歴 史
揺籃期 (1938~1949)
<中国瀋陽(旧満州奉天)で>
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1941年11月、再び中国東北部(満州)に赴任した大槻牧師は、神様の力に満たされて活動し、中国東北部に一大センセーションを巻き起こしていきました。 1942年7月までの9ヶ月足らずの間に228回の集会がもたれ、病気が癒された人は8025人にものぼりました。 写真は当時の集会に集まった人の写真です。 |
<広島県福山市御幸で>
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終戦後、大槻牧師は、焦土と化した祖国の廃墟に立ち、打ちひしがれた人々の心に、キリストの福音を伝えたいと強く願いました。当初は教派や教団を超えて求められるところはどこにでも出かけていき、「内住のキリスト」のメッセージを語っていました。 その後、神様の導きにより、1946年聖イエス会を創立しました。 「キリスト者はキリストのごとく 教会は使徒行伝のごとく」を標語に、小さな教団が産声を上げたのです。 教団の未来を支えるために広島県御幸に聖イエス会ロゴス修道学院(現 聖イエス会ロゴス神学院)が設立されました。 現在、御幸には聖イエス会御幸教会のほか、日本で最初のホロコースト記念館が建設され、平和を学ぶために全国から人々が訪れる場所となっています。 |
<創立の頃~ワン公ハウス>
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1949年、聖イエス会はロゴス神学院を京都に移すことを決定しました。 1950年5月1日大槻武二牧師は、京都市右京区宇多野の現在の場所に、「聖イエス会嵯峨野教会」の小さな看板を掲げました。嵯峨野教会の建物は近所の人からは「ワン公ハウス」(犬小屋)と呼ばれていたほどの小さなものでした。当時の嵯峨野教会の正会員は、大槻牧師の家族を含めて7名でした。 |
<会堂建設>
<聖歌隊の発足>
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嵯峨野教会の活動はいよいよ活発になりました。 1959年には竜安寺バス停前広場で、野外特別伝道集会が開催され、800名ほどの人々が集まり、神様のみ言葉を聞きました。 会堂も手狭となり、最初の教会堂が建てられて7年後、東側に更に大きな会堂が建設されました。 |
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1969年、大槻勝牧師(写真右)が嵯峨野教会主任牧師として任命されました。 さらに1972年には大槻武二牧師は聖イエス会の責任者である「司牧」の職を勇退しました。 それ以降、大槻武二牧師は霊の父として、尊敬の念を込めて、「霊父(れいふ)」と呼ばれるようになりました。 大槻武二霊父は、なお聖イエス会の霊性向上のために指導に尽力したほか、ロゴス神学院での講義を通して後進の指導に熱意を傾け続けました。 |
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創立以後20年の間に、嵯峨野教会の今日の活動の基礎が築かれました。 教会は熱気を帯び、多くのメンバーが加えられました。 また、そのユニークな平和活動は海外からも高く評価されるようになりました。 |
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発展・成熟期 (1977~2006)
<現在の会堂の建設>
<株分けの時代>
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1992年、亀岡市在住の信徒の祈りと献身的な活動によって、聖イエス会亀岡リベカ教会が発足し、嵯峨野教会から株分けされました。 さらに1995年には、洛西ミズラ教会が設立され枝分かれしていきました。(洛西ミズラ教会は2024年に嵯峨野教会に編入)。 写真は2000年の嵯峨野教会創立50周年の記念写真です。 |
現在 (1992~)
<福音と使命を継承して>











