礎となっているのは、
レニングラード写本と呼ばれる紀元900年代のものです。
今世紀最大の発見と言われる「死海写本」は紀元前100年のものであるにかかわらず、両写本の間に寸分の違いも見いだせませんでした。
これによって、聖書が、最も正確に伝承された書物である事が明らかになりました。また、イスラエルでは、聖書考古学に基づく発掘が、盛んに行われていますが、過去の伝説とされていた出来事が、歴史的事実として証明されています。
 

 神の言葉である聖書

 最後に、聖書は、神のみわざを報告しているだけでなく、
聖書の中で、神が自ら私たちに語りかけておられるのです。
ですからわたしたちは、聖書の言葉の中に神の御声を聞くことができるのです。
聖書を開いて、あなたに語りかけられる神の言葉に耳を傾けましょう。

 

 質問「生きがいをみつけたい」

質問
毎日が、ただ惰性で生きているみたい。どうしたら、生き甲斐を感じ、人生の目的を見い出すことが出来るでしょうか。

 生きる意味

 あなたのようなことを感じている人は決して少なくありません。
大学生を対象としたアンケート調査の質問に「あなたにとって生き甲斐とは何ですか」というものがありました。これに対して60%以上の学生が「わからない」とか「今、探している」と答えています。
 高校時代は、大学に入ることがその人の大きな目標でしたが、
いったん入学すると、何のために勉強しているのだろうかと、悩んでしまいます。また仕事についている人も、毎日同じ事を繰り返していると、心の張りが無くなり、ただ惰性で毎日のノルマを果たす事だけを考えています。
子育てや家事に追われる主婦も、同じように感じています。
 そのような日常にもかかわらず、自分の生きていることや、していることに意味や、価値を見い出したいと思うのが人間です。そして、それが分からないことほど苦しいことはありません。

 生きがいとは

日本語の「生きがい」とは、「生きることの甲斐」と理解されています。
「甲斐」とは、物事の効き目、しるしなどを意味していますが、
もともとは「効」「貝」「買う」「替」「換」などの語と結びついた意味を持っていたのです。
 つまり、「生き甲斐」とは、自らの生と交換するに値するもの、
その価値があるものとの意味です。それは、その人の人生全体に関わるものです。これでは、簡単に達成されたり、消えてしまうようのものを、「生き甲斐」と呼ぶことは出来ませんね。
 「私にとって最大の問題は、物理学ではない。それは”私自身”だ。
この私という存在がどこから来て、どこへ行くのか、それが問題である」とは、
ノーベル物理学賞の受賞者湯川秀樹博士の言葉です。
「生き甲斐」の発見は、偉大な学者にとっても大問題であったのです。

 どうすれば生きがいを

 私たちが今、ここに存在していることの意味と目的、消えることのない真の生きがい、このような難問に答えることの出来るのは、ただ神の言葉である聖書以外にありません。
 聖書は、私たちの人生に意味と目的があることを明らかにしています。
即ち、「人生の真の目的と目標、神こそそれである」と。
それは、神のかたちに似せて造られた人間が、その「神のかたち」を自らのうちに完成するために、神と共に生きることを意味しています。
 そのために大切なことは、まず神との出会いを体験することです。
神との出会いの中で、神が私たちに対してもっておられる愛を知り、神の愛に満たされ、神と人への愛に生きる者となることです。
その時、自分自身について、まわりの人々について、世界について、人生に対して新しい見方が与えられ、消えることのない人生の目標、真実の生きがを発見することが出来るのです。
 「神よ、私の魂はあなたのうちにいこうまでは、真の平安がありません。
あなたは、人をそのようにお造りになったからです」(聖アウグスチヌス)
 わたしたちは、あなたが「真の生きがい」を、神において発見されることを、心から願っています。

 

質問「どうすれば信じられるのか?」

質問 
キリスト教では、道徳的な善行為によって救われるのではなく、
信仰によって救われると聞きましたが、なかなか信仰を持つことができません。どうすれば、信じることができるのでしょうか。 

 信仰は聞くことから

 病気の人は、自らを癒すことはできません。
罪という心の病を持つ人間には自らを救う力がありません。
救い主なる神を信じることによっってのみ救われるのです。
あなたが病気になり、病院に行ったときのことを考えてみましょう。
病人が医者を訪ねるときは、まず第一に、自分の苦しみを取り除くことのできる医者がいるということを、期待します。そのような医者を見い出したら医者の言葉に耳を傾け、彼の手に自らを託します。それは、あなたが医者を信じているからです。

 キリスト教においても同様です。まず、私たちの救いと幸福に強い関心を注いでおられる神がおられることを知ることです。次に、神の語られる言葉に耳を傾けることです。そして、神の御手に自らを委ねることです。そして、神の救いを見るのです。

 しかし、現実には、次のように考えておられる方が多いようです。
「神を信じるための証拠を見せてください」。
聖書の答えはこうです。「証拠を見て信じるのは、完全な信仰ではないでしょう。
まず信じるのだ。信じるならば、神の栄光を見ることができる」と。
結果を見てから、信じるのは、真実の信仰ではありません。
イエスは言われました、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。
見ないで信ずる者は、さいわいである」(ヨハネ福音書20:27~29)。

 アブラハム~信仰の父と呼ばれた人

 クリスチャンだけでなく、ユダヤ人からも、イスラム教徒からも信仰者の父と仰がれているアブラハムの偉大さは、まさにその点にありました。
彼は、「父母の国をでて、神の示される約束の地に行きなさい」とのみ声を聞きました。
その時、彼はそこがどんな所であるか知りませんでしたが、神の言葉に従って、出発したのです。それは信仰による大いなる冒険旅行でした。
アブラハムへの神の約束は、
「彼の子孫は大いなる国民となり、彼は祝福の源となって、
地上の諸国が祝福を受ける」というものでした。ところが彼には子どもがなかったのです。年齢的にも子どもをもうけることは不可能に思われました。
しかし、彼は不信仰に陥ることなく、神は約束したことを実現させる力をお持ちの方だと、確信していたのです。すなわち、神が「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して、存在させてくださる」と、信じたのです。
ついに彼は九十九歳に至って、「我は全能の神なり」と宣言される神との劇的な出会いを体験し、翌年待望の約束の子の誕生を見たのです。
 

 信仰はダイナッミックな力

 信仰は造られるものでも、教え込まれるものでも相続されるものでもありません。いつの時代でも、またどんな人にとっても、信仰は本人自身の決断です。
「イエス・キリストの十字架は、私のためであった」と、
イエスの救いのみ業を、自分に向けられたものとして、個人的に受けとめることです。私も、イエス・キリストの十字架は世界人類のためであったと理解していた間は、一向に救いの確信を持つことができませんでした。
しかし、キリストの十字架が、私のためであったと知ったとき、
私の心に真実の信仰が芽生え、アブラハムのように神と出会って、救いを体験することができました。

 太陽の光をレンズを通して、紙や布に受けるとき、太陽の熱は紙を燃やします。すべての人に注がれている神の愛と神の約束を、個人的なものとして受けとめるとき、神の力はあなた自身とあなたの人生の上に働き始めるのです。
信仰とは、神の愛と力を体験するためのすばらしい霊的レンズであり、
実にダイナミックな力です。「もし信じるなら神の栄光を見るであろう」

 

質問「十字架に救いがあるとは?」

質問 
十字架の上で死なれたイエスがどうして救い主であり、なぜイエスを信じることによって、救われるのですか。

 最近の若者達の間で、クリスチャンでもないのに、
堂々と大きな十字架を胸につけていることが流行しています。
彼らは、それを「十字架」と呼ばないで、「クロス」と呼んでいるようですが、
それは、単なるファッションの一部です。しかし、本来の「十字架」は決してアクセサリーにするようなロマンチックなものではありませんでした。
当時十字架は、処刑の道具であったのです。極悪人がつけられる処刑の道具でした。処刑の道具を身につけることはおかしなことです。

 イエスは自ら十字架の道を歩まれた

 どのようにして、処刑の道具であった十字架がキリスト教のシンボルとなったのでしょうか。それは、イエス・キリストがそこで死なれたからです。
ではなぜ、イエスは十字架につけられたのでしょうか。ある人々は、「イエスの斬新な教えが、当時の宗教的指導者と衝突し、彼らの手で始末されてしまったのだ。彼は殉教者として死んだのだ」と、説明します。
表面的には、そのように運んでゆきました。しかし、この説明には、一つの重大な事実が見落されています。それはイエスが、明確な意図をもって、自ら十字架への道を歩まれた、ということです。

 なぜイエスはその道を選ばれたのか

 もし、イエスが悪人の手で死に渡されただけでなく、自発的に自分を死に渡したというのであれば、なぜイエスはそうしたのでしょうか。いろいろな説明ができます。イエスが死んだのは、罪人たちに神の無尽蔵の愛を明らかに示すためであった。また、苦しみを受けたのは、どんなに苦しめられても、耐えぬく模範を示すためでしあった。そして、暴力に抵抗する道を拒否することによって、悪に打ち勝つためであった、と。

 それはみな真理ですが、キリストの十字架を完全に説明するものであはありません。聖書は、キリストの死と私たちの罪との結びつきを強調しています。
イエスは「これは私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」と語られ、ペテロも「キリストも一度罪のために死なれました。
正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、……私たちを神のみもとに導くためでした」(Iペテロ三18)と述べています。
あの日あの時、カルバリーの丘の上に立つ十字架の上で、イエスは私たちの罪が赦されるために、決定的なわざを成し遂げて下さったのです。

 ほかに方法はなかったの?

 こんなめんどうなことをせずに、罪を赦すことが、神には出来なかったのでしょうか。なぜキリストの死が必要だったのでしょうか。
それは、神が無限に正しい方であるので、簡単に罪人を赦すわけにはいかなかったからです。そして、神は無限にあわれみ深い方ですから、簡単に罪人を罰することもできません。
 どのようにして、神は正義にもとることなく、罪人を赦すことが出来るでしょうか。どのように、愛を損なわずに罪人を罰することができるでしょうか。
ただ一つの道しかありませんでした。
 愛なる神は、御子キリストの人格において、その刑罰を自分の身に引き受けられたのです。イエス・キリストだけが、世の罪のために死ぬことができました。
それは、イエス・キリストだけが人であり、罪のない方であり、また神であったからです。彼の死には無限の価値があり、すべての時代の人の救いとなりました。

 神は私たちの救いに必要なことを、十字架においてすべて成し遂げてくださいました。私たちに残されていることは何でしょうか。
ただ、自分の罪を認め、主イエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れ、愛なる神の御名を呼びもとめればよいのです。その時、十字架はあなたの心に輝くでしょう。 

 

質問「罪とは?」

質問
 今まで法律を破ったことがないのに「あなたがたは罪人だ」と言われ納得できません。
教会では、とても悪い人と思えない人も、「私の罪をゆるしてください」と祈っていました。
罪ということについて、教えて下さい。

  罪の現実を認めましょう

 「面と向かって、あなたは罪人だ」と言われたら、だれしも腹を立てるでしょう。しかし、心を鎮めて、今までの自分の生涯を振り返ってみるとき、
心の奥底にしまいこんである、苦い罪の思い出を持っていない人はないでしょう。行為ばかりでなく、動機にまで光を当てるなら、
「私は罪を犯したことがない」と断言できる人はいないでしょう。
 この罪の事実は、個人においてばかりでなく、歴史の中にも、現在の出来事の中にも認められます。

  「罪」とは

 では、「罪」って何でしょう。
旧約聖書で「罪」を表す言葉の「ターハー」は、本来「的、または道をはずす」という意味の言葉でした。それが、聖であり、義である神との関係に用いられたのは、人間が「神が定められた道を踏み外している」からであり、
迷いやすい羊のように、「おのおの自分の道に向かって行った」からです。
 「罪」は、行為だけでなく、人間の持っている神に敵対する性質をも意味しています。「罪」を犯したから、「罪人」なのではなく、「罪人」だから「罪」を犯すのです。 罪の結果、人は神の祝福を失い、神のかたちとしての自己像を破壊し、
神を見失い、お互いに対立しあい、自然との不調和の中で生きているのです。

  「罪」からの救い

 ではどうすれば、「罪」を処理し、真の幸福を享受することが出来るのでしょうか。単なる改善や、改造、修養、努力では不可能です。教育も、環境整備も、「罪」を処理する力はありません。「罪」の問題を解決することは、人類にとって急務ですが、神ご自身も、人々が罪を告白して、悔い改めることを何にもまして望まれたのです。その為に、神のおとりになった手段は、人知をはるかに越えるものでした。
聖書は、イエス・キリストは「罪から救う」ために来られた方であり、「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである」と教えています。
十字架で死なれた主イエス・キリストの血によって、完全な赦しと、きよめ、聖化、神化が与えられるのです。わたしたち、クリスチャンは、キリストにあって、罪ゆるされ、新しい命に生かされる経験を持っています。
しかし、自らが赦された罪人であることを忘れず、「罪人である私をあわれんでください」と祈っているのです。あなたも、罪の赦しと新しい命を求めて下さいますように。

 

質問「祈りとは?」

質問
 どうしようもなくなった時、祈りの言葉が口から出ますが、神様に聞かれているのか、聞かれていないのか分かりません。祈りは、単なる独り言のように思えます。  

 日本人の祈り

日本では一般に「祈り」は神仏への「祈願」と考えられていますね。
元旦に初詣をして、商売繁盛や、無病息災を祈ることは国民的習慣であり、
入学試験の合格や良縁に恵まれること、病気治癒を祈願することもあります。
これらの「祈り」「祈願」は、ほとんどの場合、自分のためや、自分と深い結びつきのある人々のために捧げられるものです。その動機は、非常に自己中心的であると言わなければなりません。
そして、思い通りにならないと、あそこはダメだ。こちらの方がよいと、右往左往してしまします。
神様って、自分の希望や夢を安易に実現してくれる便利な存在なのでしょうか。
決してそうではありません。人間が神を使うべきではなく、人間は神に仕えるべき存在です。

 キリスト教の祈り

 キリスト教の祈りは、恵みと信実を持って招かれる神に、思いと言葉とをもって近づき、いのちの交わりを持つことによって、まことの神から知恵と力とを与えられる道です。
 イエスは、十字架につけられる前の晩、ゲッセマネの園で、次のように祈られました。
「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ14:36)。
「この杯」は、十字架を意味していました。できたら十字架にかからないようにしていただきたい。しかし、神のみこころを優先してください、とイエスは祈っているのです。そこには、自己中心的な思いを越えて、神の意志を求める心が溢れています。 これが、「祈り」の、根本的な姿勢です。

 主の祈り

 イエスは祈りの模範として、「主の祈り」を弟子達に教えました。
この祈りは二つの部分に分けられています。
前半では、神についてのものです。
神の御名があがめられるように。み国が来ますように。
みこころが私たちの世界にも行われますようにと祈られています。
後半では、私たち人間の事柄についての祈りです。
日毎の食べもの、人間関係の解決、試練からの救いが祈られています。
この祈りにおいても、神へ栄光を帰すことが優先され、
次に人間生活の様々な領域での解決への訴えが続きます。

 聞かれる祈り

 ここに、聞かれる祈りの秘訣があります。即ち、神の御心にかなった祈りであること。それによって、御名が崇められること。イエス・キリストの名によって祈ること。粘り強く、挫折せず、いちずに、熱心に祈ること。
そして、二人であれば両者が、大勢であれば、一同が一つ心になって祈ること。
また、清い心で祈ることです。
 これらの条件を満たしていない祈りでは、神に聞かれない祈りとなるでしょう。また、神は、愛と全知とにより、祈りや願いとは別の最善の道へと導かれることもあります。
使徒パウロは、自分の病気について、その治癒を祈ったことがあります。
この病気がなければ、もっと神のために活動できる、と考えました。
ところが、神からの答えはこうでした。
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。
わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(IIコリント12:9)

 いのりの力

 祈りは、人間のみが行うことの出来る崇高な行為です。
誰でも、神に語りかけることができます。
神は、どんな小さな叫びにも耳を傾けられます。
「あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は祈るがよい。
喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
あなたがたの中に、病んでいる者があるか。
その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈りは、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。義人の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである」(ヤコブ5:13以下)

 

質問「運命について」

質問
不幸な星のもとに生まれる人もあれば、苦しみを知らないような人もあります。神様が愛ならば、何か不公平のように感じます。なぜ苦しみに満ちた不幸な人生を送らなければならない人があるのですか。

 運命をどううけとめますか


 「屋根の上のバイオリン弾き」の主人公テビエを思い出しますが、
あまりにも大きな障害や試練に出くわすと、神様はなぜこんな不幸をお与えになるのだろう。
なぜこんな不幸な星の下に生まれたのだろうと、ついつぶやきたくなります。
 生まれた境遇についてばかりでなはく、
人生の旅路の中で、突然愛する伴侶を失ったり、かけがいのない息子が不慮の死を遂げることもあります。
このような過酷な運命に遭遇すると、なぜ私だけがこんな目にと、自分の運命を呪いたくなることでしょう。
 この自分の力を越えた「運命」の力を、私たちはどのように受けとめればよいのでしょうか。
昔のギリシャの賢人たちは、この問題を霊魂の不滅、生命の流転によって超えようとしました。
いわゆる「輪廻転生」です。
今は不幸な境遇でも、善行を積んでいけが、来世にはもっとよい境遇のもとに生きることが出来るとの考えです。これは一見合理的に思えますが、根拠のない考えです。また、いくらもがいてもしかたがないと、自らの運命を切り開く努力を放棄して、「あきらめ」てしまっている方もあります。
 

 運命の扉を開く方

 聖書では、このことについてどう語っているのでしょうか。
 ヨハネによる福音書九章に「生まれつきの盲人」の話が記されています。
「生まれつき」盲目であった彼は、夜空に輝く星も、野辺の花も、慈愛に満ちた両親の顔も見たことがありませんでした。
そればかりか、神に呪われた者として、社会的にも、宗教的にも見捨てられるという悲惨な運命のもとに生きていたのです。 
彼について、イエスの弟子たちは、この悲惨な運命の原因を親の罪なのか、本人の罪なのかと尋ねます。
しかし、主イエスは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。
ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と答えられました。
 そのような不幸な境遇にある彼の人生の中に、神が介入され、神の業を行われるときに、悲惨な運命の力から解放され、彼にしか果たすことの出来ない使命をはたしながら神の栄光を顕すことが出来ると語られたのです。
そして、キリストは彼の肉体と精神の目を開かれて、すばらしい神の業をあらわされました。

 運命に打ち勝つ人生


 どのような苦難の中にも、神が共にいて下さり、神の栄光への道を備えて下さいます。キリストのみ言葉によって慰められ、励まされ、苦難の中にも、自分の生きる道を見いだして、神の栄光をあらわす生涯を送っている多くのクリスチャンがいることを知っています。
 ゴスペル・ソング歌手レーナ・マリヤ・ヨハンソン(スエーデン)もその一人です。生まれつき両手がなく、左足も右足の半分しかないという重い障害を持ちながら、ステージでも日常生活でも、一片の暗さも見いだすことができません。
彼女はその秘訣をこう言っています。
「肝心なのは、神様が私をどうお使いになるかを知ることです。
そのみこころを注意深く聞き分けて従っていくなら、迷いがなく、何をやってもうまくいくと信じています。たとえ苦しい試練があったとしても、神様は、それをすばらしい恵みへと変え下さることを、
私は知っています」と。

 まことに、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さる」<ローマ8:28>のです。
 今あなたは、過酷な運命の大波に翻弄され、悩みの淵に一人おかれていると感じていらっしゃいますか。神はあなたと共におられます。
そしてあなたの負いきれない重荷を担って、共に歩んで下さいます。神の業を期待しましょう。

 

質問「宗教の本来の姿」

質問
  今日の日本の宗教界のあり様を見ていると、
何か宗教本来のあり方とから逸脱しているようで、
宗教に対して、つい批判的な見方をしてしまいます。
宗教の本来の姿とはどのようなものでしょうか。

 地上に見られる生き物のうち、人間だけに宗教心があると言われています。
確かに、犬や猫が宗教的な行為をしたということを、見聞きしたことがありません。何故人間だけに宗教心があるのでしょうか。
その点について聖書は、人間が神の性質に似せて造られたためであると、教えています。ここに、私たち人間の尊厳があります。

 宗教を定義することは、なかなか難しいことですが、神と人間の関係から言えば、次のように言うことが出来るでしょう。宗教とは、神を見いだし、神を礼拝し、神の命によって、神と共に生きる道です、と。

 人生には、喜びもあれば、悲しみもあります。
楽しい時もあれば、つらい時もあります。成功もあれば、失敗もあります。
単に苦しい時にだけ、神だのみをするのでは本物ではありません。
どんな時にも、神を礼拝し、神に仕えることが大切です。
そのために大切な事は、神を知るということです。
神を知ってこそ、神を愛し、神を信頼する事ができることです。
この神を知る道についての使信を与えようとして、様々な宗教が生まれました。
私たちは、どの宗教を選ぶべきかと言う問題に直面するのです。

聖書によると、人間が造られ、この地上に置かれたとき、神を父として愛し、神に仕えることが、人間にとって無上の喜びでした。ところが、人間は、神の愛よりも、悪魔の誘惑のことばに耳を傾け、彼に従いました。神に仕える事よりも、かえって、神に背を向けました。こうして、罪に落ちた時から、人間は神に顔を向ける事ができなくなり、その心には、暗闇が覆うようになりました。

 しかし、人間の心のうちから、宗教心が失われたわけではありません。
神を求める思いは残っています。礼拝せずに生きる事は出来ません。
そこで、多くの人々は、真の神に代わるものとして、様々なものを拝んできたのです。
太陽や月に手を合わせる人々、山や海や川を拝む人々、
木や石や金属で像を造り、それらを入れるところを造って拝む人々、
また死者を拝むこと、さらには何も拝まないと言いながらも、
自分を全ての基準にして、自分を崇拝する人々というようになりました。
そこに共通している事は、人間の根源的な空虚さを満たそうという願いから、
人間が造りだした神々であり、宗教だという事です。
解決の方法は一つしか有りません。偽りの宗教から、真の宗教へ、
偽りの神々から、真の神に帰ってくることです。

聖書は、神と人間についての三つの重大な真理を教えています。
 一、私たちの不幸の原因が罪にあること。
 二、神は、イエス・キリストによって、私たちを罪から救い出して下さる事。
 三、神の命によって、神と共に生きる真実な人生について。

そして、他の宗教では、すでに死んでしまった創立者の教説に従うように促しますが、イエス・キリストは私たちの罪のために死に、ゆるしを与えるために復活され、今も生きていて、その救いのみ業に信頼するようにと私たちを招かれるのです。キリストに招かれ、罪を悔い改めて、イエスキリストに信頼する者は、聖霊によって全く新しく造られた者となると、聖書は宣言します。

 日光の入らない暗い洞窟の中では、植物が芽を出しても、成長し花を咲かせ、実を結ぶ事が出来ないように、神に愛され、神を愛し、神と共にいるという光がなければ、私たちはどんなに幸せそうに見えても、本当の意味では、幸福もいのちも所有している事にはならないのです。
必要なことは、愛し救って下さる神に、愛と感謝と賛美をもって、従うことです。それこそ私たちの幸せであり、人生の目的です。