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2014 / 02 / 14  

『豊かとか幸せとか。遊び心とセンスとか。』

 雪が舞ってますね。明後日のお店のカフェマイムが心配ですが、きっと写真のような快晴が訪れると思います!
…今日は14日バレンタインデーでしたね。ギフトもすっかりなくなってしまってすっかり過去のように感じていました。
オリンピックもあって週末おこもりさんが増えそうな寒さです。

 

さて、先日、「豊か」とか「今のニッポン素敵じゃない!」とか書いてしまったのでその真意など付けたしたいと思いマス。

  豊かさというのは…無意識のうちに社会通念から植えつけられた物差しによる影響が大きいと思われます。
 日本はバブルや高度成長の時代に自由競争による資本主義のプラス面を享受しました。経済は右肩上がりで誰でもガンバればそれなりに成功し豊かで幸せに暮らしていける(幻想)。
その時、ボーダーライン設定型の豊か・幸せを追い求める生き方を当たり前に組み込んでいきました。
 偏差値幾つでこの大学に行けたら幸せ。名の通った一流企業に就職出来たら幸せ。ITの実業家の目に留まって玉の輿にのったら幸せ。こういうボーダーラインを設定する病は至るところで自然に発症しました。
 高級住宅地に住むというボーダー。年収ン千万円というボーダー。このクルマに乗るというボーダー。ありとあらゆるこの線越えたら幸せで豊か…という幻想を産み出しました。
しかし、ボーダーラインをこえたらまた新たなボーダーラインが現れて、いつまでたっても満足することはありません。
 何故なら、モノをコレクションした満足感は維持するのが難しいからです。
こうしてコマーシャリズムにコントロールされ、情報に詳しい人ほど、新たな幸せのボーダーラインを次々と見つけるという餓鬼状態に陥ることになりました。そして社会状況が時代とともに変わり今の右肩下がりの社会のなかでは全員が望みを達成することが難しくなっているにもかかわらず、たくさん与えられたボーダーからいくつかでも外れてしまったら不満・不平のココロの状態に…


今のニッポン人の多くがプチクレーマーや立派なクレーマーになっていったのは全て、ボーダーを設定する以前の社会の慣習に乗っかり続けているからではないかと思います。あれが手に入らない、そこにいってみたい、次はこれが欲しい、アイツは持っている、自分は持っていない…
だからと言って、ボーダー設定を全て棄てて生きることなんて現代では難しい生き方です。どうしたらいいんでしょうか?政治は弱い個人を助けてくれそうにありません。いつも政治は強いものの味方だからです。


そこで個人的な提案で、なぜ、自分達が不便な場所でコーヒー屋のお店をやっているかというひとつの答えでもあります。


ボーダー型の幸せや豊かはそれはそれであるとして仕方ないので置いといて、それ以外に既に手にしている、身の回りのそれまで注目していなかった素敵な体験を見つけていく。そんな回路を強くしていく。習慣を大切にする、です。
 

本当にささやかな喜びや、大自然ではなく身の回りの小自然と季節や時間の流れで見る美しさや、日常意識しない自分自身の一人で祝ってもいいこと、身近な人の喜びに乗っかって一緒に喜んだり…、と追い立てられるように仕事やスマホやネットを追い続ける流れをいっときブレークして。なんでもない風景を眺めながら珈琲を一杯(とホットケーキ有りも勿論いいと思います)のココロの穏やかさに徹底的に浸ってみるとか。


おもいっきり息を吸った時にたまたま近くにあつた畑の堆肥の臭いに死ぬほど苦しんで後悔したり。その後、生きてて良かったと冗談で笑えたり。その余韻をしつこく繰り返して楽しんだり。


 見上げた夜空に隕石というラッキーに喜び。願い事を6個も早口で唱えた自分の滑舌におめでとう!!


偏在型の幸せというのは遊び心とセンスでいくらでも見つけて体験することが出来ます。日常、気付いていく回路が開けば。
また簡単な新しい体験をすることでもこんな幸せがあったのかと思うことも出来るかもしれません。

 昔、役者になったばかりの頃、稽古の後、先輩方に連れられ何も知らずに新宿のタイニイアリス(かトップス)の深夜シアターに行ったことがあります。
そこで、やっていたのは小島屋万助劇場。生まれて始めてパントマイムを流れのある作品として生で体験することになりました。
 一番驚いたのはこんなに笑えて、喋ってないのに饒舌!?…ということでした。小島屋さんはその後、一緒に引っ越しを手伝ったり(なぜ?)大吉という赤提灯にいったり少々お付き合いさせていただきました。自分よりスイーツ店長のほうが懇意なお付き合いだったようです。


 例えばそんな作品としてのパントマイム未体験が体験することで映画や舞台や音楽とはまた違うエンターテイメントとして発見していただけるかもしれません。無理強いはしませんが、せっかくの人生という旅で立ち寄らなくてわからない美味しいお店があったら勿体なくないかな?と思ったりもします。ささやかな体験をまたひとつ見つけることになるかもしれません。

 

それにしても、こんなことを思うようになったのは…


何度も書いていてまたかと思われるかもしれませんが、東日本大震災で身の回りの物や土地やブランドや仕事?も、いつでも価値のない不確かな何でもないものになってしまうものだという日常の不確かさ脆さ曖昧さに気づいたからで…

 

また、個人的な経験ですが今年のお正月に久し振りにショッピングモールやお店に行った時に気になることがありました。
 気のせいだったら…自分だけの気のせいならいいんですが。

 

そこで見た風景は。


 必死になって福袋を幾つも手にしている女性の方や、子供達に引っ張られて歩いているお父さんやおじいちゃんおばあちゃん。
 全員じゃないですが、薄い笑顔に感じました。
 一枚下の本当の顔はなんだか幸せそうな顔に見えなかったんです。
 

何で?メデタイお正月に家族や恋人との幸せな時間では?と何がこの人達や自分の行動を支配しているんだろうと…
他の人がそう過ごすから、みんな持っているから…比較によって幸せのボーダーラインを追っていると、本当にこれがうれしくて幸せなひとときなのだろうか?となる方も多いとおもいます。


 自分にとっての幸せとか豊かとかは?
ずーっと何かに流されていては見つけられないのではないでしょうか。
まして自動車を運転しながらスマホでSNSはやめてください。本当に危険です。


まず、みんな一緒というつまらない幻想を棄てて、タブレットや携帯の画面から目を外して。
 取り敢えずなにもしない、考えない時間を持ってみてはいかがでしょうか。
モノのなかに豊かは宿ってはいません。
たぶん自分のココロのコントロールのなかに空気のようにあるのかもしれません。
 通りすぎないようにノンビリ注意深く、遊び心で探索してみて下さいね。
 最近はそうやって、コーヒー屋をしながら…そのなかに小・小劇場を作っていきながら…いろんなことを新鮮に遊んでいます。